瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 文法。 『小倉百人一首』077「せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ」(崇徳院:すとくゐん)『詞花集』恋上・二二九 from 古文を入試から教養へ=電脳学館live.gettymusic.com

歴史好きの考え事: 百人一首77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 文法

Current down so steep at rocks may depart Soon to meet in the same flow downstream. We two will meet in the same heart again. 『小倉百人一首』077 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ 崇徳天皇(すとくてんわう) aka. 崇徳院(すとくゐん 男性 1119-1164 『詞花集』恋上・二二九 滝を下ってほとばしる水は、浅瀬の流れの速さゆえ、 岩に邪魔され分かれても、下れば一つの流れに戻る ・・・そんな激しい滝川のように、 一時は別れて暮らしていても、 いずれはあなたとまた 逢おう、このまま一人でいるものか、 と、強く念じている私です。 【文法・修辞法】序詞+係り結び... com 2009 解題 「瀬」とは浅瀬、即ち「水の流れの浅い部分」。 この水の流れの元は「滝」ですから、そこから流れ込む「滝川」の勢いは、浅瀬のあたりではいよいよもって激しい 筈・・・この激しさが象徴するのは「 恋情」です。 「A+を+B+み」は原因・理由を表わす定型句で、「AがBなので」の意味になります。 「瀬を早み=浅瀬の水流が速いので」、この「滝川」の水は、途中で邪魔をする(= 堰く)「岩」に当たって、一時的には分断される(=分れる) 憂き目に 遭っても、やがては下流で合流するでしょう(=末に合はむ)。 そんな 清冽にして強烈な滝川の水流にも似た激しい 恋情を抱えつつ、 逢瀬に伴う障害で一度は引き裂かれたとしても、最後には必ずや思いを遂げて「逢はむ=愛する人と一緒になりたい」というこの恋歌の底には、目立たぬ形で「 序詞」が流れています:初句・二句・三句の「瀬を早み岩にせかるる滝川の」全体が、四句「われても=分れても」を導く構造になっているのです・・・が、この 上の句全体を流れる滝川の奔流はあまりに強く歌の全イメージを覆い尽くしているので、これを後続の主意部「たとえ一時的に別れても、最後には二人一緒になりたい」を呼び出すための単なる誘い水として片付けてしまうことは 到底できないし、これを「 序詞」と意識しない人さえ多いことでしょう。 藤原定家が「 序詞の理想型」と考えていた(であろう)「叙景パートとして独立し得るほどの重みを持った、イメージ 訴求力の強い 序詞」の典型例といえる短歌です。 この歌の作者は 崇徳天皇 75代。 鳥羽天皇 74代 の第一 皇子ですが、この父は息子を 疎んじていたようです。 伝説を信じるならば、 崇徳天皇の生母(「 待賢門院」こと 中宮 璋子)は、 鳥羽天皇に 嫁ぐ前にはその先々代である白河法皇 72代 の御 寵愛を受けており、 鳥羽天皇はその先々代(つまり、実の お爺さん)の「お下がり」として、既にお腹の中にいた「落とし種」の 崇徳天皇もろとも、この 中宮 璋子をもらい受けた形だったそうです(『 古事談』による)。 この伝説が真実か 否かはさておくとして、 鳥羽天皇が後々あからさまに 崇徳天皇と 待賢門院を 疎んじることになることだけは、れっきとした史実です。 この時代は 所謂「院政」の世で、政治を動かす実権を握っていたのは「天皇」ではなく「"元"天皇」の「上皇」(出家している場合は「法皇」)でした。 「上皇・法皇」の住居のことを「院」と呼んだので、「院」が動かす政治ということで「院政」という訳です。 天皇は即位しても名ばかりで、我が子に譲位して"元"天皇になってから世の中を動かす、という、何ともややこしい仕組み。 元はと言えば、「幼い天皇を立て、その外祖父として実権を握る、藤原摂関家の 執る政治」への対抗策として、「幼い天皇を立て、その父として実権を握る、元天皇の 執る政治」として生まれたものでした。 元天皇の戦争」は、構造的必然だったのです。 崇徳は、やがて、その「平安天皇間戦争」の最初の犠牲者となる運命の帝だったのでした。 先述の通り、 崇徳は(やはり先々代白河法皇の子ということでしょうか) 鳥羽天皇には愛されませんでしたが、白河法皇は 崇徳を可愛がり、彼が5歳の時に 鳥羽天皇(21歳)に譲位させます。 諸外国の軍隊によく見られる「 新兵をまず"人間以下のドン底状態"に叩き落として"ナニくそーッ!"と 這い上がる気力と根性を無理矢理 掻き立てて、従来の弱い自分の精神・肉体の限界を超越させる」っていうあの方法論的バネ圧縮行為とはまるで訳が違う非建設的な報復の繰り返しに過ぎないんだから。 ただひたすら踏みつけにする側だけが踏みつけて、踏んづけられた側はそれを 恨みに思って、その 恨みを 次代にやり返して・・・こういう不幸の無限連鎖は、 破綻するまで続きます。 破綻しておしまいになれば、それがたぶん世の中にとっては幸福;ただ、その 破綻時点でこの連鎖の上層部に居た人達は、「自分は不幸な被害者」と感じるでしょうけどね・・・「院政」というこの腐った中古日本型システムの 破綻は、白河法皇の死後あたりから始まります:中古の終わり~中世の始まりが、やって来るんです。 白河法皇の死後は、 次代の堀河天皇 73代 が既に死んでいたため、「上皇」として院政を敷いたのは"元" 鳥羽天皇でした。 ここから、 鳥羽院、自分のやりたいように動き始めます。 まずは、「先々代白河院からのお下がり女房」 待賢門院にまつわる人々(当然、 崇徳も、です)を冷遇して、自分が 溺愛した藤原 得子サンという女性(通称「 美福門院」)の人脈へと政治的シフトを始めます。 彼女が 皇子を生むと、 僅か2歳で 近衛天皇 75代 として即位させます 1142。 当然、 崇徳天皇は"元"天皇にされちゃいました:時に 崇徳は24歳、天皇在位19年・・・とはいえ、5歳で即位してのこのキャリアですから、"政界のベテラン"とは言えません。 が、新たに即位した 近衛帝は、形の上では 崇徳の 中宮 聖子の養子となっていたので、その父たる 崇徳は、自分が「院政」を敷けるのでは、と期待していました・・・が、長年白河法皇の下で我慢していた 鳥羽上皇(この時点では既に出家して 鳥羽法皇)が、そう 易々と自分の院政の機会を逃す訳がありません:即位した時には 何故か新帝は 崇徳の「弟」扱い(「子」ではない!)となっていたため、「父」として院政を敷く 大義名分がなくなった哀れな単なる「"元"天皇」の 崇徳を 押し退けて、 鳥羽法皇による院政が始まってしまいました。 ・・・まぁ、考えてみれば、「帝の"父"なら院政有資格者/帝の"弟"と書いてあるから院政は行なえない」なんてただの名目上のインチキ条項、平然と通用しちゃうのがなんとも不思議なジャパネスク、って感じではありますが、ニッポンってそういう国なんだから、どうにもしょうがありません・・・。 崇徳は、不満を 募らせます。 その不満を中和しようと、( 崇徳の母の 待賢門院を 押し退ける形で 鳥羽法皇の 寵妃となった) 美福門院は、 崇徳の長男の 重仁親王を自らの養子として迎え入れます。 仮に新帝の 近衛が跡継ぎなしで終わった場合、 崇徳の血筋が皇位継承者となる可能性を残した訳です。 これ自体は平安時代の皇族間ではよくある政治上の取引ですが、悪いことに、この 美福門院の養子にもう一人、 崇徳の同母弟( 雅仁親王・・・後の" 後白河天皇"その人)の息子の 守仁親王という人がおり、この人もまた皇位継承候補たり得る人だったのです(しかも、"おしめをしてた当時から" 美福門院が手塩に掛けて育てた 実子同然の可愛い 皇子・・・)。 そうして最悪なことには、実際、病気がちだった 近衛天皇が 僅か17歳で跡継ぎもないままに 逝去してしまったのでした・・・この絵に描いたような 跡目相続争いの火種は、 案の定、延々燃え広がってやがては平安の世そのものを焼き尽くす大火事へと延焼して行きます・・・最初の火の手は「 保元の乱」 1156 でした。 舞台はまず、 近衛天皇の 崩御後の、新帝を誰にするかの話し合いの場面。 父であるこの人を飛び越えて、息子の 守仁親王が先に天皇として即位するのは具合が悪かろう(なんたって彼ら、ニッポンジンですから、ヘンなところで 杓子定規に 律儀)ということで、「 守仁親王を即位させるための形式的なワンポイント天皇」として、 次代天皇として 立太子することもないままに、この 雅仁親王が第77代天皇として即位しました:これが「 後白河天皇」だったのです。 時に1155年。 こうして 数奇な巡り合わせから天皇位が転がり込んできた 後白河でしたが、それまでの青春時代は、まさか自分が帝位に 就く 筈があるまいという気楽な立場を 謳歌して、変種の和歌である「 今様」に打ち込むこと 半端じゃなくって、 後日その熱中ぶりが『 梁塵秘抄』 1180頃 という 今様歌の集大成歌集として文芸的に結実します。 ・・・が、政治的観点から言えば、この 後白河の役回りは「平安の世の幕引き役」。 武家である 平清盛、やがては 木曽義仲、 九郎判官義経、そして 源頼朝と、大河ドラマでお馴染みの面々の活躍の舞台の裏表で、必ず何かしら 蠢いていたのがこの 後白河なのでした。 天皇を"使い 潰す"のは、中古の日本の歴史のお家芸で、この 後白河も完全に使い捨てにされる 筈の天皇でしかありませんでした。 鳥羽法皇/ 美福門院側としても、 崇徳上皇側としても、こんな"小物"は最初から眼中にもなかったでしょうし、幾多の歴史書にも、自身の回想録からも、「風流にうつつを抜かすだけで、国を治める人物に 非ず」の色彩が濃厚なのが 後白河だったのです。 が、実際の彼は、ただ使い捨てにされることを 頑迷に拒絶し、自分が使い 潰されるよりむしろ平安の世のほうを叩き 潰す道を選んだのでした。 後白河が天皇にならずとも、既に疲弊していた平安の世はいずれ倒れたでしょうが、この男を表舞台に 担ぎ出した結果、 公家から武家への流れが大幅に加速したのは間違いないところで、いわば彼は日本に"中世"をもたらすために 遣わされた大いなる歴史の手先、「破滅の使者」だったのです。 ノーマークの小人物が、歴史の表舞台に引っ張り上げられる形でひとたび権力の座に 就くと、 往々にしてとんでもないことが起こるのが歴史のおかしなところです。 端的に言えば、本来自分が居るべき場所でもない所に身を置かれると、「こんな場違いなところで、自分は何をすべきか?」の自問への自答が「この場を自分の居るべき場所に変えてしまえ」になるという単純な図式が、この種の"他者の上に立つべき 器に 非ざる名ばかりの 長"の共通の行動原理なのです。 比較的新しい類例を挙げれば、ロシア革命後、偉大なる建国の父レーニンを失った後のソビエト共産党指導者達が、自他共に 次代指導者の 器と認めていた大物レオン・トロツキーを排して、誰一人として指導者の 器とは思いもしなかった小物のヨーゼフ・スターリンを 担ぎ出した例も、全く同様。 共産党指導者達がトロツキーを 敢えて新指導者に選ばなかったのは、レーニンさえ 凌ぐほどの巨大なカリスマ性を持つこの男に権力を与えたら、かつてのフランス革命が結局ナポレオンというカリスマ指導者の独裁帝国に終わったのと同様、ソビエト社会主義人民共和国がトロツキー王国に化けてしまうのではないかと恐れたからでした。 そうならないためには、最も有能な男を排し、最も無能な男を名ばかりの国家指導者に据えた上で、実際の政治は自分達が陰から集団指導体制で動かせばよい、という 思惑でした・・・が、実際そうして無能なるスターリンに政権の座を与えた結果、この無能男は、自らに与えられた職能の全てを、自らが信ずる唯一の職務たる「自分の居場所を作ること」にのみ 注ぎ出します:即ち、「自分の権力を危うくする全ての可能性を排除する」 挙に出たのです・・・わかり易い話が、「自分より能力があり、自分に成り代わり得る潜在的な敵を、政治的・生物学的に、 抹殺する」ことに 血道を上げたのです・・・そして「無能者スターリンにも劣るほどの無能者はソビエト指導部に存在しない」という現実の中で、「スターリン以上に有能な人材達の大量 抹殺」は、必然的に「ソビエト連邦に有能なる人材、なし」の状況を生んでしまいます。 国内の敵を、政治の世界はもとより、軍部からも 悉く葬り去った後で 勃発した第二次世界大戦では、ソビエトに歴戦の名将は皆無だったが 故に、敵であるナチスドイツは 緒戦を有利に戦うことができました。 首都レニングラードまで攻め入って来たドイツ軍の猛攻に、この無能なる国家元首は雲隠れを決め込みました( 後白河もそっくり同じ行動を幾度も繰り返しています)・・・結局、ソビエトが盛り返すことが出来たのは、市民の 果敢な抵抗と、ロシアの冬の厳しさ(あのナポレオンをも敗退せしめた"冬将軍")のお陰・・・。 こういう事例は、何も国家だけに限りません。 人間の集団は、 長の 器に 非ざる者に託されると、その 小物の 器に合わせて必ず 小振りな姿へと無惨に縮小・堕落させられてしまいます。 なればこそ、無能な者を、人の上に置いてはならないのです。 ・・・以下、 後白河が、どのような形で平安の世を破壊して行ったかを概観してみましょうか。 1156年7月2日、 鳥羽法皇が 崩御します・・・父(もしかしたら名ばかりかもしれませんが)の 死に際に、子(名ばかりとの噂でしたが)の 崇徳上皇が 末期の別れをするのは当然のしきたりです・・・が、 後白河はこの父子の死別をわざと許可しませんでした。 鳥羽法皇の 亡骸が眠る京都の町に、これ見よがしに、ものものしい武力警備体制を敷き、戦乱を覚悟せぬ限り 崇徳上皇が絶対に踏み込むことが出来ぬような緊張状態を、意識的に作り出して見せたのです。 後白河は更に、 鳥羽法皇の 臨終後の" 初七日"の法要を、子である 崇徳上皇抜きでそそくさと済ませてしまうことで、 崇徳を思いっきり侮辱・挑発し、対決姿勢をより一層 露わにします。 後白河がこうした暴挙に出たのは、 鳥羽法皇が生前から 崇徳側の攻勢を警戒して 後白河の周囲に有力武士団を結集させ、武力衝突に対する万全の備えを期していたからこそです。 つまり、故 鳥羽法皇勢力たる 美福門院側の「 虎の威を借る狐」の形で、対立する 崇徳院側の 横っ面に往復ビンタを喰らわして、「さぁ、悔しかったら武力で俺を倒しに来るがよい!」とばかりに 喧嘩を売った格好です。 ・・・もっとも、この 喧嘩のシナリオを書いたのは 後白河自身ではなくて、彼の側近の 信西でした。 この時点での 後白河は、謀略渦巻く平安末政界の舞台にいきなり引っ張り上げられて戸惑っている「名ばかりの主役俳優」に過ぎず、 鳥羽院時代から政治の中枢に身を置いていた 信西が、本命である二条天皇の即位前の大掃除として、妻 朝子が 乳母となって育てた男をワンポイント天皇として 担ぎ上げ、 崇徳にぶつける" 噛ませ犬"として使おうとしたのが 後白河天皇だったのです(・・・ 後白河の思わぬしぶとさが、後にこのシナリオを狂わせるのですが・・・)。 7月10日、挑発に乗った 崇徳上皇は、貴族勢力では藤原 頼長、武家勢力では平 忠正・平 家弘・源 為義らと共に、 武力蜂起を期して 白河殿に結集します・・・が、この動きを察知した 後白河側の武士団( 平清盛・ 源義朝・ 源義康)が、翌7月11日の 夜陰に乗じて 白河殿に奇襲攻撃を仕掛け、 崇徳側は総崩れとなります。 藤原 頼長はその場で落命、平 忠正・平 家弘・源 為義らは捕縛された末に三百数十年ぶりに復活した残虐な 斬殺刑で命を奪われ、逃げ延びた 崇徳上皇は 剃髪した上で許しを 乞うべく 後白河天皇の下に出頭しますが、許されることなく 讃岐国への 流刑となりました。 恨みを残して 彼の地で死んだ 崇徳は、京の都に災いをなす 怨霊となった・・・という例の調子の伝説が残ります。 実に(筋の通らぬ狂った仕組みといい、無茶な話でも 鵜呑みにする大衆といい)、 怨霊出現の土壌の豊かな国です、この日本というのは。 この事件以降、陰謀と暴力の美味なる効用を知った 後白河の謀略に次ぐ謀略が京都の町を駆け巡り、武力による 血腥い決着が、政治に代わってゲームの切り札となり、台頭する武家勢力の中でまず 平清盛と平家一門が、次いでその暴虐への不満を受けて木曽の山奥から京都に攻め入った 源義仲が、その京都での失政を 駆逐すべく 源頼朝の意を受けて遣わされた 源義経が、次々と歴史の表舞台に登場します。 そうして彼らはみな 悉く 後白河の裏工作の 餌食となって、歴史の 彼方へと消えて行くのです・・・消え去らなかったのは 源頼朝だけ。 そうして彼が鎌倉幕府を開くことになる訳ですが、言ってみれば、京都の 公家勢力を徹底的に疲弊させぶち壊す形で武家政権の 露払いをしたのが、この 後白河天皇(上皇・法皇)だった訳です。 「 保元の乱」によって 崇徳勢力を葬り去った後は、 信西主導による政治改革( 荘園や寺社の整理・統制等)が断行されます。 その強引さに対する不満がまた、新たな戦乱の火種となり、発火したのが「 平治の乱」 1159 です。 1158年、かねての予定通り、 後白河天皇は、在位3年にして、その 実子(ながら、故 鳥羽天皇の 寵妃 美福門院の養子となって彼女の息子同然に育てられた)二条天皇 78代 に譲位します。 この時点で彼は 後白河上皇となり、彼の「院政」が始まります。 しかし、「院」となったからといっても、ただそれだけで政治の実権を握れるわけではなく、経済基盤と政治的に強力な 後ろ盾に乏しければ、何の意味もありません。 そこで 後白河は、先の「 保元の乱」で敗死した藤原 頼長からの没収領地を自らの経済基盤とし、政治的には、 美福門院+二条天皇側との結び付きの深い側近の 信西に代わる、自らの 子飼いの有力政治家の育成を急ぎます。 そうした 後白河の 思惑の中で、急速に台頭してきたのが藤原 信頼です。 やがて、 後白河院の引き立てによって急激な出世を遂げた 信頼と、 古参の 信西との間に、深刻な対立が生じるのは必然のことでした。 かねてから強引な改革路線を推進してきた 信西に不満を抱く勢力を味方に付けて、 後白河院勢力内から 信西を排除すると共に、 信西とつながる 美福門院側(二条天皇親政派)の勢力切り崩しをも同時に狙って、 信頼は、 源義朝の軍勢と結んで宮中に攻め入り、皇居を火の海にし、 後白河院ともども二条天皇を軟禁状態に置きました:もっとも、 後白河院はこのクーデターのターゲットというより影の首謀者( 信頼は院の意を受けてこの 挙に出た)という説もあります・・・この人、本当に、 得体が知れないのです。 この戦乱の中で 信西は死に、二条天皇・ 後白河上皇双方を確保した藤原 信頼・ 源義朝の軍事クーデターは、成功するかに見えました・・・が、乱の発生時には 紀伊国に出向いていた 平清盛が、異変を知って宮中に取って返し、二条天皇を奪取して、情勢は急変します。 ・・・この際、 後白河上皇は"ノーマーク"、 清盛が大事と見て奪い返そうとしたのはあくまでも二条帝だったのです( 後白河は混乱の最中に" 宮中を自力で脱出"して仁和寺に逃げ込みます)。 その後、平家一門の逆襲によって 義朝の軍勢は敗走、 頼朝・ 義経らその後の源氏のキープレイヤー達も、各地へ 流浪の身となります。 藤原 信頼も、 平清盛の前に引っ立てられて、弁明も空しく処刑されます。 この「 平治の乱」は、 後白河院側(院自身が首謀者であるか 否かはさておき)が、当時の政界最大の実力者である 信西を廃し、二条天皇親政( 美福門院派)を圧倒することを目指して先制攻撃を仕掛けたものでした;が、終わってみれば、 信西・藤原 信頼という政界の二大キープレイヤーは倒れ、以後二条親政派/ 後白河院政派双方ともに疲弊して、両派の争いも小康状態となります。 結局、この乱の勝利者は、 平清盛と平家一門でした。 公家の二大勢力が勢いを失う中、ひとり勢力を伸ばした武家の 清盛一族は、以後、あの『平家物語』で語られるような「平家に 非ずんば人に 非ず」といわんばかりの一門の横暴で、京都の町を荒廃させ、一時は福原(現 神戸)に遷都するなどして、平安の世を一気に崩壊させます。 やがてその平家への不満から、全国の反平氏勢力を糾合して勢いを盛り返した源氏が、平家一門を 壇ノ浦に滅亡させるとともに、400年に及んだ京都の 公家の歴史にも終止符を打ち、鎌倉に幕府を打ち立てて 1192 、歴史は、武家政権の時代へと、 怒濤の 如く流れて行ったのです。 " 後白河"という岩にせかれし 公家の世の流れは、分れて後にはもう再び元通りに戻ることは、ありませんでした・・・ 遙かに時の流れを下った明治時代の「王政復古の大号令」 1868年/ 慶應3年1月3日 までは。 ・・・実に面白いもので、この時に新生日本国の統治者となった「明治天皇」 122代 は、即位に際して 讃岐に使者を送り、この 遠流の地の「 白峯陵」に「 白峯大権現」として 祀られていた「 崇徳天皇の神霊」を安らかに京都へ帰り参らせんがために、「 白峯神宮」を京都の 上京区の 飛鳥井家跡地に創建しています。 この神社にはまた、怨みを残して死んだ天皇の 祟りを 畏れる気持ちから、天皇でありながら「 淡路廃帝」と呼ばれて永らく皇統から弾き出されていた 淳仁天皇 47代 も一緒に 祀られています。 「やまとうた」興隆の 立役者 紀貫之 866-872? に「贈従二位」を出し抜けに贈ったこと 1904 などと並んで、明治維新の持つオカルト的復古主義の一側面を物語るエピソードですが、この神社が 蹴鞠で有名な 飛鳥井家跡地に建てられていることから「サッカーをはじめとする球技全般の守護神」にもなってしまった、というヘンテコなオチまでついているのもまた、なんとも言えずジャパネスク。 ・・・どこまで本気なのか、どこからがシャレなのか、その境界線が「きはぉくらーみぃ= 際を暗み・・・よぉ見えへん」 お話しどすぇ。 そぉ言ぇば、落語にもまた「せぉーはゃーみぃー・・・ 早見瀬尾? 早ぉ見せぇよォ?」を完全に茶化しで使ぅてはる「 崇徳院」いふ お噺し、ありますけど、あれ 高座に掛けはる 噺家はん、ちゃんと「 白峯神宮」にお参りしてはるんやろォか?.

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ちょっと差がつく百人一首講座

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 文法

Current down so steep at rocks may depart Soon to meet in the same flow downstream. We two will meet in the same heart again. 『小倉百人一首』077 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ 崇徳天皇(すとくてんわう) aka. 崇徳院(すとくゐん 男性 1119-1164 『詞花集』恋上・二二九 滝を下ってほとばしる水は、浅瀬の流れの速さゆえ、 岩に邪魔され分かれても、下れば一つの流れに戻る ・・・そんな激しい滝川のように、 一時は別れて暮らしていても、 いずれはあなたとまた 逢おう、このまま一人でいるものか、 と、強く念じている私です。 【文法・修辞法】序詞+係り結び... com 2009 解題 「瀬」とは浅瀬、即ち「水の流れの浅い部分」。 この水の流れの元は「滝」ですから、そこから流れ込む「滝川」の勢いは、浅瀬のあたりではいよいよもって激しい 筈・・・この激しさが象徴するのは「 恋情」です。 「A+を+B+み」は原因・理由を表わす定型句で、「AがBなので」の意味になります。 「瀬を早み=浅瀬の水流が速いので」、この「滝川」の水は、途中で邪魔をする(= 堰く)「岩」に当たって、一時的には分断される(=分れる) 憂き目に 遭っても、やがては下流で合流するでしょう(=末に合はむ)。 そんな 清冽にして強烈な滝川の水流にも似た激しい 恋情を抱えつつ、 逢瀬に伴う障害で一度は引き裂かれたとしても、最後には必ずや思いを遂げて「逢はむ=愛する人と一緒になりたい」というこの恋歌の底には、目立たぬ形で「 序詞」が流れています:初句・二句・三句の「瀬を早み岩にせかるる滝川の」全体が、四句「われても=分れても」を導く構造になっているのです・・・が、この 上の句全体を流れる滝川の奔流はあまりに強く歌の全イメージを覆い尽くしているので、これを後続の主意部「たとえ一時的に別れても、最後には二人一緒になりたい」を呼び出すための単なる誘い水として片付けてしまうことは 到底できないし、これを「 序詞」と意識しない人さえ多いことでしょう。 藤原定家が「 序詞の理想型」と考えていた(であろう)「叙景パートとして独立し得るほどの重みを持った、イメージ 訴求力の強い 序詞」の典型例といえる短歌です。 この歌の作者は 崇徳天皇 75代。 鳥羽天皇 74代 の第一 皇子ですが、この父は息子を 疎んじていたようです。 伝説を信じるならば、 崇徳天皇の生母(「 待賢門院」こと 中宮 璋子)は、 鳥羽天皇に 嫁ぐ前にはその先々代である白河法皇 72代 の御 寵愛を受けており、 鳥羽天皇はその先々代(つまり、実の お爺さん)の「お下がり」として、既にお腹の中にいた「落とし種」の 崇徳天皇もろとも、この 中宮 璋子をもらい受けた形だったそうです(『 古事談』による)。 この伝説が真実か 否かはさておくとして、 鳥羽天皇が後々あからさまに 崇徳天皇と 待賢門院を 疎んじることになることだけは、れっきとした史実です。 この時代は 所謂「院政」の世で、政治を動かす実権を握っていたのは「天皇」ではなく「"元"天皇」の「上皇」(出家している場合は「法皇」)でした。 「上皇・法皇」の住居のことを「院」と呼んだので、「院」が動かす政治ということで「院政」という訳です。 天皇は即位しても名ばかりで、我が子に譲位して"元"天皇になってから世の中を動かす、という、何ともややこしい仕組み。 元はと言えば、「幼い天皇を立て、その外祖父として実権を握る、藤原摂関家の 執る政治」への対抗策として、「幼い天皇を立て、その父として実権を握る、元天皇の 執る政治」として生まれたものでした。 元天皇の戦争」は、構造的必然だったのです。 崇徳は、やがて、その「平安天皇間戦争」の最初の犠牲者となる運命の帝だったのでした。 先述の通り、 崇徳は(やはり先々代白河法皇の子ということでしょうか) 鳥羽天皇には愛されませんでしたが、白河法皇は 崇徳を可愛がり、彼が5歳の時に 鳥羽天皇(21歳)に譲位させます。 諸外国の軍隊によく見られる「 新兵をまず"人間以下のドン底状態"に叩き落として"ナニくそーッ!"と 這い上がる気力と根性を無理矢理 掻き立てて、従来の弱い自分の精神・肉体の限界を超越させる」っていうあの方法論的バネ圧縮行為とはまるで訳が違う非建設的な報復の繰り返しに過ぎないんだから。 ただひたすら踏みつけにする側だけが踏みつけて、踏んづけられた側はそれを 恨みに思って、その 恨みを 次代にやり返して・・・こういう不幸の無限連鎖は、 破綻するまで続きます。 破綻しておしまいになれば、それがたぶん世の中にとっては幸福;ただ、その 破綻時点でこの連鎖の上層部に居た人達は、「自分は不幸な被害者」と感じるでしょうけどね・・・「院政」というこの腐った中古日本型システムの 破綻は、白河法皇の死後あたりから始まります:中古の終わり~中世の始まりが、やって来るんです。 白河法皇の死後は、 次代の堀河天皇 73代 が既に死んでいたため、「上皇」として院政を敷いたのは"元" 鳥羽天皇でした。 ここから、 鳥羽院、自分のやりたいように動き始めます。 まずは、「先々代白河院からのお下がり女房」 待賢門院にまつわる人々(当然、 崇徳も、です)を冷遇して、自分が 溺愛した藤原 得子サンという女性(通称「 美福門院」)の人脈へと政治的シフトを始めます。 彼女が 皇子を生むと、 僅か2歳で 近衛天皇 75代 として即位させます 1142。 当然、 崇徳天皇は"元"天皇にされちゃいました:時に 崇徳は24歳、天皇在位19年・・・とはいえ、5歳で即位してのこのキャリアですから、"政界のベテラン"とは言えません。 が、新たに即位した 近衛帝は、形の上では 崇徳の 中宮 聖子の養子となっていたので、その父たる 崇徳は、自分が「院政」を敷けるのでは、と期待していました・・・が、長年白河法皇の下で我慢していた 鳥羽上皇(この時点では既に出家して 鳥羽法皇)が、そう 易々と自分の院政の機会を逃す訳がありません:即位した時には 何故か新帝は 崇徳の「弟」扱い(「子」ではない!)となっていたため、「父」として院政を敷く 大義名分がなくなった哀れな単なる「"元"天皇」の 崇徳を 押し退けて、 鳥羽法皇による院政が始まってしまいました。 ・・・まぁ、考えてみれば、「帝の"父"なら院政有資格者/帝の"弟"と書いてあるから院政は行なえない」なんてただの名目上のインチキ条項、平然と通用しちゃうのがなんとも不思議なジャパネスク、って感じではありますが、ニッポンってそういう国なんだから、どうにもしょうがありません・・・。 崇徳は、不満を 募らせます。 その不満を中和しようと、( 崇徳の母の 待賢門院を 押し退ける形で 鳥羽法皇の 寵妃となった) 美福門院は、 崇徳の長男の 重仁親王を自らの養子として迎え入れます。 仮に新帝の 近衛が跡継ぎなしで終わった場合、 崇徳の血筋が皇位継承者となる可能性を残した訳です。 これ自体は平安時代の皇族間ではよくある政治上の取引ですが、悪いことに、この 美福門院の養子にもう一人、 崇徳の同母弟( 雅仁親王・・・後の" 後白河天皇"その人)の息子の 守仁親王という人がおり、この人もまた皇位継承候補たり得る人だったのです(しかも、"おしめをしてた当時から" 美福門院が手塩に掛けて育てた 実子同然の可愛い 皇子・・・)。 そうして最悪なことには、実際、病気がちだった 近衛天皇が 僅か17歳で跡継ぎもないままに 逝去してしまったのでした・・・この絵に描いたような 跡目相続争いの火種は、 案の定、延々燃え広がってやがては平安の世そのものを焼き尽くす大火事へと延焼して行きます・・・最初の火の手は「 保元の乱」 1156 でした。 舞台はまず、 近衛天皇の 崩御後の、新帝を誰にするかの話し合いの場面。 父であるこの人を飛び越えて、息子の 守仁親王が先に天皇として即位するのは具合が悪かろう(なんたって彼ら、ニッポンジンですから、ヘンなところで 杓子定規に 律儀)ということで、「 守仁親王を即位させるための形式的なワンポイント天皇」として、 次代天皇として 立太子することもないままに、この 雅仁親王が第77代天皇として即位しました:これが「 後白河天皇」だったのです。 時に1155年。 こうして 数奇な巡り合わせから天皇位が転がり込んできた 後白河でしたが、それまでの青春時代は、まさか自分が帝位に 就く 筈があるまいという気楽な立場を 謳歌して、変種の和歌である「 今様」に打ち込むこと 半端じゃなくって、 後日その熱中ぶりが『 梁塵秘抄』 1180頃 という 今様歌の集大成歌集として文芸的に結実します。 ・・・が、政治的観点から言えば、この 後白河の役回りは「平安の世の幕引き役」。 武家である 平清盛、やがては 木曽義仲、 九郎判官義経、そして 源頼朝と、大河ドラマでお馴染みの面々の活躍の舞台の裏表で、必ず何かしら 蠢いていたのがこの 後白河なのでした。 天皇を"使い 潰す"のは、中古の日本の歴史のお家芸で、この 後白河も完全に使い捨てにされる 筈の天皇でしかありませんでした。 鳥羽法皇/ 美福門院側としても、 崇徳上皇側としても、こんな"小物"は最初から眼中にもなかったでしょうし、幾多の歴史書にも、自身の回想録からも、「風流にうつつを抜かすだけで、国を治める人物に 非ず」の色彩が濃厚なのが 後白河だったのです。 が、実際の彼は、ただ使い捨てにされることを 頑迷に拒絶し、自分が使い 潰されるよりむしろ平安の世のほうを叩き 潰す道を選んだのでした。 後白河が天皇にならずとも、既に疲弊していた平安の世はいずれ倒れたでしょうが、この男を表舞台に 担ぎ出した結果、 公家から武家への流れが大幅に加速したのは間違いないところで、いわば彼は日本に"中世"をもたらすために 遣わされた大いなる歴史の手先、「破滅の使者」だったのです。 ノーマークの小人物が、歴史の表舞台に引っ張り上げられる形でひとたび権力の座に 就くと、 往々にしてとんでもないことが起こるのが歴史のおかしなところです。 端的に言えば、本来自分が居るべき場所でもない所に身を置かれると、「こんな場違いなところで、自分は何をすべきか?」の自問への自答が「この場を自分の居るべき場所に変えてしまえ」になるという単純な図式が、この種の"他者の上に立つべき 器に 非ざる名ばかりの 長"の共通の行動原理なのです。 比較的新しい類例を挙げれば、ロシア革命後、偉大なる建国の父レーニンを失った後のソビエト共産党指導者達が、自他共に 次代指導者の 器と認めていた大物レオン・トロツキーを排して、誰一人として指導者の 器とは思いもしなかった小物のヨーゼフ・スターリンを 担ぎ出した例も、全く同様。 共産党指導者達がトロツキーを 敢えて新指導者に選ばなかったのは、レーニンさえ 凌ぐほどの巨大なカリスマ性を持つこの男に権力を与えたら、かつてのフランス革命が結局ナポレオンというカリスマ指導者の独裁帝国に終わったのと同様、ソビエト社会主義人民共和国がトロツキー王国に化けてしまうのではないかと恐れたからでした。 そうならないためには、最も有能な男を排し、最も無能な男を名ばかりの国家指導者に据えた上で、実際の政治は自分達が陰から集団指導体制で動かせばよい、という 思惑でした・・・が、実際そうして無能なるスターリンに政権の座を与えた結果、この無能男は、自らに与えられた職能の全てを、自らが信ずる唯一の職務たる「自分の居場所を作ること」にのみ 注ぎ出します:即ち、「自分の権力を危うくする全ての可能性を排除する」 挙に出たのです・・・わかり易い話が、「自分より能力があり、自分に成り代わり得る潜在的な敵を、政治的・生物学的に、 抹殺する」ことに 血道を上げたのです・・・そして「無能者スターリンにも劣るほどの無能者はソビエト指導部に存在しない」という現実の中で、「スターリン以上に有能な人材達の大量 抹殺」は、必然的に「ソビエト連邦に有能なる人材、なし」の状況を生んでしまいます。 国内の敵を、政治の世界はもとより、軍部からも 悉く葬り去った後で 勃発した第二次世界大戦では、ソビエトに歴戦の名将は皆無だったが 故に、敵であるナチスドイツは 緒戦を有利に戦うことができました。 首都レニングラードまで攻め入って来たドイツ軍の猛攻に、この無能なる国家元首は雲隠れを決め込みました( 後白河もそっくり同じ行動を幾度も繰り返しています)・・・結局、ソビエトが盛り返すことが出来たのは、市民の 果敢な抵抗と、ロシアの冬の厳しさ(あのナポレオンをも敗退せしめた"冬将軍")のお陰・・・。 こういう事例は、何も国家だけに限りません。 人間の集団は、 長の 器に 非ざる者に託されると、その 小物の 器に合わせて必ず 小振りな姿へと無惨に縮小・堕落させられてしまいます。 なればこそ、無能な者を、人の上に置いてはならないのです。 ・・・以下、 後白河が、どのような形で平安の世を破壊して行ったかを概観してみましょうか。 1156年7月2日、 鳥羽法皇が 崩御します・・・父(もしかしたら名ばかりかもしれませんが)の 死に際に、子(名ばかりとの噂でしたが)の 崇徳上皇が 末期の別れをするのは当然のしきたりです・・・が、 後白河はこの父子の死別をわざと許可しませんでした。 鳥羽法皇の 亡骸が眠る京都の町に、これ見よがしに、ものものしい武力警備体制を敷き、戦乱を覚悟せぬ限り 崇徳上皇が絶対に踏み込むことが出来ぬような緊張状態を、意識的に作り出して見せたのです。 後白河は更に、 鳥羽法皇の 臨終後の" 初七日"の法要を、子である 崇徳上皇抜きでそそくさと済ませてしまうことで、 崇徳を思いっきり侮辱・挑発し、対決姿勢をより一層 露わにします。 後白河がこうした暴挙に出たのは、 鳥羽法皇が生前から 崇徳側の攻勢を警戒して 後白河の周囲に有力武士団を結集させ、武力衝突に対する万全の備えを期していたからこそです。 つまり、故 鳥羽法皇勢力たる 美福門院側の「 虎の威を借る狐」の形で、対立する 崇徳院側の 横っ面に往復ビンタを喰らわして、「さぁ、悔しかったら武力で俺を倒しに来るがよい!」とばかりに 喧嘩を売った格好です。 ・・・もっとも、この 喧嘩のシナリオを書いたのは 後白河自身ではなくて、彼の側近の 信西でした。 この時点での 後白河は、謀略渦巻く平安末政界の舞台にいきなり引っ張り上げられて戸惑っている「名ばかりの主役俳優」に過ぎず、 鳥羽院時代から政治の中枢に身を置いていた 信西が、本命である二条天皇の即位前の大掃除として、妻 朝子が 乳母となって育てた男をワンポイント天皇として 担ぎ上げ、 崇徳にぶつける" 噛ませ犬"として使おうとしたのが 後白河天皇だったのです(・・・ 後白河の思わぬしぶとさが、後にこのシナリオを狂わせるのですが・・・)。 7月10日、挑発に乗った 崇徳上皇は、貴族勢力では藤原 頼長、武家勢力では平 忠正・平 家弘・源 為義らと共に、 武力蜂起を期して 白河殿に結集します・・・が、この動きを察知した 後白河側の武士団( 平清盛・ 源義朝・ 源義康)が、翌7月11日の 夜陰に乗じて 白河殿に奇襲攻撃を仕掛け、 崇徳側は総崩れとなります。 藤原 頼長はその場で落命、平 忠正・平 家弘・源 為義らは捕縛された末に三百数十年ぶりに復活した残虐な 斬殺刑で命を奪われ、逃げ延びた 崇徳上皇は 剃髪した上で許しを 乞うべく 後白河天皇の下に出頭しますが、許されることなく 讃岐国への 流刑となりました。 恨みを残して 彼の地で死んだ 崇徳は、京の都に災いをなす 怨霊となった・・・という例の調子の伝説が残ります。 実に(筋の通らぬ狂った仕組みといい、無茶な話でも 鵜呑みにする大衆といい)、 怨霊出現の土壌の豊かな国です、この日本というのは。 この事件以降、陰謀と暴力の美味なる効用を知った 後白河の謀略に次ぐ謀略が京都の町を駆け巡り、武力による 血腥い決着が、政治に代わってゲームの切り札となり、台頭する武家勢力の中でまず 平清盛と平家一門が、次いでその暴虐への不満を受けて木曽の山奥から京都に攻め入った 源義仲が、その京都での失政を 駆逐すべく 源頼朝の意を受けて遣わされた 源義経が、次々と歴史の表舞台に登場します。 そうして彼らはみな 悉く 後白河の裏工作の 餌食となって、歴史の 彼方へと消えて行くのです・・・消え去らなかったのは 源頼朝だけ。 そうして彼が鎌倉幕府を開くことになる訳ですが、言ってみれば、京都の 公家勢力を徹底的に疲弊させぶち壊す形で武家政権の 露払いをしたのが、この 後白河天皇(上皇・法皇)だった訳です。 「 保元の乱」によって 崇徳勢力を葬り去った後は、 信西主導による政治改革( 荘園や寺社の整理・統制等)が断行されます。 その強引さに対する不満がまた、新たな戦乱の火種となり、発火したのが「 平治の乱」 1159 です。 1158年、かねての予定通り、 後白河天皇は、在位3年にして、その 実子(ながら、故 鳥羽天皇の 寵妃 美福門院の養子となって彼女の息子同然に育てられた)二条天皇 78代 に譲位します。 この時点で彼は 後白河上皇となり、彼の「院政」が始まります。 しかし、「院」となったからといっても、ただそれだけで政治の実権を握れるわけではなく、経済基盤と政治的に強力な 後ろ盾に乏しければ、何の意味もありません。 そこで 後白河は、先の「 保元の乱」で敗死した藤原 頼長からの没収領地を自らの経済基盤とし、政治的には、 美福門院+二条天皇側との結び付きの深い側近の 信西に代わる、自らの 子飼いの有力政治家の育成を急ぎます。 そうした 後白河の 思惑の中で、急速に台頭してきたのが藤原 信頼です。 やがて、 後白河院の引き立てによって急激な出世を遂げた 信頼と、 古参の 信西との間に、深刻な対立が生じるのは必然のことでした。 かねてから強引な改革路線を推進してきた 信西に不満を抱く勢力を味方に付けて、 後白河院勢力内から 信西を排除すると共に、 信西とつながる 美福門院側(二条天皇親政派)の勢力切り崩しをも同時に狙って、 信頼は、 源義朝の軍勢と結んで宮中に攻め入り、皇居を火の海にし、 後白河院ともども二条天皇を軟禁状態に置きました:もっとも、 後白河院はこのクーデターのターゲットというより影の首謀者( 信頼は院の意を受けてこの 挙に出た)という説もあります・・・この人、本当に、 得体が知れないのです。 この戦乱の中で 信西は死に、二条天皇・ 後白河上皇双方を確保した藤原 信頼・ 源義朝の軍事クーデターは、成功するかに見えました・・・が、乱の発生時には 紀伊国に出向いていた 平清盛が、異変を知って宮中に取って返し、二条天皇を奪取して、情勢は急変します。 ・・・この際、 後白河上皇は"ノーマーク"、 清盛が大事と見て奪い返そうとしたのはあくまでも二条帝だったのです( 後白河は混乱の最中に" 宮中を自力で脱出"して仁和寺に逃げ込みます)。 その後、平家一門の逆襲によって 義朝の軍勢は敗走、 頼朝・ 義経らその後の源氏のキープレイヤー達も、各地へ 流浪の身となります。 藤原 信頼も、 平清盛の前に引っ立てられて、弁明も空しく処刑されます。 この「 平治の乱」は、 後白河院側(院自身が首謀者であるか 否かはさておき)が、当時の政界最大の実力者である 信西を廃し、二条天皇親政( 美福門院派)を圧倒することを目指して先制攻撃を仕掛けたものでした;が、終わってみれば、 信西・藤原 信頼という政界の二大キープレイヤーは倒れ、以後二条親政派/ 後白河院政派双方ともに疲弊して、両派の争いも小康状態となります。 結局、この乱の勝利者は、 平清盛と平家一門でした。 公家の二大勢力が勢いを失う中、ひとり勢力を伸ばした武家の 清盛一族は、以後、あの『平家物語』で語られるような「平家に 非ずんば人に 非ず」といわんばかりの一門の横暴で、京都の町を荒廃させ、一時は福原(現 神戸)に遷都するなどして、平安の世を一気に崩壊させます。 やがてその平家への不満から、全国の反平氏勢力を糾合して勢いを盛り返した源氏が、平家一門を 壇ノ浦に滅亡させるとともに、400年に及んだ京都の 公家の歴史にも終止符を打ち、鎌倉に幕府を打ち立てて 1192 、歴史は、武家政権の時代へと、 怒濤の 如く流れて行ったのです。 " 後白河"という岩にせかれし 公家の世の流れは、分れて後にはもう再び元通りに戻ることは、ありませんでした・・・ 遙かに時の流れを下った明治時代の「王政復古の大号令」 1868年/ 慶應3年1月3日 までは。 ・・・実に面白いもので、この時に新生日本国の統治者となった「明治天皇」 122代 は、即位に際して 讃岐に使者を送り、この 遠流の地の「 白峯陵」に「 白峯大権現」として 祀られていた「 崇徳天皇の神霊」を安らかに京都へ帰り参らせんがために、「 白峯神宮」を京都の 上京区の 飛鳥井家跡地に創建しています。 この神社にはまた、怨みを残して死んだ天皇の 祟りを 畏れる気持ちから、天皇でありながら「 淡路廃帝」と呼ばれて永らく皇統から弾き出されていた 淳仁天皇 47代 も一緒に 祀られています。 「やまとうた」興隆の 立役者 紀貫之 866-872? に「贈従二位」を出し抜けに贈ったこと 1904 などと並んで、明治維新の持つオカルト的復古主義の一側面を物語るエピソードですが、この神社が 蹴鞠で有名な 飛鳥井家跡地に建てられていることから「サッカーをはじめとする球技全般の守護神」にもなってしまった、というヘンテコなオチまでついているのもまた、なんとも言えずジャパネスク。 ・・・どこまで本気なのか、どこからがシャレなのか、その境界線が「きはぉくらーみぃ= 際を暗み・・・よぉ見えへん」 お話しどすぇ。 そぉ言ぇば、落語にもまた「せぉーはゃーみぃー・・・ 早見瀬尾? 早ぉ見せぇよォ?」を完全に茶化しで使ぅてはる「 崇徳院」いふ お噺し、ありますけど、あれ 高座に掛けはる 噺家はん、ちゃんと「 白峯神宮」にお参りしてはるんやろォか?.

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瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 文法

こんにちは、個別進学塾教匠講師の平木です。 このブログでは、和歌などの古文の話や歴史の話などを、いろいろな余談も交えてしていきたいと思います。 第1回は、高校生なら一度は目にするであろうこの和歌を紹介します。 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし (伊勢物語・第八十二段) 平安時代の歌人、在原業平の和歌です。 「世の中に全く桜がなかったならば、春の人々の心は穏やかであっただろうに」というのが大まかな意味となります。 別に桜が嫌いだからといってこのような和歌を詠んだわけではありません。 桜が咲いていることで「いつ散ってしまうのか…」と心配してしまう。 それほどまでに美しい桜を愛おしく思う気持ちが表れた和歌です。 今でこそ「花」といえば、人によって様々な花を想像すると思います。 平安時代にさかのぼると、「花」という単語を「桜」という意味で使っているものがたくさん見られます。 日本人にとって、昔から桜は特別な存在であったことがよくわかりますね。 (古文の文章中に「花」と出てきたら、まず「桜」ではないかと考えてみてください) この和歌の文法的なポイントは、助動詞「 まし 」 「~ましかば/ませば/せば/未然形+ば、…まし」の形で 反実仮想(もし~ならば、…だろうに)の意味をとります。 また、上の形以外で助動詞「まし」が用いられている場合は、 ためらいの意志(~しようかしら)ととる場合が多いです。 今回の和歌では、第三句に「せば」の形があるので、 反実仮想の意味で取れます。 桜がすぐ散ってしまうように、多くのものが移り変わっていくこの季節、ぼーっとしていたらすぐに終わってしまいます。 いろいろな変化に取り残されず、気を引き締めて様々な物事に取り組んでいきましょう。 hiraki.

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