横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か。 横山長知とは

加賀藩

横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

『 霊猫図(れいびょうず) 』 岸 駒 (がんく・きしこま) 岸駒 (がんく)(1749〜1838)は、江戸時代後期に活躍した画家です。 母のきよが越中東岩瀬(現 富山市岩瀬)の出身といわれ、岸駒も富山生まれではないかという説もあります。 絵を描き始めてしばらくは岸矩 (く)と名のっていましたが、天明4年(1784)頃から仕えた有栖川宮家 (ありすがわのみやけ)から駒という名を賜りました。 その後、京都御所や加賀 (かが)藩金沢城ニ之丸の障壁画 (しょうへきが)を手掛けたりしています。 円山応挙 (まるやまおうきょ)などに影響を受けつつも、自らの画風を確立し、それは子の岸岱 (だい)ほかたくさんの弟子に受け継がれていきました。 この襖絵は京都の寺院にあったものです。 絵の右上に持手があるのが見え、戸として使用されていたらしいことがわかります。 猫の毛の一本一本まで丁寧に、妖しげな目はまるで生きているかのように描かれています。 岸駒が活躍した1800年前後の作品です。 寛永16年(1639)加賀藩より分藩することで、富山藩は誕生しました。 富山藩は、それ以前加賀藩の一部でした。 その藩主は前田家一族です。 少しさかのぼって前田家の動きと富山藩分藩までの経緯をたどってみましょう。 年 代 1585 (天正13) 前田家当主 利家 (としいえ) は、この頃すでに加賀 (かが) ・能登 (のと) を領地としていました。 その息子利長 (としなが) は豊臣秀吉から、越中 (えっちゅう) の3郡 婦負 (ねい) ・射水 (いみず) ・砺波 (となみ) を与えられました。 これが前田家の越中支配の始まりです。 1595 (文禄4) 利家が越中の新川郡 (にいかわぐん)を領地とします。 銀鯰尾兜 (ぎんなまずおかぶと) 伝 利長着用 1599 (慶長4) 利家が亡くなり、利長が前田家を継ぎます。 この時から前田家が加賀 (かが) ・能登 (のと) ・越中 (えっちゅう) の3国を治めることとなりました。 1605 (慶長10) 利長が隠居し、利常 (としつね)が前田家を継ぎます。 加賀藩は、江戸幕府から3国の領有と119万石に及ぶ石高を認められました。 藩主の前田家は日本一の大名となったわけです。 1639 (寛永16) 分藩 富山藩の誕生 加賀藩はその大きさ故に、幕府に厳しく監視されました。 その監視をやわらげるため、利常は富山・大聖寺を分藩し、それぞれ息子たちを藩主にすることにしました。 「加賀100万石」という言葉をよく耳にします。 江戸時代では藩の大きさを米の収穫高つまり石高 (こくだか)(〜石 (こく))で表しました。 加賀藩と、分藩した藩の関係を石高で示します。 加賀藩は100万石以上、富山藩は10万石です。 富山藩の領地は分藩当初 何か所かに分かれており、その石高の合計が10万石だったのです。 しかし治めるのが大変だったため、万治2年(1659)に加賀藩と領地替えをしてもらい、やっと領地が一か所にまとまりました。 その範囲は、新川 (にいかわ)郡の一部と婦負 (ねい)郡です。 (地図3に示します) 富山藩の領地は、加賀藩の領地に挟まれた地域でした。 藩主にならなかった利家の息子たち (としまさ) 利 政 能登方面の領地を治めていましたが、関ヶ原の合戦や大坂の陣などに参加せず、豊臣・徳川両方に属しませんでした。 また兄利長にも従わず、父 利家が亡くなった頃に京都に移り住み、そこで過ごしました。 (ともよし) 知 好 幼い頃から能登の寺院に入り僧になったようです。 一時能登七尾(ななお)城主になりましたが、再び出家し有庵と称しました。 (としとよ) 利 豊 初め神谷氏に育てられ、のちに利常に仕えましたが23歳で亡くなりました。 前田家は菅原家の子孫であると伝えられています。 このため、家紋も菅原道真 (すがわらみちざね)が愛でた梅にちなんだ、梅鉢紋 (うめばちもん)といわれる紋様です。 加賀藩前田家も、分家したそれぞれの前田家もこの紋を用いています。 しかし少しずつ違いがあります。 加賀藩 (ようけんうめばち) 幼剣梅鉢 中心の円を、小さな剣が囲んだ形です。 富山藩 (ちょうじうめばち) 丁子梅鉢 剣の位置は加賀藩と同じなのですが、丁子型のものになっています。 丁子とは木の名前で、つぼみや実から油・香料などができます。 大聖寺藩 (うりざねうめばち) 瓜実梅鉢 富山藩と同様に、剣の位置は加賀藩と同じで、瓜の実の形になっています。 富山藩の丁子は先が出っ張っていますが、これは丸くなっています。 七日市藩 (ほしうめばち) 星 梅 鉢 中心の円を囲む剣はなく、円が少し大きくなった形です。 当博物館の中の資料にも前田家の家紋がついたものがあります。 探してみませんか。

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大名家一覧

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加賀八家とは前田綱紀の時に設けられた役職です。 本多家の五万石を筆頭に前田土佐守家、前田対馬守家、村井家、横山家、奥村宗家、奥村支家、長家と前田家の草創期を支えた者たちにその役職を与えました。 前田土佐守家は事情がちょっと異なります。 土佐守家は藩祖、前田利家と正室のまつの次男である前田利政の系列の家柄です。 利政は関ヶ原の戦いの際、出陣要請を断った為、嵯峨野に隠居することになります。 その息子が前田利常の時代の時に仕えたので、禄は他の八家に比べると少ないです。 ただし、利家とまつの血筋であるため、待遇は良かったとか。 また八家老の禄が全て1万石をこえていたことから、加賀には9人の殿さまがいるとも言われていました。 yamabuki005さん。 名指しで失礼します 汗 前田長種は利家の時の家臣ですよ。 本多氏以外は利家存命中に、利家もしくは利長に仕えた家臣たちです。 長氏は与力だったので立場は家臣と言い難いかもしれませんが。 歴史群像シリーズ「奮闘・前田利家」から引用させてもらいます。 五代藩主前田綱紀 加賀藩中興の名君です。。。 が幕府の職制に倣って1686年に制定しました。 大年寄 大老ともいう 、人持組頭、年寄役 家老ともいう 、若年寄の職制を設けて藩政の最高合議機関としたそうです。 大年寄から、本多政長 五万石 ・前田孝貞 一万八千石 ・奥村庸礼 一万二千石 ・奥村時成 一万七千石 人持組頭から、前田直作 一万一千石 ・長直連 三万三千石 ・横山英盛 三万石 この七家を合わせて七手頭と称しました。 後に、村井長親 一万六千五百六十九石余 を加えたのが八家の始まりです。 ちなみに石高では一番少ない前田直作ですが、この人は前田利家次男の前田利政の流れを汲んでいる人なので八家の首班となりこの慣例は明治まで続いたそうです。 しかし流石「加賀百万石」といわれるだけあってすごい石高ですよね。 五万石やら三万石やらそこらへんの大名と変わらないですよね。。。 他にも一万石クラスがごろごろといるんですよ。

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加賀藩歴代藩主とその姫達

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来歴 [編集 ] にて生まれる。 重教が弟の第10代藩主に家督を譲って隠居した後、生まれた息子である。 寛政7年(1795年)、兄のが夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。 翌寛政8年(1796年)11月に江戸に出府、松平の名字を与えられ 、12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、を又左衛門、を 利厚とする。 寛政9年2月、将軍よりを授かり 斉広に改名する。 正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。 2年()に、治脩の隠居により家督を継いだ。 加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。 治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折した。 文政5年()、嫡男のに家督を譲って隠居し、肥前守を称した。 文政7年(1824年)に43歳で没した。 の短編小説「煙管」(1916年)では、金無垢のをモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている。 系譜 [編集 ]• 正室:琴姫(尾張養女・高須女、のち離縁)• 正室:(隆子・眞龍院、二女)• 側室:栄操院 八尾(家臣・小野木之庸女)• 長女:直姫(1809年 - 1825年) - 小倉藩婚約者• 長男:(1811年 - 1884年) - 加賀藩12代藩主• 次女:厚姫(1813年 - 1852年) - 会津藩主室• 四女:寛姫(1815年 - 1856年) - 小倉藩主小笠原忠徴室• 次男:他亀次郎(1817年 - 1825年)• 六女:郁姫(1818年 - 1829年) - 婚約者• 七女:寿々姫(1819年 - 1835年) - 家臣・室、次姫と双生児• 八女:次姫(1819年 - 1823年)• 四男:延之助(1821年 - 1834年)• 側室:遠成院 留奴(家臣・坂井成美女、のち家臣・沢田施政に嫁す)• 三女:勇姫(1813年 - 1875年) - 大聖寺藩主室• 側室:貞成院 登佐(加藤伝左衛門孫女)• 五女:タカ姫(1818年 - 1831年) - 久留米藩婚約者• 側室:月光院 里(家臣・安田忠義女、のち家臣・不破方叙に嫁す)• 三男:為三郎(1819年 - 1819年) 初め正室の琴姫とは享保3年(1803年)12月結婚したが、2年後の文化2年(1805年)8月、琴姫は病気を理由に実家の藩邸に移ったまま戻らず、翌3年8月離縁した。 後にに再嫁している。 継室の夙姫とは文化4年(1807年)12月に結婚した。 前田家は後添えはもらわぬと称していたというが、斉広は慣例を破って継室を迎えた。 また、初めての公家からの正室であった。 斉広の代の家臣 [編集 ] 元年の江戸で見られる斉広の主要家臣は以下のとおり。 【八家の、年寄】(附役兼務)、、、、、、、、前田右近 【その他の家老、年寄】、、前田織江、前田修理(附役兼務)、前田兵部、前田権佐、前田式部、前田掃部 【】大橋作左衛門、渡辺久兵衛、杉江助四郎、寺西平左衛門 【附】(文政元年に単独で附職の者の記載なし) 【】長瀬善右衛門、岡田十郎左衛門、大島三左衛門、里見七左衛門 脚注 [編集 ].

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