大社 高校。 大社高校(島根県)の情報(偏差値・口コミなど)

大社高校(島根県)の情報(偏差値・口コミなど)

大社 高校

What's new? 2019. 5 2018秋・2019春の県大会決勝ハイライト動画をアップしました。 2019. 2 春季県大会および中国大会の動画をアップしました。 「過去の試合動画」ページからご覧下さい。 2019. 1 春季中国大会、1回戦で惜しくも敗退しました。 ご声援ありがとうございました。 2019. 3 しました! 2019. 3 ページを設置しました。 「野球研究室」と同じパスワードで入室できます。 2018. 30 を更新しました。 28 を更新しました。 『神奈川で打ち勝つ!超攻撃型バッティング論』の著者・佐相真澄氏が大社高校に いらっしゃいます!奮ってご参加ください!! 2018. 16 を立ち上げました。 日々進化する大社高校野球部をご覧下さい! 2018. 11 、大盛況でした!ご来場誠にありがとうございました!! 2018. 6 お誘い合わせの上、ぜひご参加ください!! 2018. 27 2018. 16 を掲載しました! 2018. 3 しました! 2018.

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大社高校同窓会情報

大社 高校

初日、第一試合、出雲が岡山東に0対5で破れ、1回戦不戦勝の大社高の健闘に地元ファンの期待がいっきにふくらんできた。 大社高相手は、岡山代表の作陽高、一年生ながら本格速球派の関村を擁し、夏の大会でのレギュラー7人が残っている強力なチームであった。 無得点のまま迎えた6回表、一死後、4番飯塚が右中間を抜く3塁打で出場、続く5番小村の初球、スクイズを見事決め、貴重な1点をあげ、これが決勝点となった。 エース飯塚は終始ストライクが先行し、作陽打線を奪三振10、散発3安打に押さえる好投をみせた。 投打にわたる飯塚の活躍で、準決勝へと進んだ。 1点を争う緊張した試合になり、両投手とも最後まで力衰えず、エース飯塚の力投と、それを支えたナイン全員の粘りが、作陽関村投手から1点を奪い取った要因だろう。 3回には、飯塚から代わった松井が、1番山崎以下5連続安打で5点を追加され、崇徳の強打を見せつけられた。 頼みの飯塚が打たれ気落ちしたのか、1回以降散発5安打に抑えられ、完敗した。 しかし、5回以降、崇徳打線を無得点に抑えた1年生の松井投手も見のがせない。 尚、決勝は、崇徳と岡山東の対戦となり、崇徳黒田と岡山東原の両投手の1点を争う投手戦になったが、7回崇徳が4安打と敵失で3点を取り、3対0で秋の大会初の制覇をなした。 第48回選抜高校野球大会(兵庫県西宮市 甲子園球場) 甲子園球場での記念写真 昭和51年2月1日、大社高校に春を告げる吉報が届いた。 「夏の大社」の印象が強い本校初の甲子園センバツ出場である。 大社町が沸きに沸いたのは言うまでもない。 新聞社等の取材攻勢の中、選手達は高畑監督と堀西マネージャー作成の練習メニューによる基礎体力作りと、今まで経験のない寒さの中でのボールを使用した練習が、先輩達の指導の下に行われた。 3月15日に大社駅頭で、多数の町民の激励を受け、PL学園との合同合宿をするため出発した。 合宿終了後、直接甲子園へ乗り込むことになった。 けがのため、小山中堅手は一緒に出発できなかった。 PL学園との合同練習により、4ヶ月半遠ざかっていた試合の感覚も徐々に戻り、順調にチームの士気も上がっていった。 飯塚のけが、須谷の風邪による発熱もあったが、心配するに至らず意気揚々とと甲子園入りし、かぎや旅館に入った。 高畑監督が現役時代、2年連続の大会出場した時と同じ宿舎である。 選手、コーチ全員で近くの銭湯に行く等、高畑監督流の選手への気遣いもあり、適度な緊張感を保ったまま、練習することができ、仕上がりは順調そのものだった。 3月25日、毎日ホールで抽選会が行われ、大社高は大会2日目、第三試合、関東の強豪習志野高との対戦が決まった。 3月27日、開会式が行われ、大社の選手は緊張しながらも堂々入場した。 国旗掲揚で主将がバックスリーンに向かって走り出した。 その中でいちはやく須谷主将が掲揚台へと上がって行った。 開会式終了後軽い練習をした後、宿舎に帰り軽いミーティングをして、明日の試合に備え就寝した。 (登録メンバー) (部 長)黒田 邦宏 (監 督)高畑 忠善 (主 将)須谷 宏行 (投 手)飯塚 幸男 (捕 手)井原 稔 (一塁手)小村 泰三 (二塁手)須谷 弘行 (三塁手)石飛 正人 (遊撃手)福間 章 (左翼手)山本 幹彦 (中堅手)小山 峰明 (右翼手)北島 俊雄 (補 欠)別所 文雄 (補 欠)中島 信彦 (補 欠)永海 精 (補 欠)伊藤 誠 (補 欠)松井 郁男 (マネージャー)堀西 尚志 (記 録)川上 英次 一回戦(3月28日、第3試合) 大社は第2日目第3試合で習志野と対戦した。 関東の強豪、昨夏の甲子園大会に優勝している習志野を相手に、堂々と互角以上の勝負をしたが、終盤大逆転劇に遭い、ほぼ手中にしていた勝利を土壇場で逸した。 4回にも、北島の右前打等で2死1、3塁から2番福間がセンター前タイムリーヒットを放って1点を追加。 7回は、福間、須谷のヒットと1四球で鵜野をKO.代わった藤田から山本の押し出し四球、敵失で3点を加え一方的な試合になった。 しかし、7対1となった8回裏、無死から3番岩崎以下失策をはさんだ連続7長短打を浴び、一挙に6点を取られ、たちまち同点、なおも1死1、3塁にセンター前に抜けるような痛烈なゴロを2塁手須谷がとび込んでアウトにしたものの、その間に3塁ランナーがホームインし、逆転、決勝点を上げられたのである。 追う者の強みがあったにもせよ、確かな打力と甲子園のこわさを知っている習志野だからこそ出来た大逆転だった。 ベンチ前で茫然と整列した選手達には、習志野の校歌は聞えなかったに違いない。 歌えたはずの、もう一歩で歌えたはずの大社高校歌を心の中で歌って、堂々とベンチを後にした選手達の顔に涙はなかった。 先制、追加点に沸く応援団 30校中、13校が初出場というフレッシュな話題性の多い大会だった。 寒冷地のレベルアップと加盟校の増加で、北海道・東北・北信越・山陰の雪国から7校も選出された。 優勝の栄冠は、秋の中国大会でも優勝した初出場の崇徳に上に輝いた。 広島県勢としては、広島商以来45年ぶりの快挙であった。 金属バットが定着してきたのにともない、選手の基礎体力、筋力アップに重点がおかれる練習方法がとられ、山陽勢、特に広島県勢がスピード、パワー、正確さなど、総合的に全国のトップレベルに達していた。 広商野球に象徴される守り野球、精神野球にパワー野球が加わってきた最初の大会だった。 ナインは帰校、全生徒に暖かく迎えられ、須谷主将が甲子園での戦いぶりを報告した。 一番戸惑ったのはもちろん選手達だった。 納得出来ないまま、不安な精神状態で、春そして夏の大会へ向かって始動した。 監督の決まらないまま春の大会は、黒田部長が兼任監督として再び采配をふるうことになった。 <試合経過> (1回) 大 社=北島四球。 福間中飛。 須谷1ゴロで北島2封。 飯塚右前打で須谷3進。 小村遊ゴロ失で出塁の間に山本生還し1点追加。 石飛2ゴロ。 習志野=楠田2ゴロ。 嶌田遊ゴロ。 岩崎ヒット、2盗。 下山田四球。 栗崎左飛。 (2回) 大 社=井原ヒット性の当たりを遊撃手の好守に阻まれる。 小山中前打。 打者北島の2球目に2盗に失敗。 北島左前に巧みな流し打ち。 打者福間の3球目に2盗も失敗。 習志野=金原四球。 金子の犠打で2進。 植草遊ゴロで3進。 鵜野三振。 (3回) 大 社=福間三振。 須谷死球。 打者飯塚の時ヒットエンドランが決まり須谷3進。 山本浅い左飛。 小村2ゴロ。 習志野=楠田中直。 嶌田左飛。 岩崎左飛。 (4回) 大 社=石飛死球。 井原犠打で石飛2進。 福間初球を中前打で石飛生還し1点追加。 須谷2ゴロ。 習志野=下山田中飛。 栗崎三振。 金原右越3塁打。 金子三振。 (5回) 大 社=飯塚遊ゴロ。 山本1ゴロ。 小村投ゴロ。 習志野=植草四球。 鵜野犠打が投野選となり1、2塁。 楠田犠打で植草3進で1死2、3塁。 嶌田投ゴロ。 岩崎左飛。 (6回) 大 社=石飛、井原三振。 小山三3ゴロ。 習志野=下山田三振。 栗崎3ゴロ。 金原中飛。 (7回) 大 社=福間中前打。 須谷遊撃強襲安打。 飯塚四球で無死満塁。 (習志野投手藤田に交代)山本押出し四球で1点。 小村スリーバント失敗。 石飛2ゴロで併殺崩れの間に2者生還。 井原中飛。 習志野=金子四球。 植草2ゴロで金子2進。 藤田3ゴロ。 楠田の左線安打で金子生還し1点を返す。 嶌田の5球目に楠田2盗。 嶌田三振 (8回) 大 社=小山遊直。 北島2ゴロ。 福間四球。 須谷投ゴロ。 習志野=岩崎左前打。 下山田ポテンヒット。 この時から習志野は飯塚のカーブに狙いを。 栗崎の遊撃強襲打を野手が大きくけって岩崎生還、下山田3進。 金原走者一掃の右越え3塁打で2者生還で3点目。 金子左前打で金原生還4点目。 植草中前打。 金子2進。 打者藤田の時ボークで走者2、3塁に。 藤田2ゴロ失で金子生還でこの回5点目で7対6となり、尚、無死1,2塁。 楠田左中間安打で植草生還で同点。 嶌田投手横にバント安打でなおも無死満塁。 岩崎空振りの三振。 下山田2ゴロで2封の間に3塁走者生還し逆転。 栗崎投直。 この回習志野は、一挙6連打の集中打を含む8本の長短打を集め、打者12人をおくる猛攻で奇跡的な逆転に成功した。 (9回) 大 社=飯塚遊ゴロ。 山本2ゴロ。 小村2ゴロ。 母校野球部の監督を退いて10余年が過ぎた。 その頃の記憶も徐々に薄れつつあるが、思いつくままに書き綴ってみたい。 私が野球部の指導に携わったのは昭和50年4月から51年3月までの約1年間余である。 当時の監督だった恩師の一人北井善衛氏の急死、更に新任監督今岡先生の入院と立て続けにアクシデントが重なった時である。 言って見れば代理監督、精神的に不安とか気負いとかなく自然の成り行きで引き受けた監督である。 私は社高野球部時代幸運にも2年連続甲子園でプレーする事が出来、その後の社会人を通して学び得た体験は、私の野球人生に貴重な経験として残っている。 この経験が少しでも生徒達の役に立てばという気持ちで、毎日の練習に取り組んだ。 私は仕事と両立を、生徒達は文武両道を目指し、互いに真剣勝負で頑張った。 当時のチームは下馬評では余り良くなかったが、園山主将を中心に曽田、飯塚2人の投手力が安定しており、石橋捕手、佐藤中堅手を加えたチームのセンターラインが確立されており、内心、全国レベルの高校相手に、甲子園球場で、対等に戦えるだけの確かな手応えを感じていた。 夏の大会の初戦、苦戦の中レギュラーの座を人一倍の努力でつかんだ安食右翼手の一打で勝利を得た時、胸に熱いものを感じた。 そして川上哲治氏の講演で聞いた、「あれほどの努力を、人は運といい。 」という言葉を思い出していた。 初戦突破で調子の波に乗り、順調に勝ち進み県代表へ、山陰大会では米子東に1対0で勝ち、甲子園出場へあと一歩とせまった。 しかし、決勝戦、江の川に5対1で敗れ甲子園の夢は崩れ去った。 近いようで遠い甲子園、「夏の大社」を復活できなかった屈辱を忘れることはないだろう。 この悔しさをバネに、春の選抜に向かって新チーム作りに一層、厳しい練習の時間を費やした。 あまりの厳しさに学校から練習中止の命令が出た時、私にとって一番辛く苦しんだ時期であった。 この時の服部晃先輩の「思うように頑張れ」という一言は何よりも心強く感じた。 新主将須谷をはじめ生徒達がこの障害を乗り越え、小粒ながら機動力のある個性あふれる素晴らしいチームができあがった。 秋の島根県大会決勝で出雲高を7対3で下し、7年ぶりに秋季大会を制覇し、続く中国大会で岡山作陽高を接戦の末、1対0で破り、待望のベスト4入りを果たした。 準決勝、広島崇徳高に12対2で敗れはしたが、伝統ある大社高校野球部の一ページにふさわしい選抜初出場の切符を手に入れることができた。 甲子園出場に先立ち、石飛校長、小村多一先輩等の御尽力を得、大阪PL学園において約一週間の合同練習を行った。 この機会を得たことによって、技術を上まわる精神力の大切さを改めて認識した。 そしてより一層、団結力を深め、記念すべき春の甲子園、相手にとって不足なし、昨夏の優勝校習志野高校との1回戦に臨んだ。 逆転負けにぼう然とするナイン 選手達は固くなることもなく、のびのびとプレーし自分達の野球をした。 初回、山本左翼手の3塁打により、2点を先制し、終盤まで大社の一方的なペースで進んだ。 しかし勝利を目の前にした8回、私の気持ちの緩みが油断に繋がり選手に動揺を与え球史に残る逆転負けとなった。 まさに「高校野球にセーフティリードはない。 」という定説通りの結果となった。 選手たちが100パーセントの力を発揮してくれただけに、自分の不甲斐なさに腹が立ち申し訳ない気持ちでいっぱいであった。 帰りの通路で当時高野連の会長であった佐伯達夫氏から「君、油断だよ」の言葉はい今だに脳裏から消えることはない。 また選手達の入場行進の晴れ姿も私の心に焼き付いて永久に消えることのない素晴らしい思い出である。 帰校と同時に監督としての役目は終わった。 しかし、私も生徒達も、物心両面で御協力御指導頂いたOBの方々の御好意を決して忘れてはならない。 今後母校野球部の発展と夢である全国制覇を期待している。

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島根高校野球掲示板|爆サイ.com山陰版

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初日、第一試合、出雲が岡山東に0対5で破れ、1回戦不戦勝の大社高の健闘に地元ファンの期待がいっきにふくらんできた。 大社高相手は、岡山代表の作陽高、一年生ながら本格速球派の関村を擁し、夏の大会でのレギュラー7人が残っている強力なチームであった。 無得点のまま迎えた6回表、一死後、4番飯塚が右中間を抜く3塁打で出場、続く5番小村の初球、スクイズを見事決め、貴重な1点をあげ、これが決勝点となった。 エース飯塚は終始ストライクが先行し、作陽打線を奪三振10、散発3安打に押さえる好投をみせた。 投打にわたる飯塚の活躍で、準決勝へと進んだ。 1点を争う緊張した試合になり、両投手とも最後まで力衰えず、エース飯塚の力投と、それを支えたナイン全員の粘りが、作陽関村投手から1点を奪い取った要因だろう。 3回には、飯塚から代わった松井が、1番山崎以下5連続安打で5点を追加され、崇徳の強打を見せつけられた。 頼みの飯塚が打たれ気落ちしたのか、1回以降散発5安打に抑えられ、完敗した。 しかし、5回以降、崇徳打線を無得点に抑えた1年生の松井投手も見のがせない。 尚、決勝は、崇徳と岡山東の対戦となり、崇徳黒田と岡山東原の両投手の1点を争う投手戦になったが、7回崇徳が4安打と敵失で3点を取り、3対0で秋の大会初の制覇をなした。 第48回選抜高校野球大会(兵庫県西宮市 甲子園球場) 甲子園球場での記念写真 昭和51年2月1日、大社高校に春を告げる吉報が届いた。 「夏の大社」の印象が強い本校初の甲子園センバツ出場である。 大社町が沸きに沸いたのは言うまでもない。 新聞社等の取材攻勢の中、選手達は高畑監督と堀西マネージャー作成の練習メニューによる基礎体力作りと、今まで経験のない寒さの中でのボールを使用した練習が、先輩達の指導の下に行われた。 3月15日に大社駅頭で、多数の町民の激励を受け、PL学園との合同合宿をするため出発した。 合宿終了後、直接甲子園へ乗り込むことになった。 けがのため、小山中堅手は一緒に出発できなかった。 PL学園との合同練習により、4ヶ月半遠ざかっていた試合の感覚も徐々に戻り、順調にチームの士気も上がっていった。 飯塚のけが、須谷の風邪による発熱もあったが、心配するに至らず意気揚々とと甲子園入りし、かぎや旅館に入った。 高畑監督が現役時代、2年連続の大会出場した時と同じ宿舎である。 選手、コーチ全員で近くの銭湯に行く等、高畑監督流の選手への気遣いもあり、適度な緊張感を保ったまま、練習することができ、仕上がりは順調そのものだった。 3月25日、毎日ホールで抽選会が行われ、大社高は大会2日目、第三試合、関東の強豪習志野高との対戦が決まった。 3月27日、開会式が行われ、大社の選手は緊張しながらも堂々入場した。 国旗掲揚で主将がバックスリーンに向かって走り出した。 その中でいちはやく須谷主将が掲揚台へと上がって行った。 開会式終了後軽い練習をした後、宿舎に帰り軽いミーティングをして、明日の試合に備え就寝した。 (登録メンバー) (部 長)黒田 邦宏 (監 督)高畑 忠善 (主 将)須谷 宏行 (投 手)飯塚 幸男 (捕 手)井原 稔 (一塁手)小村 泰三 (二塁手)須谷 弘行 (三塁手)石飛 正人 (遊撃手)福間 章 (左翼手)山本 幹彦 (中堅手)小山 峰明 (右翼手)北島 俊雄 (補 欠)別所 文雄 (補 欠)中島 信彦 (補 欠)永海 精 (補 欠)伊藤 誠 (補 欠)松井 郁男 (マネージャー)堀西 尚志 (記 録)川上 英次 一回戦(3月28日、第3試合) 大社は第2日目第3試合で習志野と対戦した。 関東の強豪、昨夏の甲子園大会に優勝している習志野を相手に、堂々と互角以上の勝負をしたが、終盤大逆転劇に遭い、ほぼ手中にしていた勝利を土壇場で逸した。 4回にも、北島の右前打等で2死1、3塁から2番福間がセンター前タイムリーヒットを放って1点を追加。 7回は、福間、須谷のヒットと1四球で鵜野をKO.代わった藤田から山本の押し出し四球、敵失で3点を加え一方的な試合になった。 しかし、7対1となった8回裏、無死から3番岩崎以下失策をはさんだ連続7長短打を浴び、一挙に6点を取られ、たちまち同点、なおも1死1、3塁にセンター前に抜けるような痛烈なゴロを2塁手須谷がとび込んでアウトにしたものの、その間に3塁ランナーがホームインし、逆転、決勝点を上げられたのである。 追う者の強みがあったにもせよ、確かな打力と甲子園のこわさを知っている習志野だからこそ出来た大逆転だった。 ベンチ前で茫然と整列した選手達には、習志野の校歌は聞えなかったに違いない。 歌えたはずの、もう一歩で歌えたはずの大社高校歌を心の中で歌って、堂々とベンチを後にした選手達の顔に涙はなかった。 先制、追加点に沸く応援団 30校中、13校が初出場というフレッシュな話題性の多い大会だった。 寒冷地のレベルアップと加盟校の増加で、北海道・東北・北信越・山陰の雪国から7校も選出された。 優勝の栄冠は、秋の中国大会でも優勝した初出場の崇徳に上に輝いた。 広島県勢としては、広島商以来45年ぶりの快挙であった。 金属バットが定着してきたのにともない、選手の基礎体力、筋力アップに重点がおかれる練習方法がとられ、山陽勢、特に広島県勢がスピード、パワー、正確さなど、総合的に全国のトップレベルに達していた。 広商野球に象徴される守り野球、精神野球にパワー野球が加わってきた最初の大会だった。 ナインは帰校、全生徒に暖かく迎えられ、須谷主将が甲子園での戦いぶりを報告した。 一番戸惑ったのはもちろん選手達だった。 納得出来ないまま、不安な精神状態で、春そして夏の大会へ向かって始動した。 監督の決まらないまま春の大会は、黒田部長が兼任監督として再び采配をふるうことになった。 <試合経過> (1回) 大 社=北島四球。 福間中飛。 須谷1ゴロで北島2封。 飯塚右前打で須谷3進。 小村遊ゴロ失で出塁の間に山本生還し1点追加。 石飛2ゴロ。 習志野=楠田2ゴロ。 嶌田遊ゴロ。 岩崎ヒット、2盗。 下山田四球。 栗崎左飛。 (2回) 大 社=井原ヒット性の当たりを遊撃手の好守に阻まれる。 小山中前打。 打者北島の2球目に2盗に失敗。 北島左前に巧みな流し打ち。 打者福間の3球目に2盗も失敗。 習志野=金原四球。 金子の犠打で2進。 植草遊ゴロで3進。 鵜野三振。 (3回) 大 社=福間三振。 須谷死球。 打者飯塚の時ヒットエンドランが決まり須谷3進。 山本浅い左飛。 小村2ゴロ。 習志野=楠田中直。 嶌田左飛。 岩崎左飛。 (4回) 大 社=石飛死球。 井原犠打で石飛2進。 福間初球を中前打で石飛生還し1点追加。 須谷2ゴロ。 習志野=下山田中飛。 栗崎三振。 金原右越3塁打。 金子三振。 (5回) 大 社=飯塚遊ゴロ。 山本1ゴロ。 小村投ゴロ。 習志野=植草四球。 鵜野犠打が投野選となり1、2塁。 楠田犠打で植草3進で1死2、3塁。 嶌田投ゴロ。 岩崎左飛。 (6回) 大 社=石飛、井原三振。 小山三3ゴロ。 習志野=下山田三振。 栗崎3ゴロ。 金原中飛。 (7回) 大 社=福間中前打。 須谷遊撃強襲安打。 飯塚四球で無死満塁。 (習志野投手藤田に交代)山本押出し四球で1点。 小村スリーバント失敗。 石飛2ゴロで併殺崩れの間に2者生還。 井原中飛。 習志野=金子四球。 植草2ゴロで金子2進。 藤田3ゴロ。 楠田の左線安打で金子生還し1点を返す。 嶌田の5球目に楠田2盗。 嶌田三振 (8回) 大 社=小山遊直。 北島2ゴロ。 福間四球。 須谷投ゴロ。 習志野=岩崎左前打。 下山田ポテンヒット。 この時から習志野は飯塚のカーブに狙いを。 栗崎の遊撃強襲打を野手が大きくけって岩崎生還、下山田3進。 金原走者一掃の右越え3塁打で2者生還で3点目。 金子左前打で金原生還4点目。 植草中前打。 金子2進。 打者藤田の時ボークで走者2、3塁に。 藤田2ゴロ失で金子生還でこの回5点目で7対6となり、尚、無死1,2塁。 楠田左中間安打で植草生還で同点。 嶌田投手横にバント安打でなおも無死満塁。 岩崎空振りの三振。 下山田2ゴロで2封の間に3塁走者生還し逆転。 栗崎投直。 この回習志野は、一挙6連打の集中打を含む8本の長短打を集め、打者12人をおくる猛攻で奇跡的な逆転に成功した。 (9回) 大 社=飯塚遊ゴロ。 山本2ゴロ。 小村2ゴロ。 母校野球部の監督を退いて10余年が過ぎた。 その頃の記憶も徐々に薄れつつあるが、思いつくままに書き綴ってみたい。 私が野球部の指導に携わったのは昭和50年4月から51年3月までの約1年間余である。 当時の監督だった恩師の一人北井善衛氏の急死、更に新任監督今岡先生の入院と立て続けにアクシデントが重なった時である。 言って見れば代理監督、精神的に不安とか気負いとかなく自然の成り行きで引き受けた監督である。 私は社高野球部時代幸運にも2年連続甲子園でプレーする事が出来、その後の社会人を通して学び得た体験は、私の野球人生に貴重な経験として残っている。 この経験が少しでも生徒達の役に立てばという気持ちで、毎日の練習に取り組んだ。 私は仕事と両立を、生徒達は文武両道を目指し、互いに真剣勝負で頑張った。 当時のチームは下馬評では余り良くなかったが、園山主将を中心に曽田、飯塚2人の投手力が安定しており、石橋捕手、佐藤中堅手を加えたチームのセンターラインが確立されており、内心、全国レベルの高校相手に、甲子園球場で、対等に戦えるだけの確かな手応えを感じていた。 夏の大会の初戦、苦戦の中レギュラーの座を人一倍の努力でつかんだ安食右翼手の一打で勝利を得た時、胸に熱いものを感じた。 そして川上哲治氏の講演で聞いた、「あれほどの努力を、人は運といい。 」という言葉を思い出していた。 初戦突破で調子の波に乗り、順調に勝ち進み県代表へ、山陰大会では米子東に1対0で勝ち、甲子園出場へあと一歩とせまった。 しかし、決勝戦、江の川に5対1で敗れ甲子園の夢は崩れ去った。 近いようで遠い甲子園、「夏の大社」を復活できなかった屈辱を忘れることはないだろう。 この悔しさをバネに、春の選抜に向かって新チーム作りに一層、厳しい練習の時間を費やした。 あまりの厳しさに学校から練習中止の命令が出た時、私にとって一番辛く苦しんだ時期であった。 この時の服部晃先輩の「思うように頑張れ」という一言は何よりも心強く感じた。 新主将須谷をはじめ生徒達がこの障害を乗り越え、小粒ながら機動力のある個性あふれる素晴らしいチームができあがった。 秋の島根県大会決勝で出雲高を7対3で下し、7年ぶりに秋季大会を制覇し、続く中国大会で岡山作陽高を接戦の末、1対0で破り、待望のベスト4入りを果たした。 準決勝、広島崇徳高に12対2で敗れはしたが、伝統ある大社高校野球部の一ページにふさわしい選抜初出場の切符を手に入れることができた。 甲子園出場に先立ち、石飛校長、小村多一先輩等の御尽力を得、大阪PL学園において約一週間の合同練習を行った。 この機会を得たことによって、技術を上まわる精神力の大切さを改めて認識した。 そしてより一層、団結力を深め、記念すべき春の甲子園、相手にとって不足なし、昨夏の優勝校習志野高校との1回戦に臨んだ。 逆転負けにぼう然とするナイン 選手達は固くなることもなく、のびのびとプレーし自分達の野球をした。 初回、山本左翼手の3塁打により、2点を先制し、終盤まで大社の一方的なペースで進んだ。 しかし勝利を目の前にした8回、私の気持ちの緩みが油断に繋がり選手に動揺を与え球史に残る逆転負けとなった。 まさに「高校野球にセーフティリードはない。 」という定説通りの結果となった。 選手たちが100パーセントの力を発揮してくれただけに、自分の不甲斐なさに腹が立ち申し訳ない気持ちでいっぱいであった。 帰りの通路で当時高野連の会長であった佐伯達夫氏から「君、油断だよ」の言葉はい今だに脳裏から消えることはない。 また選手達の入場行進の晴れ姿も私の心に焼き付いて永久に消えることのない素晴らしい思い出である。 帰校と同時に監督としての役目は終わった。 しかし、私も生徒達も、物心両面で御協力御指導頂いたOBの方々の御好意を決して忘れてはならない。 今後母校野球部の発展と夢である全国制覇を期待している。

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