ガリレオ 工房。 ガリレオ工房

クイズ&パズルでわかる数と図形のナゾ: AI時代を生きぬく算数のセンスが育つ (子供の科学STEM体験ブック)

ガリレオ 工房

ガリレオ・ガリレイの肖像がデザインされている2000リラ紙幣 ガリレオ・ガリレイ(: Galileo Galilei、 - )は、の、。 を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。 また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学を学ぼうとで学んだが 、やの本を読むうちにやへと関心が移った。 そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、やの研究などで頭角を現し 、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師 、1592年~1610年にはの(および天文学などの)教授として勤務。 ()分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。 方向に落下する物体。 英語では「falling body」)の運動法則の「(数学的)定式化」(英語で「mathematical formulation」と呼ぶプロセス)を完成させた。 自然現象に対して、数学的手法およびを用いて迫り、(仮説を)によって検証するというガリレイの方法は 、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった。 天文学分野では、みずから改良したを使って木星の衛星、月面の凹凸(=)、太陽のなどのを発見し、『』( Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した。 1610年に「付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマの ()会員となった。 主著の『 ()』 Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『 ()』 Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはで書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、彼自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である。 名前 [ ] 地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。 の第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる。 なおイタリア語が分かる人にとっては、彼の名は当時のヨーロッパの文化を反映した、的な名前であり、「Galileo」は「の人()」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。 を付けた単数形 「 il Galileo 」はにとっては、(ガリラヤ生まれの人である)を主に指す、婉曲表現である。 イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、、(ダ・ヴィンチ)、、、(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。 ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] ガリレオは1564年、(Vincenzo Galilei)を父、ジュリア・アンマンナーティ()を母として、領で誕生した。 父のヴィンチェンツは生まれの、禄高は微々たるものだったが一応は貴族の出身者で 、生業(生活費を得るための職業)としては呉服商を営んでいたが 、学の研究者やとしても名が知られた人物であった。 母は生まれであった。 2人はに結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長男のガリレオが生まれた。 この後、ガリレオには4人、2人ができた。 なお弟のひとり ()( - )は父のように音楽方面で活躍し、奏者、として名を残した。 父ヴィンチェンツォはので数的な記述・分析を重視する手法を用いた。 これがのちに息子ガリレオが運動研究でとった数的な手法に影響を与えることになった、と指摘されている。 学業と業績 [ ] 、ガリレオはに入学するが、に退学。 1582年ごろからトスカーナ宮廷つきの ()にやを学び、にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。 にピサ大学の教授の地位を得て、を教えた。 1624年のデッサン 前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、息子のガリレオは、物体の運動の研究をするときに(父にならって)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。 このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。 彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパにはなかったと考えられている。 さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考えるときにアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験を行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法をとったと一般に考えられている。 それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。 フィレンツェでのガリレオの家 信仰の篤いガリレオは、2人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei、 - )とリヴィア(Livia、 - )を幼いうちに ()のに入れた。 ヴィルジニアはにとなりマリア・チェレステ()と改名した。 この名はの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたもので、Celesteとはイタリア語で「天」のことである。 マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通が、ガリレオの死後に彼の文書の中から発見され現存している。 リヴィアはにとなりアルカンジェラと改名した。 息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio、 - )はに父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ(Sestilia Bocchineri)と結婚した。 晩年 [ ] 晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。 ()による肖像画。 当時(イタリア)の権力者たちの権力争いの渦 に巻き込まれる中で、次第に敵を増やす形になってしまい 、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にで追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、状態での生活を送ったりすることになった。 職を失い経済的に苦境に立たされ、齢も重ねたガリレオは病気がちになった。 これを知ったは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。 追い打ちをかけるように、ガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。 さらに1637 - 1638年頃には失明した。 フィレンツェのにあるガリレオの墓 しかし、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に77歳で息を引き取った。 年譜 [ ]• イタリアの郊外で音楽家で呉服商のの長男として生まれる(当時、この地は領だった)。 に入学(医学専攻)。 ピサ大学退学。 家族でに移住。 最初の論文『小天秤』を発表。 初めてを訪問。 当時の碩学を尋ね、教授職の斡旋を願う。 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。 父ヴィンチェンツォ死去。 ピサ大学の職が任期切れになる。 (が捕縛される。 (現在のイタリアの一部)の教授(6年契約)となり移住。 このころ、落体の研究を行ったとされる。 宛の手紙で、を信じていると記す。 パドヴァ大学教授に再任。 このころ、マリナ・ガンバと結婚。 1男2女をもうける。 ( 、により火あぶりの刑になる。 からトスカーナ大公の息子の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。 (1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)での発明特許紛争。 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。 ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。 以後天体観測を行う。 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。 木星の衛星を発見、「(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。 これを『』( Sidereus Nuncius)として公刊する。 このころから、地動説へ言及することが多くなる。 (ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。 『論』を刊行。 1613年ごろ マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。 1613年ごろ 娘2人を修道院に入れる。 地動説をめぐり修道士ロリーニと論争となる。 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう注意を受ける。 の『』がローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。 『贋金鑑識官』がへの献辞をつけて刊行される。 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に居住。 『二大世界体系についての対話( Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』(日本語版は『 ()』)をフィレンツェで刊行。 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。 のピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。 アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。 片目を。 翌年、両眼を失明。 以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。 オランダで『新科学対話』を発刊。 口頭筆記には弟子のが行った。 晩年 を発明。 図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。 アルチェトリにて没。 業績 [ ] 天文学 [ ] 『』(1623年)。 が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。 またこの書でガリレイは、という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。 ガリレオはをもっとも早くから取り入れた一人である。 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に1日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。 これを用いて1609年に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に、そして黒い部分(ガリレオはそこをと考えた )があることを発見した。 現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はと呼ばれている。 月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。 また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。 その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はと呼ばれている。 これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者( Sidereus Nuncius)』として論文発表された(この論文には3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。 この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由はを参照)。 そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。 晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えないわりには、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。 金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返すうえに、大きさを変えることも発見した。 プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。 この場合、金星は地球から常に三日月型にしか見えないはずであった。 これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった。 さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。 これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった。 ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。 ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある [ ]。 なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている。 ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでにを信じていると記しているが 、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。 おもにこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。 そのほか、が無数のの集合であることなども発見した。 物理学 [ ] Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊 で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。 ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。 この法則を用いて晩年、を考案したが、実際には製作はしなかった。 ガリレオはまた、落体の法則を発見した。 この法則はおもに2つからなる。 1つ目は、物体がするときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。 2つ目は、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。 その方程式は次のようにあらわされる。 この有名な故事はガリレオの弟子(Viviani)の創作で、実際には行われていないとする研究者も多い。 このエピソードに先立ってすでに「落下の法則」を発見していたオランダ人のの実験と混同して後世に伝えられることになる。 よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。 実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。 斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくため、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。 この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。 アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。 ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのかというような反論を行っている。 科学革命 [ ] ガリレオは、、、と並び、の中心人物とされている。 読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。 ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にも(ラテン名アルハゼン)、、などがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。 また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。 有名な失敗 [ ] 彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。 同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。 ここでは主なものを挙げる。 が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。 その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。 ケプラーの『』が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった。 地動説の証拠としてを挙げた。 実際には月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。 ガリレオ自身は潮汐こそが地動説のもっとも重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。 もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。 ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。 光速の測定を試みた。 遠く離れた2地点で、aがランプのカバーを外し、aのランプが明るくなったのを見たbもランプのカバーを外し、aが自分がランプのカバーを外してから、bのランプが明るくなるまでの時間を計測するというものである。 当然ながら光速が速すぎて失敗した。 その他のおもな業績 [ ]• 「小天秤」• 関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。 また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。 ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた。 裁判 [ ] ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ ガリレオが地動説を唱え、それを理由にから有罪判決を受けたことはかなり有名である。 このことから、当時地動説を唱えるものはすべてとされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。 しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもの本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている。 第1回の裁判 [ ] ガリレオが地動説について言及し始めると、ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前のが名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。 このの担当判事はだった。 このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である。 その内容は、次のようなものであった。 「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。 さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。 この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。 」 しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している。 第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」 と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。 この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。 第1回裁判の直後、、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。 ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。 第2回の裁判 [ ] 、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。 この書は、と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。 ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた。 『天文対話』は、、フィレンツェで印刷、発行された。 翌、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。 被疑は、の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。 ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。 ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており 、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。 さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。 ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、ほかの書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった。 裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した。 しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。 この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。 しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。 第1回の裁判の担当判事ベラルミーノはに死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった。 この結果、ガリレオは有罪となった。 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった。 裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。 ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないが、なかったとは言い切れないと答えている。 1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった。 当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿(Maffeo Vincenzo Barberini)がローマ教皇となっていたが、教皇の保護はなかった。 一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある。 この説には物証がないが、当時から広く信じられている。 さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。 そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。 1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。 残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。 もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。 ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている。 なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった。 有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。 ローマ ミネルヴァ修道院 1633年6月22日 故ヴィンツェンツォ・ガリレイの息子でありフィレンツェ在住、年齢70歳、この裁判所に召喚され、高貴なる枢機卿及びキリスト教世界全体の異端の罪を問う審問官の前にひざまずいております私、ことガリレオ・ガリレイが……検邪聖省により、世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽であるという思想を信じ、説いているのは、強い異端の疑いがあると糾弾されました。 私は猊下及び、この説で私に不信を抱いた敬虔なキリスト教徒に対し、その強い疑いを晴らすことを望み、誠実かつ心よりの信仰をもって、前述の誤りと異端の教えを放棄し、嫌悪いたします……そして今後は決して、口頭でも著述でも、同様の疑いを抱かせることを表現しないことを誓います。 — ガリレオ・ガリレイ、『新科学対話』 その後につぶやいたとされる ()という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。 また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくで言った [ ]という説もある。 「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経ったに出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。 彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m u ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。 裁判以後 [ ] ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった。 しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。 すべての役職は判決と同時に剥奪された。 『天文対話』はに載せられ、1822年まで撤回されなかった。 死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。 ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。 しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は3月12日にフィレンツェので行われた。 裁判の影響 [ ] この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。 フランスのは、 (タイトルは『世界論』などと訳されている)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『』(1637年刊)に記している。 当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったため、イタリア外では影響はあまりなかった。 裁判の検証 [ ] この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた。 第1の大きな疑問は、の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること、第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。 Giorgio di Santillanaらによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。 もちろんこれをただちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている。 ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのかいまだにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。 このほか、次のような説もある。 そもそも、1616年の裁判は存在しない。 これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。 この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出るということをガリレオに伝えるためであった。 その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下したという噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらったという。 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したもので、同席者がいたことはガリレオも認めている。 ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。 また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。 1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判のなりゆきに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。 しかし、結局ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。 ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた。 ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。 これが結果的にはガリレオを異端者として扱う根拠になったとされる。 実際、ウルバヌス8世はガリレオを当初は支持していたが、ガリレオが研究を重ね宗教論に基づかない科学的理論を広めるようになると、掌を返したかのようにガリレオを非難するようになった。 ガリレオを有罪とするようにウルバヌス8世が直接命令を下したとも言われている。 ローマ教皇庁の対応 [ ] にローマ教皇がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。 最終的に、ローマ教皇は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。 ガリレオの死去から実に350年後のことである。 9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。 1月16日の『』によると、が17日にイタリア国立での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。 その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、やが定めた「2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、を改めて公式に認めている。 その他 [ ] ガリレオの文章の評価• 作家は、『なぜ古典を読むのか』『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』で、文章の文体を賞賛し、ガリレオを文人(詩人)としてとらえている。 ガリレオをしのぶ作品や博物館• (作品)ドイツの作家は1947年に、戯曲『』(訳、)を書いた。 『戯曲ガリレオ 英語版』(笠啓一訳、績文堂出版、2009年)もある。 (博物館)フィレンツェにはがあり、ガリレオの残したノート類やガリレオが用いたさまざまな道具の実物などが展示されている。 紙幣で肖像を使用 イタリアでは、からまで発行されていた2,000紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。 おもな著書 [ ]• 『』( Sidereus Nuncius 1610年) ・訳、 伊藤和行訳、講談社学術文庫、2017年。 『太陽黒点論』(1613年) 上記の岩波版に併録、訳名は「太陽黒点に関する第二書簡」。 『贋金鑑識官』(1623年) 山田慶兒・谷泰訳 『 ガリレオ』/(新版)、2009年• 『天文対話』もしくは『二大世界体系にかんする対話』(1632年) 訳、岩波文庫(上下)• 『 ()』(1638年) 『静力学について ガリレオ・ガリレイの「二つの新科学対話」』 加藤勉訳、、2007年• 『レ・メカニケ』(執筆:1599年頃、仏訳出版:1634年、原本出版:1649年) 解説・訳 『世界の名著 ガリレオ』中央公論社 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• ただし、本当に誠実なやりかたでデータをとったのかどうか、という点に関しては怪しい点があるらしい。 つまり自分の説・仮説に合うようにデータをいじっていたらしいとブロードやウェイドによって指摘されている。 つまり「自然科学の父」と呼ばれるような人がすでに、現代で言う「」に相当するようなことを行っていたのであり、不正行為の問題が20世紀になってにわかに始まったかのような印象を持つのは適切ではなく、実は自然科学はつきつめればその父(開拓者)まで腐っているような、かなり根深い問題だとブロードやウェイドは指摘しているのである。 (出典:W. ブロード, N. ウェイド『』講談社、2006)• イタリアのたち同士の激しい争いや、そうした貴族の中から選ばれる、極めてきわどい立場のの思惑など、ドロドロの権力争いや様々な。 も同様の考えを持っており、最初に mareと命名した。 p61によれば、現代の伝記作者の多くは、この実験は伝説だと考えているが、ドレイクは真実だとしているという。 また、佐藤 2000 は、ガリレオがピサ大学時代に行った、ということにしている。 マクラクラン 2007 は、『新科学対話』の記述から、少なくとも1回は実験を行ったと述べている。 一方、この実験が行われていないという主張を広めたのはアレクサンドル・コイレである(コイレ 1988 pp. 466-467)。 20-22も、ヴィヴィアーニの記述は真実ではないとしている。 結果としてそれは1664年に出版された。 p222,259,260によれば、偽造したものだと唱える人物として、ヴォールヴィル Wohlwill やベレッタ Beretta がいる。 ファントリ自身は、この文書は真正なものだとしている。 当該説教の日本語翻訳文が、教皇関連ページのに掲載されている。 出典 [ ]• 小学館『』 ニッポニカ 、「ガリレイ」• なお、「近代科学の父」と呼ばれるのはガリレオだけではなく、他にももそう呼ばれることがある。 p78• 『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)154頁• 1『数学と理科の法則・定理集』アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)55頁• p24• p24• p64• p54• p61• 最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p65• p69• p42• p51など• p35• 『すごい物理学講義』河出文庫、2019年、P. 234。 26-27• p74• 32-33• p120• p122• p122~123• p123~124• p124• 337-338,343• p160• 340-341• 217-218• p116• p160• p245• p423• 189-190• p255• p481• p450• ガブリエル・ウォーカー『大気の海 なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか』渡会圭子訳、、東京都、2008年、20頁。 Crew and A. de Salvio New York : Macmillan,1914。 原題は Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze. 『新科学対話』,ガリレオ・ガリレイ著,今野武雄,日田節次 訳,岩波書店,1937 から参照した。 346,文献中注釈第1章2 参照• p99• p257• 田中一郎 2015-1020. ガリレオ裁判-400年後の真実. 岩波書店. 206. p257• 499-500• p264• 229-231• p506• 143-144• 『なぜ古典を読むのか』訳、、2012年4月5日。 『カルヴィーノの文学講義 - 新たな千年紀のための六つのメモ』訳、、1999年4月。 参考文献 [ ]• 青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』、1965年。 佐藤満彦『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』、2000年。 W・シーア、M・アルティガス『ローマのガリレオ 天才の栄光と破滅』、柴田知薫子訳、大月書店、2005年。 アンニバレ・ファントリ『ガリレオ コペルニクス説のために、教会のために』大谷啓治監修、須藤和夫訳、、2010年。 ジェームズ・マクラクラン『ガリレオ・ガリレイ 宗教と科学のはざまで(オックスフォード科学の肖像)』野本陽代訳、、2007年。 『学習漫画 世界の伝記 〔26〕 ガリレオ・ガリレイ』、1992年。 責任編集『世界の名著26 ガリレオ』、1995年。 『物理学読本』、1981年、第2。 伝記・研究文献 [ ]• 『ガリレオの弁明』訳、、2002年。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 1』田中一郎訳、、1984年。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 2』田中一郎訳、、1984-85。 スティルマン・ドレイク『ガリレオの生涯 3』田中一郎訳、、1984-85。 田中一郎『ガリレオ 庇護者たちの網のなかで』、1995年。 高橋憲一『ガリレオの迷宮 自然は数学の言語で書かれているか? 』、2006年。 『人類の知的遺産31 ガリレオ』、1985年。 著作の訳が一部ある。 『ガリレオ研究』菅谷暁訳、〈叢書ウニベルシタス〉、1988年。 ジャン=ピエール・モーリ『140 ガリレオ はじめて「宇宙」を見た男』田中一郎監修、遠藤ゆかり訳、、2008年。 デーヴァ・ソベル『ガリレオの娘 科学と信仰と愛についての父への手紙』田中一郎監修、田中勝彦訳、、2002年。 アルフレッド・エンゲルベルトヴィッチ・シテクリ『ガリレオの生涯』松野武訳、東京図書、1977(新版1986)。 関連項目 [ ]• - 実験で有名な、ガリレオの晩年の弟子• - ガリレイの名を冠したピサの空港• 外部リンク [ ] イタリア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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ガリレオ工房の科学マジック / ガリレオ工房【編著】

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「ガリレオ」命名の意図 [編集 ] 元々の名前は「物理教育実践検討サークル」であったが、サークルの活動についての書籍『物理がおもしろい!! 』が出版されるにあたって 、覚えやすい「ガリレオ工房」に改名した。 「ガリレオ工房」はからとったが、やではなくガリレオを選んだ理由として滝川洋二は以下の理由をあげている。 ガリレオが自分の研究を示した『新科学対話』『天文対話』はその名の通り対話形式をとって書かれており、明らかに科学を市民にわかりやすく説明しようとした意図をもっていたこと。 ガリレオが、当時科学書を書くときに一般的だったではなく、をもちいて書いていたこと。 ガリレオが技術や職人技を評価していたこと。 ガリレオが望遠鏡を自作したことからわかるように、技術から学んで科学を作るという意思をもっていたこと。 また工房については、「実験をやる、新たな工夫をする場所」を意図して加えた。 歴史 [編集 ] 前史 [編集 ] の大学院生であった滝川洋二は、のなどが中心となって運営していた「物理教育研究会 APE 」に参加した。 そこで「学習指導要領」の作成についてあまり熱心に議論されていないことを知り、理科教育の専門家が必要なことを痛感することになった。 滝川は、1979年よりで物理を教え始め、またの博士課程に進学し、理科教育の研究を始めた。 博士研究のため、高校での授業で実践を行う一方で、などが中心となって運営していた「理科授業研究会」、が主催していた「」など理科授業の研究会に参加し、議論を深めた。 これらの授業研究会に参加するなかで、興味深い実験を行っている研究会をヒントに 、1986年1月、「物理教育実践サークル」を結成した。 立ち上げ期 [編集 ] 滝川は、意欲的な中学、高校の理科教師に片っ端から声をかけた。 、立教新座中学校・高等学校の教師の古田豊 、富山県で理科教師をしていたなどもガリレオ工房のメンバーであった。 滝川によると、ガリレオ工房での実験紹介を通じて頭角を現してきたのが、であったという。 一時期、毎回の例会が1〜2時間にわたって米村がワンマン実験ショーを行う「米村でんじろう講座」と言ってもよい状況となった。 理科離れに対する意見表明 [編集 ] 1992年にガリレオ工房の例会で「1989年に改訂された学習指導要領に基づいて作られた教科書では、中学3年の電流と磁界の単元が、以前は30ページだったものが9ページになっている」と報告があった。 これをうけて、滝川が中心となり日本物理教育学会の学会誌などで義務教育での理科教育の減少を指摘し始めた。 1994年、、、が合同で「文部省にこれ以上理科を減らさない」よう提言を行ったことにつながった。 また同年、これまでの活動に対してを受賞した。 主な活動実績 [編集 ] 青少年のための科学の祭典 [編集 ] 1992年よりと日本物理教育学会の共催で「青少年のための科学の祭典」が始まった。 これはガリレオ工房の初期メンバーであったが始めた前年のイベントが元になっており、ガリレオ工房が全国の理科教師に参加を呼びかけて運営協力を行った。 海外での活動 [編集 ] アメリカの 科学教育者協会 ()の全国大会に1994年から1999年ごろまで毎年参加し、ワークショップのブースで実験の披露を行っていた。 2002年、韓国で開かれた「科学の祭典」にガリレオ工房のメンバー5名が参加している。 途上国での理科教育支援 [編集 ] としてに理数科教師として派遣された経験をもつ理科教師の大原ひろみが中心となりより、「ガリレオプロジェクト」として始めた。 ガリレオ工房の本の収益および企業の寄付などで一部費用をまかない、現地で手に入る実験材料での実験授業の普及に務めた。 主な監修実績 [編集 ] テレビ番組 [編集 ]• 映画 [編集 ]• 監修書籍 [編集 ]• 『コロンブスより上手な卵の立たせ方』 河出書房新社〈KAWADE夢新書〉、 1996年。 ISBN 978-4-30950115-4。 『科学の常識が面白いほどわかる本 : "身近な不思議"に答える大人の科学ドリル』 河出書房新社〈KAWADE夢新書〉、 2006年。 ISBN 978-4-30950322-6。 『ガリレオ工房の科学マジック』 新星出版社、 2011年。 ISBN 978-4-40507136-0。 ISBN 978-4-52280125-3。 外部サイト [編集 ]• 脚注 [編集 ] 注釈 [編集 ]• , p. , p. , p. , p. 218. , p. , p. 440. , p. 参考文献 [編集 ]• 『物理がおもしろい!! 』 滝川 洋二、日本評論社、 1995年。 ISBN 978-4-53578216-7。 後藤 道夫「「青少年のための科学の祭典」の目指すもの 地域における科学普及活動 」、『化学と教育』第45巻第8号、日本化学会、 1997年8月20日、 440-441頁、。 杉木 優子「ガリレオ工房の科学がおもしろい--第2のスタ-ト--サイエンスプロデューサーをめざして」、『数学セミナー』第37巻第8号、日本評論社、 1998年8月、 62-65頁、。 大原 ひろみ「ガリレオ工房の科学がおもしろい--ガリレオプロジェクト in KENYA」、『数学セミナー』第37巻第12号、日本評論社、 1998年12月、 60-64頁、。 「ガリレオ工房の科学がおもしろい--ガリレオ工房の夢」、『数学セミナー』第38巻第3号、日本評論社、 1999年3月、 66-70頁、。 滝川 洋二 2003. どうすれば「理科」を救えるのか. 亜紀書房. 978-4750502045. 「科学実験の達人 滝川洋二vs. ビートたけし」、『新潮45』第30巻第10号、新潮社、 2011年10月、 216-227頁。

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