ランドセル 大正 天皇。 【保存版】ランドセルの名前の由来とは?歴史や意味もご紹介!

【保存版】ランドセルの名前の由来とは?歴史や意味もご紹介!

ランドセル 大正 天皇

なんで小学生はランドセルを持っているの? 本日の4つめ目の話題。 チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番子育て経験豊富なステキな大人ってだーれ?」 両手を挙げてにやにや変顔の田中美佐子さんが自ら回答者に。 子育ての話題から小学校の話題。 チコちゃん「なんで小学生はランドセルを持っているの?」 田中さん「猫背対策!」 正解に至らず、叱られちゃいました。 千葉さん「転んだ時のあたまのガード。 」 などの答えも不正解。 チコちゃんの答えは、「学習院が採用したから。 」 学習院が採用したから 天皇陛下が通われていた事でもお馴染の学習院。 その初等科 小学校 がランドセルを導入したのがきっかけ。 小学校のカバン=ランドセルとう文化が定着。 明治10年に開校された学習院。 華族 当時の上流家庭 の教育を目的としながら平民の入学も許可されていました。 しかし、華族は、通学時に馬車で通って使用人に荷物を預けます。 平民は、風呂敷で勉強道具を自ら持ち運びます。 このように家庭環境の差が激しかったのです。 これに対して学校側は「学校は皆平等。 家庭環境を教育の場に持ち込むのは良くない」との考え。 そこで、学習院の生徒は学用品を自分の手で持ってくるという校則を発令。 この際に中学3年生以下の生徒に対し共通の通学カバンを採用。 それが当時日本の軍隊で使われていた「背のう」。 布製のカバン(リュックサック)。 両手が使えて容量も大きかったので学生にはピッタリ。 こうして学習院開校から8年後の明治18年。 学習院の生徒は背のうを背負って歩いて通学するのが普通に。 そしてこの背のうが転じてランドセルと呼ばれるようになりました。 その語源はオランダ語のランセル。 背のう自体がオランダから持ち込まれたものだったそう。 現在の箱型のランドセルになったきっかけ 今では箱型が定番のランドセル。 そのきっかけは、明治20年にのちの大正天皇が学習院初等科にご入学時。 その際に、当時の総理大臣・伊藤博文が特注の背のうを献上されたのが始まり。 同型のものが今でも学習院に保存。 サイドに筆箱を収納できるスペースがあったり、フタが上に開く構造だったり。 100年以上経過した現在でも基本的なスタイルは類似。 そしてこの学習院型ランドセルが全国に普及したのは昭和30年代。 当時、高度経済成長期で一般の家庭も豊かになりました。 高価な革製の学習院型ランドセルにも購入できるようになったこと。 また、この頃に増えた勉強道具や教科書に対応するために、頑丈で容量の大きいカバンが求められたことから。 そして同じ頃に黒に加えて赤のランドセルも全国に普及。 男の子は黒のランドセル、女の子は赤のランドセルという定番に。 なぜ赤いランドセルが生まれたのか? 当時の染色技術では牛革をムラなく染めるには黒か赤しか無かったから。 その後に染色技術が進んだことでカラフルなランドセルが登場。 他にランドセルが根付いた理由として、両手が空くので安心・安全・便利というのが第一。 その他、両肩で背負うので体への負担が少なく、後ろに転んでもランドセルがクッションに。 このように頭を打たないようにというガード的な役割も。 「重いランドセルが逆に子どもの負担になるのでは?」という懸念も。 そこで、現在では、今では1kgを切るような軽量型のランドセルも販売されているとのこと。 結論 というわけで、 「なんで小学生はランドセルを持っているの?」は、 「学習院が採用したから」 でした。 塚原アナから補足 各国の通学カバンの紹介。 イギリス「サッシェル」 ハリーポッターの映画でも使用されていたそう。 中国「ツーパオ」 ドイツ「ランシェン」 解説してくれたのは 日本鞄協会 ランドセル工業会会長の林州代さん。 今回も最後まで読んでくれてありがとう。 他の記事もよろしくね。 過去放送日別一覧ページ.

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なんで小学生はランドセルを持っているの?→学習院が採用したから。のちの大正天皇のご入学時に当時の総理大臣伊藤博文が特注の背のうを献上されたのが始まり。

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ランドセルの語源はオランダ語 まず、はじまりのランドセルはオランダから伝わりました。 「Ransel」という名で、背負いカバンが伝来したんです。 幕府陸軍に備えたもの、とのことなので、1850~1860年代ですね。 本来の読みとしては、ランセルとラヌセルの中間あたり。 それが度重なる日本語訛りで、ランドセルになったといわれています。 が、伝来時のランドセルは、現状のランドセルに似て非なるもの。 形状の面影さえありますが、素材は全くの別物でした。 オランダ語 NL版 更なる強度を求めて革製へ さて、オランダからもたらされたランドセル。 これは本来、日本が兵隊制度を導入する際、将兵の携行物を収納するための装備品として伝わったものでした。 過酷な業務を行う、兵隊の愛用するカバン。 求められるものは、様々な状況でも利用できる耐久性。 そのため、素材が布から、吸湿性・通気性・耐熱性に優れる革へと変化していきました。 また、革製となったランドセルは、その利便性から下士官以下の陸軍兵士にも普及していったようです。 あの独特の形状は、軍での仕様に耐えうる携行性を追い求めた結果なんですね。 スポンサードリンク 偉い人がランドセル背負っちゃった ランドセルが小学生へと普及するきっかけとなる出来事があったのは、1887年。 かの伊藤博文が、当時皇太子であった大正天皇に、小学校への入学祝として、陸軍将校のランドセルを模したカバンを送ったんです。 当時、「教育の場での平等」との理念から馬車・人力車による登校を禁止されたばかりで、小学生はカバンを背負って登校するようになっていました。 が、当然リュックサックのようなものばかり。 そこに、多大な影響力を持つ皇太子が、今の形のランドセルを背負ってくる。 となると、富裕層がそれに倣ったカバンを作らせるのは当然の流れでしょう。 とはいえ、当時はまだまだ経済的に潤っているともいえず。 殆どの学生は、布製のショルダーバッグや風呂敷などが主流でした。 映画でも良く見るやつ。 高度経済成長も後押し まさに牛歩、徐々にランドセルは浸透していったものの、あくまで高級品。 一般庶民に長らく手が出ない日々が続きましたが、およそ70年後の1950年あたりに、状況は一変します。 敗戦により、一度は壊滅的な被害を受けた日本も、爆発的な復興により、戦前以上の経済力を得て。 そのままの勢いで、高度な経済成長を続けました。 一般庶民の生活レベルが大きく上昇し、どの家庭にもそれなりの余裕が出てくる。 すると、今度は庶民層が富裕層の真似をして、革製のランドセルを導入するのです。 で、瞬く間にランドセルが普及。 背景を考えると、ランドセルじゃない、というだけでイジられるのは明白なので、子供にランドセルを買い与えるのは半ば義務のようになっていたでしょう。 スポンサードリンク ランドセルの歴史は長いものの歴史 以上、ランドセルの語源や歴史でございました。 皇太子• 富裕層• 一般層 と、まさに「長いものには巻かれる」行為を繰り返した結果、一般家庭に根付いた文化だったんですね。 昨今の「ランドセルをファッションに取り入れる」とかいう外国での流れに違和感を感じていました。 が、結局日本のランドセルも、普及する流れとしては他人からの影響と見栄。 笑ってる日本人の方が滑稽だったっていう。 なんとも皮肉な感じ。 あ、ちなみに「ランドセル」は日本独自のものなので、英語表記で「randoseru」らしいです。 横文字なのに、英語にするとローマ字表記ってとんでもない違和感。 関連記事•

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チコちゃんに叱られる!小学生がランドセルを持つのはなぜ?5月8日

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は 嘉仁(よしひと)、は 明宮(はるのみや)。 は 壽(じゅ)。 の唯一成人した皇男子(三男)として生まれたが、生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。 幼年期の個人授業の後、初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中退。 8歳で、11歳でとなる。 皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経てと結婚し、後のはじめ4人の皇子を儲けた。 また、皇太子時代には沖縄を除く各道府県を巡ったほか、1907年には史上初の皇太子の海外渡航としてを訪問した。 1912年、明治天皇の崩御にともない天皇に即位する。 しかし政治経験に欠けていたことと生来の気まぐれな性格から、不用意な言動がしばしば政治的混乱を招き、臣下からの信頼を得るに至らなかった。 こうした中、次第に健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになる。 (大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところになり、(大正11年)、がに就任し、療養生活に入った。 しかしその後も体調は回復せず、1926年、に伴うにより、47歳で崩御。 漢詩を趣味とし、歴代天皇の中で最多の1367首の漢詩を詠んでいる。 1890年、皇太子嘉仁親王、 伝統に従い里子として12月に中山忠能邸に移る。 しかし忠能とその妻・は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいたを中心に親王の養育が行われた。 慶子は「第二の御奉公」として親王の世話に没頭したが、親王の健康はなかなか良くならなかった。 主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった。 1883年(明治16年)からを宮内省御用掛として『』などの購読や習字を開始する。 1885年(明治18年)3月、中山邸から青山御所赤坂仮皇居内の新御殿に移った。 小学校入学の年齢になっても病気がちのため、青山御所内に御学問所を作り個人授業を行うこととなり、が傅育官(教育係)に任命された。 しかし規則に縛られることを嫌う性格から、授業の内容が気に入らないと授業そのものを投げ出してしまうことがあった。 (明治20年)8月31日、満8歳になったのを機にかつ、の実子と定められる。 同年9月から予備科に通い始めた が、(明治21年)は病気がちで、4月からにかかり学校を3ヶ月休み留年した。 この頃の学業成績は、・・・実物()・・遊戯()が概ね良好であったが、唱歌は普通、は良くなかった。 (明治22年)2月、青山御所から内の東宮御所(「花御殿」と呼ばれた)に移る。 同年11月3日にが行われ皇太子になるとともに、陸軍歩兵少尉に任官 、を与えられた。 立太子後、皇太子の教育体制は軍事色が強まり、(明治24年)にはが設置され陸軍少将が就任し、奥は翌年1月に東宮太夫も兼務。 身の回りの世話からが排除されたが、軍人に囲まれる生活で皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定となっていった。 1891年11月、軍事教育が遅れていることから中尉への昇進が翌年11月へ延期となる。 なおその後は規定年限に沿って昇進した。 (明治26年)学習院初等科を卒業し、中等科へ進学。 しかし(明治27年)8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され 、中等科1年修了をもって学習院を退学した。 明治20年代後半から皇太子の静養を目的に各地に御用邸((1893年築)、(1894年築)、(1899年築)、(1904年築))が建てられ、以後、これらの御用邸に長期滞在するようになる。 1895年5月には、、に罹り、さらに軽いで重体になり、11月まで寝込む。 なお、この頃、柳原愛子を乳母だと思っていた皇太子は彼女に厳しくあたり、実母であると明かされても、なかなか信じようとはしなかった。 皇太子の勉強の遅れを取り返すため、1895年以降、国学(和歌・作文・歴史・地理)を担当する、漢学(漢詩・漢文)を担当するが東宮職御用掛、次いで東宮侍講となった。 このほかフランス人フランソワ・サラザン、三田守真がを講義した。 ほぼ休みなく詰め込み教育が行われたが、それが皇太子の健康を悪化させるという悪循環が繰り返された。 (明治31年)、を組閣したは、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した。 これを受けが東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かったが東宮賓友に任じられた。 さらに翌1899年(明治32年)5月、有栖川宮威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられると、それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた。 結婚 [ ] 東京国立博物館表慶館 皇太子妃選びには明治天皇の側近であり、、の養育主任であった が大きくかかわっていた。 1891年頃から皇太子妃選びが始まり、妃候補となるやの娘が昌子内親王、房子内親王の遊び相手として赤坂離宮に招かれた。 なお、明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えていた。 まもなくが有力候補となり 、1893年春、佐佐木は禎子女王が皇太子妃に相応しいと宮内大臣に伝え、学監のも推薦。 これを受け、明治天皇は同年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した。 しかし(明治31年)になると、天皇の侍医であるやが禎子女王に肺病の疑いがあると言いだし、侍医局長も結婚中止を具申。 これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け 、3月22日に婚約内定が取り消された(大正天皇婚約解消事件)。 その後、他の妃候補の検討が進められたが、体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により九条節子が妃候補に浮上。 1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した。 (明治33年)2月11日に皇太子と九条節子の婚約が正式決定し発表された が、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった。 しかし3月に侍医や伊藤博文らによる会議で、皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし 、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。 そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された。 挙式はので神式により行われた。 皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった。 結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「表慶館」やの日本人移民から贈られたアメリカ製のもあった。 1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。 左端は侍従 有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した。 第一回目は1900年10月から12月にかけて行われ、・・・各県とを行啓した。 その後、・・を訪問する予定であったが、皇太子は途中滞在したで体調を崩し、静養の後に帰京した。 続いて1902年5月から6月に、の見学として、・・・各県を行啓。 当初はさらに東北6県とも訪れる予定であったが、皇太子が体調を崩したため中止となった。 これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。 しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され 、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。 そこで有栖川宮は自分の役割は終わったとして、(明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。 明治天皇は即答を避けたが有栖川宮の体調が悪化したこともあり、同年6月に有栖川宮は東宮輔導を免じられた。 なお、その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した。 これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことは、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった。 時には皇太子は付の大佐であったが、(明治37年)11月頃、参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。 皇太子も大陸への出征に積極的であったが、指揮が混乱するとの首相や陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった。 韓国訪問 [ ] 『遠州洋上作』 夜駕艨艟過遠州 満天明月思悠悠 何時能遂平生志 一躍雄飛五大洲 皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でやを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。 また『世界一周唱歌』が愛唱歌であった。 しかし、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった。 (明治40年)9月、伊藤博文は、の即位を機に日韓親善を名目として、英親王が日本に留学し、代わりに皇太子がを訪問することを提言。 明治天皇は韓国の治安がで悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した。 皇太子には有栖川宮威仁親王のほか、、前首相、らが随行。 10月10日に東京を鉄道で出発し、からに乗船、10月16日にに上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。 10月17日から19日までに滞在し、司令部、倭城台公園(現・)、、などを巡ったほか、統監官邸でと面会した。 10月20日に漢城を出発、の視察を経て帰国。 このとき皇太子は李垠を気に入り、彼が日本に留学した後、の学習に熱意を見せるようになった。 この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた。 1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した。 その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県 、1911年8月から9月に 、1912年にを訪れ、これでを除く全国を訪問したことになった。 (明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに付となり、(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。 また、御用掛の、から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている。 天皇即位 [ ] 即位礼当日の京都御所 1912年7月29日夜、明治天皇が崩御。 皇太子は7月30日午前1時に践祚、 と改元した。 8月1日に朝見式が行われたが、出席した海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に詰まり、即位以来の落ち着きのない態度を見て情けないと涙を流す侍従()もいた。 11月には貞明皇后とともにを参拝。 京都へ向かうの中で大正天皇はを呼び雑談をするが、以後も原は行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる。 即位礼とは当初、(大正3年)11月に行う予定であったが、同年4月に昭憲皇太后が亡くなったため1年延期され、(大正4年)11月10日にで即位礼紫宸殿の儀、11月14日に大嘗祭が行われた。 なお、大正天皇は即位礼の準備委員長である原敬に儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていたがほとんど無視され 、のが莫大な労力と経費をかけ前代未聞であると評した儀礼が行われた。 大正天皇の即位によりは8月31日となった が、8月は行事を行うには暑過ぎるため、1913年(大正2年)に10月31日が「天長節祝日」に定められ、以後、祝賀行事は10月31日に行われるようになった。 政治能力の無さを示す [ ] 「」も参照 大正天皇の政治力は即位時から不安視されていた。 明治天皇崩御直前の1912年7月26日に、内大臣兼侍従長と宮内大臣がに面会し、大正天皇を皇后とで補佐することを依頼。 しかし皇后は女性が政治に関わるべきではないという明治天皇の意思を守りたいとして断った。 また崩御直後には総理大臣と山縣有朋が大正天皇に謁見し、西園寺から天皇に政事に関する苦言を行い、天皇が十分に気を付けると返答するやり取りがあった。 しかし1912年11月、大正天皇は内大臣に突然(おそらく思い付きで)任命を打診する。 ところが終身現役の元帥になれば政治に関われなくなるため、未だ政治への野心を有していた桂は拒絶した。 君主としての力量を示せなかった大正天皇は、その後、桂の言いなりとなる。 そして桂はを組閣すると、留任辞退しようとしていた海軍大臣に留任を命ずる勅語や、の停会を命ずる勅語などを出させて政局を乗り切ろうとした。 しかしこの行動は野党・や民衆の反発を引き起こし、、そして桂内閣の倒閣につながっていった。 1913年5月、風邪をこじらせ体温39度を超える肺炎となる。 肺炎は同月末に治癒するが、9月まで葉山や日光で静養した。 また、この間の6月に青山御所から改修 が完了した皇居に転居した。 1914年3月、によりが倒れた際には、大正天皇は後継総理の選定をに委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中でに留任を求める不用意な発言を行う。 しかし以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本 はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。 天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった。 また、同年には宮内大臣がに、大正天皇は元老に何を諮問すべきか否か事の軽重や、職務権限を理解していないと愚痴をこぼしている。 1915年、の内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月には事件の責任を取るとして全閣僚の辞表を天皇に提出した。 大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。 山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している。 そしてさらに政治的評判が落ちた大隈は翌(大正5年)6月に内閣総辞職を決断。 大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、山縣が推すに反対の大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。 面子を潰された山縣は今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せた筋を通すよう諫言。 その後、大隈は後任にを推薦すると明記した辞表を提出するが、大正天皇は山縣の意見を鵜呑みにして世論が望まない寺内を後継首相に任命した。 の際には日光田母沢御用邸で避暑中であったが、皇室財産から政府を通じて各府県に300万円(現在の60億円相当)を下賜した。 ただし天皇が金だけ出して避暑を続けることに世間の批判があったことから、政府の要請を受けて急いで東京へ帰っている。 皇太子裕仁親王の摂政就任 [ ] 皇太子時代の裕仁親王 大正天皇は1918年末に風邪を引き、帝国議会開会式を欠席。 翌1919年正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する。 同年10月の海軍特別大演習では勅語を自分で朗読できず、軍令部長が代読した。 そして11月に兵庫県・大阪府で行われた陸軍特別大演習への参加が最後の東京の外への公式行幸となった。 12月の帝国議会開会式は、勅語朗読の練習を行ったものの、うまくいかなかったため、前日になって出席が中止された。 1920年3月30日、大正天皇の体調悪化が初めて宮内省から公表された。 ただし神経痛などとして言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった。 なお大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、普通であると考えていた。 その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への参加等は裕仁親王や貞明皇后が代行することになる。 同年6月に内大臣が摂政設置を首相に提起したが、原は誰もが納得する病状でなければ摂政設置は難しく、しばらく様子を見たほうが良いと判断した。 1920年から1921年2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐるが発生するも無事解決したのを受けて、1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だったに出発した。 この頃の大正天皇は、同年7月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。 また前年の出来事や身近な人物を忘れることもある状態であった。 ウィキソースに の詔書があります。 1921年9月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。 10月4日には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされ、宮内大臣により皇族への根回しが行われた。 11月4日にされたが、11月22日には松方内大臣と牧野宮内大臣が大正天皇に会い、摂政設置について報告と了解を求めようとした。 しかし大正天皇は「アーアー」というだけで意思疎通できない状態であった。 そして11月25日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、皇太子が摂政に就いた。 なお同日、大正天皇は摂政が執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗し、また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた。 崩御 [ ] 1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪 その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。 日課として散歩を行ったり、侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた。 (大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の宴席に出席せず 、(大正14年)5月10日に行われたも、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで 、午餐会に出席することができなかった。 12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後熱が続く。 翌(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし 、ほぼ歩行が不可能になった。 8月に車いすに座ったままの状態で、の皇室専用ホーム から鉄道に乗り、葉山御用邸へ移った。 葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。 11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった。 12月1日には生母の柳原愛子が東京都ので行われた「聖上御脳御平癒の祈祷」に参加している。 天皇は12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。 この日以降、葉山には皇族や柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ。 12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた。 12月16日、呼吸が浅くなり不整脈が出始める。 天皇危篤との報が東京に届くと、総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた。 全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ 、は12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道。 12月14日から死去までの宮内庁発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した。 これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した。 また、新聞社も葉山に記者数十人を送り込んで報道体制をとった。 ウィキソースに の告示があります。 病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。 そして翌25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御。 宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分にようやく崩御が発表された。 宝算47。 このとき、貞明皇后の発願で、大正天皇の供養のため「」のを写した紙が多数作られている。 葬儀 [ ] 多摩陵 (昭和2年)1月29日に「 大正天皇」と追号され 、大喪が2月7日から8日にかけてを中心に行われた。 皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計6千人、全長6キロメートルという壮大なもの で、沿道には150万乃至300万人の市民が集まったといわれ、葬列はラジオで実況放送された。 葬場殿の儀(葬儀)は午後9時から午後11時まで行われ、内外の高官約7千人が参列した。 その後、の千駄ヶ谷駅の隣に臨時で設けられたから霊柩列車に移され、天皇名代の秩父宮らを乗せ出発。 同じく臨時駅の まで運ばれ、東京府(現在の)の御料地に築かれたに葬られた。 新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開されたが好評で、葬場殿は2月9日から3月7日まで、多摩陵は2月13日から4月4日まで公開期間が延長された。 葬場殿の参拝者はのべ250万人、多摩陵の参拝者はのべ89万8千人にのぼった。 多摩陵には売店や料亭まで建ち、やでは臨時列車を走らせた。 さらに京王電気軌道はに至るを建設したが、開業した(昭和6年)には参拝ブームは下火となっており、まもなく閑散となった。 現在、毎年12月25日に宮中でが行われている。 死後の評価と「遠眼鏡事件」 [ ] 1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇 国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。 しかしやがて、明治天皇との対比として、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や首相が弔辞で用いた「守成の君主」との評価に落ち着いた。 とは言え、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった。 そして社会に広く定着したのは、「大正天皇がの開院式でをくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる 「 遠眼鏡事件」に代表されるような大正天皇精神病者説であり、その風説は少なくとも昭和初期には広まっていた。 (昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男がで捕まっている ほか、1921年に小学2年生であったは、当時、大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いたという噂が流れていたことを(平成元年)ので回想している。 後、遠眼鏡事件が公然と語りだされるのは昭和30年代に集中している。 一つは「」(昭和34年)2月号掲載の無署名 記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた。 また、元女官の山川三千子 は、(昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に、姑の弟であるが遠眼鏡として覗いた光景を目撃した話をしていたと記している。 そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の梨木登女子 は、大正天皇が、あるとき勅書が逆に巻いてあったため、その次の際、巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認したという話を大正天皇から直接聞いたと語っている。 このように遠眼鏡事件については諸説あるが、決定的な史料はなく、真偽は不明である。 人物像 [ ] 皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり 、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪ねたり 、当時上品な場所でないと見られていた 屋に入る など、気軽で奔放な性格であった。 は『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している。 趣味は極端な洋風で、和服より洋服、よりを好んだ。 娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のために乗り、から献上された「」でクルージングを楽しんでいた。 乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いている ほか、らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった。 また愛煙家で、自分が吸うの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11. 5センチメートルの特製紙巻たばこを作らせている。 また、梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり 、九州行啓時に鉄道に同乗したに「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある。 詩人として [ ] 『西瓜』 濯得清泉翠有光 剖来紅雪正吹香 甘漿滴滴如繁露 一嚼使人神骨涼 三島中洲の指導を受けを始めた大正天皇はより漢詩を好み、 昭陽の雅号を名乗った。 1896年から1917年の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している。 そして全作品が宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録されており 、うち251首は一部添削を経て、1948年(昭和23年)に『大正天皇御製詩集』として公刊された。 漢詩のうち1129首が最も作りやすい七言絶句で、作風は平易であるというのが一般的評価である。 巡啓先の光景や日々の生活のほかといった出来事などを詩に詠んでいる が、は確実に文学的価値があるのは1914年作の『西瓜』のみとしており、古川隆久は大正天皇は素人詩人の部類に入るとみている。 は大正天皇の詩は未完成で、せっかくの才能が十分に磨かれずに終わったと評している。 なお、漢詩の詩碑は2ヶ所に建てられており、一つはの山頂にある「登呉羽山」の碑、もう一つは大中寺にある「大中寺観梅」の碑である。 一方、和歌は生涯で少なくとも465首を詠んだとされるが、明治天皇の約9万首、昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。 しかし、心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがすると評価されている。 人間関係 [ ] 明治天皇 [ ] 明治天皇は幼少時の嘉仁親王の習字の清書を見たがったり、読書の進度を気にしたり、柳原愛子を通じて指示をするなど教育に干渉したが、教育掛の湯本武比古に拒絶され、以降は口出しを止めた。 皇太子になってからも明治天皇の心配は変わらず、年数回、皇太子の側近に日誌を提出させ、健康状態や生活、勉強の状況などをチェックしていた。 しかし皇太子にとってはこれが重荷となり、皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった。 また、明治天皇は皇太子が「洋風」を好み基礎学問が不十分ながらフランス語を非常に好むことに頭を悩ませたほか 、その軽率な言動を不快に思っており、1898年に皇太子が東宮職員の不出来を挙げ全員更迭せよと周囲に発言した際には、侍従職幹事のを通じて叱責している。 貞明皇后と4人の息子たち [ ] 4人の皇子(1921年)。 左から裕仁親王、崇仁親王、宣仁親王、雍仁親王 夫妻で側近とともにを楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた。 しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。 大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京 したこともあった。 そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長のに嘆かれている。 公式に側室制度()は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった。 しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした。 また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、がその日記に遺している。 貞明皇后との間には以下の4人の皇子を儲けた。 (昭和天皇)、 (秩父宮)、(高松宮)、(三笠宮)である。 伝統に従い、裕仁親王と雍仁親王は誕生してすぐ、邸に預けられたが、川村が1903年に死亡すると、裕仁親王と雍仁親王は仮東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。 その後は、皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄ってに加わったり、少なくとも週一回は家族団らんの時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した。 家族団らんの場では、皇后が弾くに合わせて子供たちと軍歌や唱歌を歌ったりした。 昭和天皇は大正天皇生誕100年を翌年に控えた、1978年(昭和53年)12月4日ので、大正天皇について、幼いころ一緒にを指したり歌を歌った思い出があることと、詩文を良くし記憶力が良かったと母から聞いたとし、「本当に天皇として立派な方」と語っている。 政治家 [ ] 大隈重信 は、堅苦しい話だけでなく世間話など面白い話をすることから大正天皇に好かれていた。 皇太子時代の(明治31年)、退陣後に早稲田の大隈邸に招かれ、やなどの歓待を受ける。 その後大隈は再び首相()となった後、頻繁に拝謁し長話をしては、天皇が上奏に来た他の大臣を待たせることもあった。 そして大隈家には大正天皇の宸翰2通、大隈を詠んだ御製が残されていた。 原敬 は、(明治39年)にの内務大臣に就任し、大正天皇(当時:皇太子)との接点ができて以降、行幸時のお召列車で話し相手として呼び出されるなど信頼を得ていた。 そのやりとりは原敬日記に数多く記録されている。 山縣有朋 一方で、天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋である。 1896年(明治29年)に山縣が沼津御用邸滞在中の皇太子を訪ね、君主のあるべき姿を説いた。 このとき、皇太子は「山縣が酒に酔い、暴言を吐いた」と言いふらしたが、問題とならず済んだ。 そして山縣は、天皇即位後も大正天皇に、父親の明治天皇を模範にした苦言を呈した。 これに対して、大正天皇は山縣が拝謁を求めても直接会わず女官に対応させたりした。 さらに、(大正5年)12月に山縣が「議長を辞任したい」と漏らしたときには、結果的に留任したものの、大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。 そのほか、大正天皇は(初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している。 「脳病」について [ ] 大正天皇は生後一年以内に2回脳膜炎らしき病気にかかっている。 当時、を使う女性はを患っていたが、その白粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取すると鉛中毒による脳膜炎を引き起こすことがあった。 大正天皇の病気の原因も乳母が使用した白粉の可能性があると考察されている。 1920年3月に東京大学教授、侍医頭は、大正天皇は即位後の多忙により神経過敏となったうえ、2年前から内分泌臓器のいくつかが不調となり、幼児期の脳膜炎の影響から心身の緊張を要する儀式の際に体が傾くなど平衡を失うようになったため、政務を見る以外には儀式に出ず静養することが必要である、との診断書を出している。 しかし原因確定は不可能であった。 近年、は、当時の文献の分析を行い、大正天皇の病気は、、の少なくとも一つに脳萎縮が起こり、、さらに記憶・判断・思考なども障害され日常生活が送れなくなりになる「原発性進行性失語症」 、もしくは大脳半球皮質および皮質下神経核などが萎縮し、構音障害、身体の前屈、歩行障害から、徐々に失語症、記憶障害、判断障害が起こり認知症になる「大脳皮質基底核症候群」 と推察している。 大正天皇実録 [ ] 1927年6月、は図書寮に大正天皇実録部を設置し『大正天皇実録』の編纂を開始した。 実録は(昭和9年)末に145冊の稿本が作成された後、更なる資料の補遺、充実を図り、(昭和11年)の大正天皇十年祭を前に完成し、昭和天皇・香淳皇后・貞明皇后に捧呈された。 しかし長い間非公開であり、の情報公開請求を契機として(平成14年)から(平成23年)にかけ、4回に分けて公開された。 ただしこの時は個人識別情報として全体の3パーセントが黒塗りとされた。 その後、(平成27年)にの「時の経過」を考慮して黒塗り部分が残り0. 5パーセントまで減らされたが、現在も学業成績や病状に関する部分の一部が非公開とされている。 が(平成28年)から(3年)にかけて実録本文の補訂版を刊行中である。 軍歴 [ ] 日本 [ ]• 1889年11月3日 歩兵少尉• 1892年11月3日 陸軍歩兵中尉• 1895年1月4日 陸軍歩兵大尉• 1898年11月3日 陸軍歩兵少佐及少佐• 1901年11月3日 陸軍歩兵中佐及海軍中佐• 1903年11月3日 陸軍歩兵大佐及海軍大佐• 1905年11月3日 陸軍少将及海軍少将• 1909年11月3日 陸軍中将及海軍中将• 1912年7月30日 外国 [ ]• : 、1918年1月1日任命 栄典 [ ]• 1889年11月3日 -• 1900年5月10日 -• 1906年4月1日 - 系譜 [ ] 大正天皇の系譜• 嘉仁親王が軍隊用のに学用品を入れて通学したことがの始まりとされている。 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた。 1891年4月3日に招かれたのは、 、北白川宮満子女王(娘)、北白川宮貞子女王(同前)、(かずこ。 娘)、(同前)、徳川国子(娘)、(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。 娘)、岩倉米子(娘)の10名。 その他、(娘)、一条経子(娘)、鷹司房子(娘)の三人も候補とされた。 は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している。 この結婚式を模倣してが誕生し、日本全国に広まっていった。 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手にを走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした。 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた。 なお節子皇后は第四子(三笠宮)懐妊中のため即位礼を欠席した。 またこのとき製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている。 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された。 山本権兵衛は財部彪に、大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。 たとえ大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる、と語っていた。 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した。 この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「」説を主張した が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した。 このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの で、大正天皇が生前このホームを使ったのはこれが最初で最後であった。 このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た。 終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、(2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した()。 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている。 が黒田長敬に取材したとされる。 1892年 - 1965年。 旧姓・久世。 源氏名「桜木」。 昭憲皇太后に仕えた。 1892年 - 1980年。 源氏名「椿」。 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった。 第2位がの98首、第3位がの97首• 鍋島伊都子は美人として評判で、当時と婚約中であった。 皇后の父・が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている。 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。 天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある。 なお宮内省では同時期に『』(1933年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた。 出典 [ ]• , p. 160. ゆまに書房. 2019年10月21日閲覧。 , p. , p. 『』 - デジタルコレクション• , p. , p. , p. , pp. 43-44. , pp. 14-16. , pp. 9-10. , p. , p. , pp. 49-52. , p. , p. , pp. 17-18. , pp. 19-20. , p. 『』 - デジタルコレクション• , pp. 31,34. , p. , pp. 54-55. , p. , p. 34-35. , pp. 60-61. , p. , p. , pp. 39-42. , pp. 67-69. , p. , p. , pp. 43-45. , pp. 41-44. , p. , p. , pp. 64-65. , pp. 85-86. , pp. 94-96. , p. 103. , pp. 117-118. , p. 139. 『』 - デジタルコレクション• , pp. 63-64. , pp. 70-71. , p. , pp. 68-70. , p. , p. , pp. 80-82. , pp. 90-94. , pp. 106-112. , pp. 113-117. , pp. 122-124. , p. 124-128. , p. 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』文藝春秋 、2010年、188-190頁。 , pp. 59-60. , pp. 101-102. , pp. 154-156. , pp. 157-158. , pp. 162-164. , pp. 182-186. , pp. 196-200. , pp. 212-215. , p. 222. , pp. 194-195. , p. 109. , pp. 109-110. , p. 117-118. , pp. 127-128. , pp. 153-160. 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