千葉 胤 連 という 人物 は 次 の うち 誰 を 養子 に 迎え た こと が ある か。 武家家伝_陸奥寺崎氏

千葉一族【い】3

千葉 胤 連 という 人物 は 次 の うち 誰 を 養子 に 迎え た こと が ある か

の家老の家柄という。 いつの頃からか帰農したようで、桃生郡橋浦村名主・ 甚助は 千葉を称していた。 その後、4代当主・ 太右衛門は宝暦飢饉で村民を救済して仙台藩主から名字帯刀を許された。 7代目の 甚左衛門は天保14年、仙台藩主より「縦三引両紋」(仙台藩主・伊達氏の家紋)のついた白壁の土蔵を拝領した。 橋間 千葉一族。 木内氏の分流か。 発祥地は不明。 応永8(1401)年8月、 木内胤行(四郎) 木内胤信(七郎)、 木内胤継(平次左衛門尉)、 橋間胤保(左衛門次郎)の四名が、千葉氏の奏者として香取社録司代・ 慶海に対し祈祷に精を出すことを申し渡している。 橋本 上総千葉氏の祖・ 上総権介秀胤の子孫に 橋本秀助が見える (『山門文書』)。 「はせ」とよみ、 東一族の「長谷氏:ながい」氏とは別流。 陸奥国名取郡長谷村を発祥とする。 亘理元胤(因幡守)の三男・ 胤重(美作守)は亘理家の別家となる。 胤重には娘が一人いて、兄・ 宗元(右近大夫)の次男に嫁がせて 重景(紀伊守)と名乗らせ、その嫡男・ 景重(修理亮)は亘理本家とともに涌谷にうつり、 涌谷伊達氏(亘理氏)の重臣となった。 景重には子がおらず、 中野大膳の二男を養嗣子として 重長と名乗らせて亘理家を継がせ、重長は伊予と称した。 重長の代に陸奥国名取郡長谷村に住したことから、長谷氏を称するようになる。 重長ののちは嫡男・ 景親(左馬助)が継承。 二男・ 景時(藤左衛門)は別家となる。 景親の嫡子・ 重親(新三郎)は早世してしまったため、 葛西重常(壱岐)の四男を養嗣子として 重長(三郎左衛門)と名乗らせた。 亘理重景(紀伊守)の二男・ 盛景(又七郎)は宗家の 亘理元宗(兵庫頭)から亘理の称号を賜って別家をたて、元亀2(1571)年5月、信夫郡浅川において25歳の若さで討死を遂げた。 盛景に子はなく、叔父・ 村岡亘理胤信(右近)の二男・ 景長(善七郎)が継承したが、景長の兄・ 実信(彦右衛門)が早世したことから、景長は実家の村岡亘理家を継ぐこととなり、盛景の家は絶家となった。 もう一流、椎名氏一族の野手氏の出もある。 小田氏の重臣・多賀谷氏に仕えた 肘谷清胤(八郎左馬允)の次男・ 胤時(小四郎大炊助)が結城郡長谷村(場所不明)を領して長谷を称したといわれるが、下総国匝瑳郡野手村に隣接する長谷村(匝瑳市長谷)が発祥地か。 上総介平高望七代目の 景常が天喜4(1056)年、伊勢守に任じられて伊勢国一志郡伊藤庄に館を構えたことから伊藤を称したという。 しかし、景常は秀郷流藤原氏の一族で、平家方の侍大将である 伊藤忠清(上総介)・ 景清(悪七兵衛)らと同じ一族かもしれない。 景常の孫・ 常隆は常陸介に任じられて常陸国へ赴き、次男・ 常久は承安元(1171)年に上洛して平清盛に仕え、治承3(1179)年、常陸国の目代となって常陸国に下向した。 しかし、その翌年、源頼朝が挙兵したことで関東の情勢は激変し、常陸国が千葉介常胤らによって平定されると、雌伏した。 文治元(1185)年、常陸国筑波郡中村郷の名門・ 中村朝宗に仕え、彼とともに奥州藤原氏との戦いに従軍して功をあげ、信夫郡梁川村・伊達郡梁川村・柴田郡支倉村に所領を与えられて、 朝宗の家老となった。 その子・ 久成が支倉村に館をかまえて支倉と称する。 その後は伊達氏の宿老となり、代々伊達郡南方の大将になったが、天文14(1545)年に 支倉常正が伊達稙宗に従って二本松の戦いに参戦したが、兄弟3人を失ってしまう。 常正のあとは次男の 時正がついで信夫郡山口村に館を移し、武者奉行に任じられ、大崎白石の戦いに参戦した。 そのあとを甥の 支倉常長が継ぐが、時正の晩年に 紀伊守と 常次が生まれたため、常長と常次にそれぞれ六百石を分与して分家させ、嫡男・紀伊守は大坂の陣に従軍している。 支倉常長像(仙台城址) 支倉常長の父・ 常成は信夫郡山口村を領して山口を名乗るが、その子・ 常長は支倉宗家の時正にははじめ子がなく、養子として本家を継いだ。 その後、時正に二人の子ができたために、時正の次男・ 常次とともに分家して六百石を受けた。 常長は早くから 政宗に信頼され、21歳で 伝令将校に抜擢。 他領地の情報収集に長けた武士だった。 そんな常長が ローマへの遣欧使節団長に抜擢されることになる。 慶長18(1613)年9月15日、キリスト教フランシスコ派神父の ルイス・ソテロとともに 牡鹿郡月ノ浦を出帆。 船は五百トンの帆船「 サン・ファン・バプチスタ」。 太平洋を横断してノビスパン(メキシコ)を経由し、翌年の1月に スペインのマドリードに到着。 国王フェリペ3世に謁見して洗礼をうけ、 ドン・フェリポ・フランシスコと称した。 9月にローマに入り、 教皇パウロ5世に謁見、ローマ市から 市民権を与えられたが、政宗が望んでいた「 奥州司教区」の創設と「 日西通商条約」の締結は不成功に終わり、元和4(1618)年に帰途についた。 帰途は喜望峰、インドなどを経由する航路であった。 そしてフィリピンのマニラに至ったとき、江戸幕府がキリシタン禁制を出したことを知り、元和6(1620)年8月26日、単身仙台に帰国するが、 キリシタン禁令により閉居を命じられ、その2年後の元和8(1622)年7月1日、不遇のまま52歳で亡くなった。 寛永17(1640)年、常長の子・ 常頼と 常道の兄弟は キリシタンとして処刑された。 しかし常頼の子・ 常信は罪を許され、本領を安堵、子孫は仙台藩士として続いた。 支倉常長がローマ市から与えられた 「ローマ市公民権証書」や政宗が教皇に宛てた書状は現存している。 また、昭和20年7月の仙台大空襲によって焼失した政宗の廟所「瑞鳳殿」の再建のために政宗の石棺をあけたところ、中に横たわる政宗の遺骸のかたわらに、常長が欧州から持ち帰ったとおもわれる黄金のブローチや銀製の装飾品、メダイなどが発見された。 これらは仙台市博物館に収められている。 大須賀氏の一族・ 田部多胤秀(次郎左衛門尉)の子・ 胤盛(民部)が大須賀保幡谷(千葉県成田市幡谷)を領して幡谷を称した。 系図上では子になっているが、実際には田部多胤秀の子孫か。 胤秀は大須賀氏初代・胤信の子であり、 顕朝(次郎太郎)の子は 『千葉大系図』『松蘿館本千葉系図』には書かれていない。 その後は千葉宗家の直臣として活躍した。 が江戸から招いた歌人・ 衲叟馴窓は佐倉を中心に歌道を広めたが、その衲叟馴窓が永正11(1514)年に編纂した私家集 『雲玉和歌集』に、勝胤の家臣と思われる 幡谷胤相(加賀守)・ 粟飯原信尊(民部少輔)・ 海保幸清(丹波守)・ 円城寺道頓などが名を連ねている。 このほか、・ 太田資清・ 太田資長(太田道灌)ら千葉氏と敵対した人物の名も見ることができる。 祖の 花井門十郎は常陸国府中出身の人物で、谷中の日蓮宗寺院・ 瑞林寺(感応寺ともいわれる)の寺小姓となっていた。 慶長7(1602)年、慶長の役で徳川方、石田方いずれにもつかずに中立を決め込んだため改易処分とされた相馬家の再興願いをするため、相馬家嫡子・(のちの利胤)が瑞林寺に寄宿して旗本のつてを探した。 このとき、住職・日瑞上人の協力もあり、赤沢常重、藤野宗右衛門、そして島田治兵衛が相馬家再興に尽力してくれたおかげで相馬家は中村六万石を認められ、大名家として再興することができた。 その後、当主の相馬義胤が江戸に出府し、徳川家康・秀忠の両君と面会。 その帰途に瑞林寺に立ち寄り、世話になった日瑞上人に、寺小姓の 花井門十郎と上人の甥・ 首藤嘉助を相馬へ引き取ることを申し出て了承を受け、蜜胤は 花井門十郎を 泉藤右衛門胤政に、 首藤嘉助を 岡田八兵衛宣胤にそれぞれ預けて、泉家、岡田家の一族とするべしと命じ、花井門十郎は 「泉縫殿助」、須藤嘉助は 「岡田蔵人」となり、子孫は代々中村藩の家老職となった。 花井門十郎こと 泉縫殿助乗信は相馬家重臣の池田次郎左衛門直助の娘を娶り、重臣の列に連なった。 乗信は慶安元(1648)年7月27日に亡くなった。 法名は 傑勝玄英。 新沼村(相馬市新沼)にあった 新沼山宝泉寺に葬られ、代々の菩提寺となった。 乗信の長男・ 縫殿助成信は相馬藩家老となり、次男は薊家に養嗣子に入り 薊弥左衛門となる。 三男は原家の養嗣子となって 原権太夫を称した。 長女は御一家・ 泉田掃部胤精の妻となる。 しかし成信の養子・ 左五兵衛が罪を犯して寛文13(1673)年8月13日、 切腹を命じられると、連座制により、成信の長男・ 縫殿助は改易された。 その後、縫殿助の嫡子・ 泉嘉右衛門為信は許されて召し出され、家老に列し、御一家筆頭・ 岡田與左衛門伊胤の娘を娶った。 娘は家老・ 門馬嘉左衛門景経の妻となっている。 しかし、泉縫殿助家はこの為信の代で後嗣が絶えて断絶していまった。 こののち、泉家が再興することはなかったが、泉縫殿助成信の三男・原権太夫の孫・ 七郎大夫信英が本氏の花井氏として祭祀を継承した。 花井七郎大夫信英は中村藩重臣となり、 富田六郎右衛門実信の娘を娶るが、跡継ぎとなる男子がなく、 松本彦左衛門敷重の次男・ 平蔵を養嗣子として貰い受け、 花井六太夫信逸となった。 その婿養子・ 花井六太夫信以(花井甚五左衛門義房三男)は花井氏と死別後、御一家・ 泉内蔵助胤寧の娘(田原橘左衛門為定継母)を妻とした。 信以の長男・ 花井七郎大夫信興は 猪苗代貞之丞盛常の娘を娶り、藩内でも重臣として活躍した。 長女は家老・ 門馬嘉右衛門孝経の妻となり、次男・ 原伝右衛門信賢は原伝右衛門信豊の婿養子となった。 そして三男・ 花井助大夫は公族・ 相馬将監胤慈の養嗣子となり、 相馬将監胤武となった。 胤武の母が御一家・泉内蔵助胤寧の娘であったことで、御一家の急養子に定められたと思われる。 四男・ 立野助太夫儀房は 立野久左衛門定房の婿養子となる。 花井信興の嫡子・ 花井七郎大夫信因は岡田儀左衛門長意の娘と結婚し、嫡男・ 花井祐蔵信祥は天保8(1837)年正月、家督を相続。 4月に 花井助太夫と改名した。 嘉永6(1853)年9月7日、 在郷中頭に就任した。 さらに万延元(1860)年6月15日、 御使者・江戸屋敷御刀番となる。 幕末の動乱期には外交などに携わった。 埴谷 千葉一族。 発祥地は上総国武射郡埴谷村。 埴生 房総平氏の一族。 の次男・ 恒直(次郎)が埴生庄(千葉県印旛郡一帯)を領して埴生を称した。 「恒直」の名は中世に薩摩へ移った平氏・ 指宿氏に伝わる系譜にのみ見られるが(『指宿文書』)、 「恒直」は 「承暦四年為兄常永被殺害」とあり、承暦4(1080)年に兄・ 平常長に討たれたという。 もし、常長と恒直の抗争が事実とすれば、常長は弟・恒直の埴生庄を巡って争ったのだろう。 常長の子に 「埴生九郎常門」が見えるが、恒直跡を領したものか。 常門の跡は 大竹常遠(太郎)、 麻生久常(次郎)が、それぞれ埴生庄大竹郷()、麻生郷()を領したようだ。 その後、の弟・の子・ 時常(二郎)が埴生庄を称しており、千葉宗家の手に移ったと推測される。 時常ははじめ 「上総介次郎」を称していたと思われ、嘉禎4(1238)年1月1日の北条時房による椀飯で三御馬を兄・とともに曳いている。 時常の「時」はおそらく北条氏を烏帽子親として付けられた一字だろう。 兄のは、幼少のに代わって千葉氏の家政を取り仕切り、幕府内での権勢も次第に強まっていった。 さらに上総に領地のある 三浦義村の娘を正妻に迎え、三浦氏との繋がりを強めていった。 秀胤は自身の領地を広げるという野心もあって、弟の時常の所領であった 埴生庄(成田市)を横領してしまう。 時常はこれに怒って秀胤と断交した。 こうした中で、執権・ 北条時頼は三浦氏・上総氏の勢力拡大を恐れ、前年にあった 藤原頼経(先代の将軍)の計画した時頼追討の共謀者として、三浦泰村・上総秀胤らを「評定衆」から罷免した。 三浦泰村はこれに怒り、ついに宝治元(1247)年6月5日、時頼との合戦に踏み切った。 これを 宝治合戦という。 秀胤は泰村の妹婿という立場と時頼に対する恨みから三浦氏に加担したようだが、いち早くこれを察した時頼は、千葉一族の勢力を殺ぐいい機会として、千葉一族の(素暹)・を上総国一宮にあった秀胤の館に急行させてこれを討たせた。 このとき、秀胤と断交していたはずの 埴生時常は、 兄の危急を聞きつけて上総一ノ宮に急行し、群がる武士達を切り伏せて館内に入る。 館の中では覚悟を決めた秀胤の一族がおり、 時常は彼らとともに自決した。 『吾妻鏡』にはこのことを 「並死骸於一所、勇士之所美談也」と讃えている。 ただ、秀胤の子・ 上総泰秀(五郎左衛門)は討手である東胤行の娘を妻に迎えており、生まれたばかりの男子が一人いた。 胤行は時頼に懇願して、孫にあたるこの男の子のほか、時常の子1人、秀胤の幼い子・孫たち3人をたすけて庇護している。 埴生庄は秀胤・時常の死後、 足利泰氏(宮内少輔)の所領となり、建長3(1251)年12月2日、泰氏はこの埴生庄にて三十六歳で密かに出家を遂げた。 しかし、この出家は幕府の許可を得ないものであったため、12月7日、埴生庄は没収され、代わって 金沢北条実時(掃部助)に与えられた。 金沢北条氏と埴生庄の結びつきはこの時から始まり、下総に金沢称名寺の法灯が伝えられることとなる。 郡上篠脇城下の明建神社 の子・が美濃へ下る際に同行した宿老・ 埴生高師(太郎左衛門尉)がいた。 高師は妙見菩薩に供奉して美濃に向かい、妙見社(現在の明建神社)を造営して 代々神主となっている。 越後国奥山庄内の土地についての争論で 「埴生下総三郎兵衛尉清胤女子平氏 字松弥今者死去」が見える。 彼女は 「越後国塩澤村 并塩谷村田五段畠山野以下得分物」が 「和田彦四郎茂実」によって押領されていることを訴え、延慶3(1310)年9月12日の御下知によって知行が認められたが、彼女は嘉暦3(1328)年以前に亡くなり、夫である 「海老名又太郎忠顕」ならびに 「和田左衛門四郎茂長女子平氏 字土用若」に 「奥山庄内荒居、江波多以下村々」の打ち渡しを幕府に要求した。 これに対して、嘉暦3(1328)年9月24日、幕府問注所の摂津道準は 「尼生蓮茂長後家 、今者死去跡」を除いた分を、両名に打ち渡す旨を、池駿河七郎大夫をして伝えた。 ここに見える 「埴生下総三郎兵衛尉清胤」がいかなる人物かはわからないが、宝治元(1247)年に一ノ宮で自刃した埴生時常(次郎)には男子が一人いて、の嘆願によって助命されており、彼の子孫なのかもしれない。 東氏流では(本庄盛胤)の五男・ 胤文(又四郎)が 香取郡東庄馬場村を領して馬場を称した。 諸系譜では胤文の孫・ 胤郷(又次郎)以降は書かれておらず、子孫は不明。 千葉流では、の末子・ 胤重(五郎)と千葉介氏胤の子・ 重胤(八郎)が馬場を称した。 こちらの発祥地は 印旛郡馬場村(成田市馬場)と思われる。 馬場胤重(五郎)は南北朝の騒乱の際には、兄のに従って戦功を挙げたという。 馬場重胤(八郎)は 印旛郡公津村(酒々井町公津)に、郎党の 円城寺尚家(弾正)、 円城寺政俊(刑部少輔)、 片野胤定(美濃守)とともに移り住み、子孫は周辺各地に広まった (『千学集抜粋』)。 孫の 「金山殿」は馬場から約一キロ北の「金山村(成田市下金山・東金山)」、 「公津殿」は馬場から南西八キロの「公津村」、 「岩橋殿」ことは公津から三キロほど南の「岩橋村(酒々井町下岩橋、上岩橋)」に移り住んだと思われる。 岩橋輔胤は、との滅亡によって滅んだ千葉宗家を継承することになり、宗家の本拠地を自分の本領に程近い 本佐倉城(岩橋より西三キロ)に移した。 本佐倉は印旛沼の水運と防御に適しており、以降の千葉介の本拠地として発展していく。 輔胤は 寺崎城(佐倉市寺崎)に在城したとも伝えられている。 室町時代後期の 馬場胤平はが妙見遷宮式に親胤の馬を曳いているが、胤宗流か氏胤流かは不明。 家紋は「丸に十五枚笹」・「十曜」。 宗家の領内、千葉郡浜野村発祥。 原 千葉一族。 千葉宗家の筆頭家老。 戦国時代末期には宗家を陰から良きに悪きに支えた。 原氏は大きく分けて以下のように3つの流れがある。 (1)原常余 鴨根常房(三郎)の弟で養子。 小城千葉氏の家老である岩部氏・仁戸田氏は彼の子孫。 (2)原光氏 千葉介氏胤の次男で初名は満氏(二郎)。 子・常光は「原二郎」として原氏を再興した。 子孫は甲斐国に移った。 (3)原胤高 千葉介満胤の子といわれ、子孫は千葉氏筆頭家老となる。 諸国に広まっていった流れは、この流れが多いようだ。 常途は下総国香取郡原郷(多古町染井)に住んで 原四郎と称した。 子孫は原郷の周辺に移り住んで、円城寺・岩部・仁戸田・牛尾・飯篠・原口・江里口・峯・晴気・粟飯原・大原・次浦・江指・千田・岩沢・鞍持・佐野らの諸氏が生まれた。 承久3(1221)年5月に起こった「承久の乱」の後、一族・ 原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。 その子・ 胤重は松枝合戦で戦死。 甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。 しかし、武田勝頼が滅ぶと帰農した。 (2)千葉介氏胤の次男・ 光氏(二郎)は、関東公方・足利氏満(1359-98)から偏諱を受けて 満氏と名乗ったが、のち 光氏と改名、子・ 常光は 「原二郎」と称した。 その子孫・ 胤重(二郎左衛門)は甲斐国に移住している。 (3)千葉介満胤の四男・ 胤高(孫次郎)は、原氏の名跡を継承(原胤惟養女を妻としたとされる)して原を称し、彼の子孫は千葉宗家被官として栄えていくことになる。 子孫・ 原胤房(越後守)は鎌倉府侍所所司・千葉介胤直の側近として鎌倉にあり、公方屋敷にも出仕して鎌倉公方とも昵懇にあった。 しかし、胤直は上杉氏(幕府方)と成氏との争いの中で、康正元(1455)年、胤房の諫言も聞くことなく上杉氏に加担。 胤房は成氏と結んで千葉庄に帰っていた主君・胤直に軍を向ける。 千葉館にいた胤直一族は成すすべなく千葉を脱出し、被官の多くが本領を持つ千田庄へと逃れた。 しかし、胤房は胤直の叔父・馬加陸奥守入道と結んで千田庄多古城ならびに島城を攻めて、主家である 千葉宗家を滅ぼした。 同年中、足利義政は成氏の追討のため、下総国東庄に所縁の奉公衆・ 東常縁に御教書を与えて下向させ、 上総国浜野に所領を持つ奉公衆・ 浜春利(式部少輔)を副将とした。 彼らは下総国に入ると、大須賀左馬、国分五郎ら千葉六党の国人衆に召集をかけ、馬加城に攻め寄せた。 馬加陸奥入道・原胤房らは防戦したが敗れ、胤房は千葉方面に逃れる。 胤房はその後も東常縁との戦いを続けるが、連敗を重ねたようだ。 そしていつしか胤房は名を見せなくなる。 その後、 原胤隆(宮内少輔、宮内太輔)が千葉庄小弓城主として活躍を見せ、おそらく胤隆の子孫が原氏の嫡流となり、 小弓城主となった。 永正14(1517)年、上総国真里谷城主の 武田三河守入道恕鑑が小弓城を攻め取り、武蔵国高柳に在館していた 空然(足利政氏の次男で鎌倉鶴岡八幡宮寺若宮別当)を迎えて空然は還俗し、 足利義明(右兵衛督)を名乗った。 この戦いに城主・ 原二郎は敗れ、一族の 原友胤(能登守)は子を連れて甲斐の武田信虎を頼った。 そしてこの子は信虎から偏諱を受けて元服し、「虎胤」と称した。 のちの武田二十四将「 原美濃守虎胤」である。 こうして小弓城は足利義明の居城となり、 「小弓上様(小弓御所)」と称される。 一方で領内を荒らされた千葉介勝胤は、相模国小田原の北条氏綱に義明追討を要請した。 しかし、氏綱は 「時を待って行動しましょう」といって積極的に応じなかったため、仕方なく義明と和睦しているが、義明には傲慢な性格が現れ、天文3(1534)年、彼を後見してくれていた 武田恕鑑に切腹を命じ、恕鑑は怒り心頭に達して憤死した。 さらに彼の死後、嫡男・ 武田信隆と次男・ 武田信応が家督をめぐって争い始めた。 信隆は義明のやり方に無念で仕方がなく、 北条氏綱と結んで義明を討つべく助けを求めた。 一方で異母弟・信応は義明に取り入って信隆追討の兵を挙げた。 天文7(1538)年10月、義明は武田信応・里見義堯と結んで、古河公方・足利晴氏の足元である関宿攻略のために下総国府台に進出。 一方で、古河公方方の北条氏綱が国府台に攻め入り、激戦の中で足利義明は討死。 小弓城は当時の原家当主・ 原胤清のもとに戻った。 この戦いを 「第一次国府台の戦い」という。 原氏はその後も千葉宗家の家宰として宗家の舵取りを行い、室町時代末期に臼井城に本拠を移して半独立。 宗家の執権は庶流の 原親幹(若狭守)・ 原胤長(豊前守)がつとめるようになっていた。 そして臼井原氏最後の当主・ 原胤信(吉丸)は天正18(1590)年、小田原合戦の余波を受けて臼井城を開城し、徳川家康の側近となった。 天正18(1590)年、徳川軍によって手賀城は陥落したと思われ、城主・ 原久胤の弟・ 原胤次が板倉勝重の推挙によって慶長18(1613)年、江戸町奉行・島田正利の組与力に就任。 子孫は代々南町奉行与力として幕末まで続いた。 胤藤の子・ 原胤貞(出雲守)は応永6(1399)年3月20日「肥前国神埼郡倉戸城」で討死した。 子孫はおそらく千葉家家臣として続いている。 しかし、忠長が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、連座して子の 重国とともに追放された。 その後、寛永13(1636)年12月10日赦免されて大番に列し、寛永15(1638)年12月1日、二百俵を賜って旗本に列した。 原胤歳は武田信玄に仕えた部将で、その子・ 胤従は信玄の目付役鎗支配で、武田氏の滅亡後に家康に仕えた。 胤従は家康の関東入府に伴なって、武蔵と甲斐の中継地である八王子を任された千人同心頭十二家のうちの1家として八王子に赴任した。 胤従は千人同心「葵組」の元締めであり、胤従は家康の麾下として奥州平定戦、文禄慶長の役にも参加。 その子・ 胤虎は関ヶ原の戦いで秀忠軍に加わって上田城攻めなどに活躍した。 屋敷は八王子追分町に七千坪の広大なものであったが、10代・ 原胤敦の時代の寛政11(1799)年12月12日、火災で焼け落ちた。 胤敦は翌年早々に配下を率いて蝦夷地へ渡って警備と開拓に従事、文化5(1808)年に八王子に帰郷した。 胤敦・ 胤広・ 胤禄の3代は幕府の地誌編纂事業に携わる。 初代・原胤歳は身延山久遠寺に埋葬され、2代・胤従以降は、胤従が開基となった上野原宿本立寺に埋葬された。 初見は 原胤継(肥前守。 入道行朝)である。 胤継は宝徳3(1451)年に宗家の原胤房と私闘を起こしたのち小弓城に拠った。 胤継が文明13(1481)年に亡くなったのち、子・肥前守(法名行源)が継ぐ。 その子・ 光信(能登守)は国府台の合戦では宗家の原胤貞に従って活躍したと思われる。 その子・ 能登守(法名日源)は元亀元(1570)年に里見氏と戦って戦死した。 景広は文明2(1470)年3月、臼井庄弥富郷に日蓮宗勝興山長福寺を建て、文明11(1479)年、臼井城に攻めてきた太田道灌の軍に突撃して戦功をあげている。 景広の嫡男・ 孫九郎は永正14(1517)年5月に足利義明との戦いで戦死した。 次男の 弾正忠はそれより2年前の永正12(1515)年に没している。 四男・ 胤行は天文7(1538)年の国府台の戦いで宗家・原胤清にしたがって出陣したものと思われ、 『千葉大系図』によると 「天文六年出張国府臺有軍功」とある。 胤行は天文19(1550)年の千葉妙見社遷宮の儀式の際には、惣領家の 原胤清の献上する神馬を曳きたてており、胤清の子・胤貞の神馬は、(1)の小西原氏の 原胤次(隼人佐)が曳いている。 大野村(市川市大野)を本拠としており、 「豊前守」を称した人物が系譜に多いことから、本作倉原氏となんらかの関係があったのかもしれない。 主に下総・武蔵の国境付近で討死している人物が多いことから、下総千葉氏と上杉氏との戦いのなかで戦死したと考えられる。 ただし、森山原氏と並んで戦国末期の 千葉宗家筆頭家老をつとめた。 原宗家である臼井原氏はすでに千葉宗家の家老という立場ではなく、千葉宗家とは密接な関係を保ちながらも独立した北条氏臼井衆の筆頭に位置していた。 千葉宗家の家政を取り仕切ったのははやくから千葉宗家の直臣として仕えていた原氏の庶流(本作倉原氏・森山原氏)であったと考えられる。 戦国末期の当主・ 原胤安は千葉宗家存続のためには北条氏の力を頼る他ないと考えていたようで、強硬に北条氏の介入に反対する 原親幹(森山原氏)と対立した。 親幹の態度はかなり強硬だったようで、胤安は北条氏直に下総出兵の要請までしている。 結果的に原親幹は説得に応じて降伏。 千葉宗家は北条氏に乗っ取られることとなった。 本作倉原氏と並んで戦国時代末期の 千葉宗家筆頭家老。 原親幹は千葉介親胤より偏諱を受けていて、その重用ぶりがうかがえる。 北の佐竹氏・大掾氏との備えとして、海上氏の居城・森山城(千葉介胤富が海上氏家督として入っていた)城将としてこれを守る。 北条氏が千葉介邦胤亡きあと、千葉宗家乗っ取りを画策するとこれに強行に反発。 親北条氏の本作倉原氏と激しく対立した。 しかし、北条氏が親幹の能力を高く評価していたためか、北条氏は粘り強く親幹を説得。 ついに親幹は出家して北条氏の支配下に入った。 その後も親幹は北総の要と考えられており、隠居は許されずに森山城将・海上氏の後見を命じられた。 はじめは織田信長に仕えて、柴田勝家に従い北陸地方を転戦する。 美濃土岐氏の一族とされる。 (2)幕末の土佐藩兵学師範に 原茂胤がいた。 茂胤は藩祖・山内一豊が定めた 北条流軍学を学び、弓隊が無用の長物だと唱える 乾退助(のちの板垣退助)がすすめた鉄砲導入に強硬に反対した。 原常途の子孫といわれる。 相馬重胤が奥州に下った際に従って行方郡小高郷に住む。 相馬高胤の時代、 原胤安(大蔵少輔)が大井邑に移った。 その子・ 原胤盛(玄蕃)とその子・ 胤寿(次郎右衛門)が宇多郡藤崎邑に移住し、その後、 駒ヶ嶺堡主に任じられた。 胤盛の次男・ 原胤直(左近・伊卜)の墓は小高郷入迫に残る。 その子・ 胤政(三郎衛門)は分限帳では6貫40文を知行したという。 その子・ 庸吉(新右衛門)は慶長の相馬家中村移封に際して中村に移り、200石を領した。 しかし、その後にゆえあって50石に減封され幕末にいたる。 嫡流の 原伝右衛門は200石、庶流の 原茂右衛門は20石、 原三郎右衛門は8石。 摂津は子・ 久長(治部)とともに相馬盛胤に仕え、要衝・駒ヶ嶺塁主に抜擢される。 しかし、伊達政宗が攻め寄せてきたため迎え撃ったが、ついに陥落。 摂津・久長父子は盛胤のもとに逃れ、坂元の戦いで戦死した。 胤寿の次男は 原三河を称し、大井邑に館を構えて14貫550文を領した。 その子・ 近江は慶長7(1602)年の中村藩成立と同時に中村城下に移り、子・ 助兵衛は127石を給され、六代目の 八左衛門は元文年中(1736-1741)に所領を没収されて滅んだ。 16世紀初頭の原氏の当主は原胤隆(宮内少輔)だった。 永正6(1509)年、 原胤隆は連歌師として名高かった 柴屋軒宗長を小弓城に招いて盛大な連歌の会を開くなど、歌人としての才能もあったようだ。 また、胤隆の三男・ 範覚が十三歳で 北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉市中央区「千葉神社」にあった別当寺)の 妙見座主に就任している。 本来、 妙見座主には千葉介の子が就任するしきたりとなっていたが、胤隆の子が就任するほど原氏の力は強かったようだ。 そして範覚が四十三歳で亡くなると、 千葉介勝胤の子・常覚(安寿丸)が座主に就任するが、彼は 原胤隆の娘を母としており、結局原氏の影響力が残る形になったと推測される。 妙見信仰は千葉一族の共通の重大事項であり、その頂点に原氏の子弟が就任していることをみても、原氏の権勢の強さがうかがわれる。 の子・(鴨根三郎)の子孫で、 原常継(十郎)の孫・ 原忠綱(又七郎)の五代の孫・ 原秀胤(対馬守)が文明元(1469)年12月に肥前に下向して原口を号した。 子孫はと原口氏に分かれるが、原口氏は 原口胤清(三郎)の七代の孫・ 原口平二兵衛以降の系は不詳である。 晴気 千葉一族。 小城千葉氏の流れをくむ家で、はじめ千葉鍋嶋家家臣、のち佐賀藩士となる。 家紋は 月星、十一曜。 正しくは 「晴氣」。 知行地は三根郡などに四十五石。 の子・には三人の娘と男子が一人おり、男子は 馬場清兵衛茂周の養子となり、 馬場帯刀を称したが早世した。 長女は 永田利右衛門に嫁ぎ、二女は 本告作左衛門に嫁いでおり、胤信は三女に 鹿江忠兵衛茂次の子を嫁がせて養嗣子とし、鍋島千葉家初代・となった。 一方、鍋島千葉家の名跡を継いだ常貞とは別に、 長女(永田利右衛門妻)の子(胤信には外孫)を養子に迎え、 千葉作兵衛胤仲を名乗らせた。 胤仲は叔父で義兄の 鍋島常貞の家臣となり、「千葉」姓を憚ったのか、鎌倉期の千葉氏西遷に随った 「飯篠」氏の名跡を継いで 「飯篠作兵衛尉」を称している。 胤仲の長男・ 常豊は石井忠右衛門の聟養子となり、 石井仁右衛門を称した。 正徳元(1711)年9月25日に亡くなった。 二男・ は江戸の徳川家菩提寺である 東叡山寛永寺の塔頭・一乗院の住職にまで昇った。 胤仲の長女は 関平兵衛の妻、二女は 犬塚三兵衛の妻、三女は 三谷八左衛門の妻となった。 胤仲の三男・ 胤之が 石井武右衛門を称し、その後、 飯篠胤之と改めて飯篠家の家督を継ぐ。 妻は石井権之丞の妹。 はじめ二十石を賜り、その後も微増を重ねて享保6(1721)年に神埼郡六丁牟田に所領を給わり、八十石取りとなった。 しかし、翌享保7(1722)年、江戸において人を傷つけ、家籍を没せられた。 飯篠胤之には三男三女があり、長女は白石鍋島家の家臣・ 牧要人(牧右衛門允)の妻となり、長男・ 郡右衛門胤陳は本来は飯篠家の家督を継ぐ者であったが、享保7(1722)年に父・胤之が刃傷沙汰を起こしたことから飯篠家は絶家とされてしまった。 そのため胤陳は、元文元(1736)年、五代藩主・鍋島信濃守宗茂の命を受け、石井新右衛門の養子となって石井新右衛門家の名跡を継いだ。 妻は石井七郎左衛門常長娘。 二男・ 作兵衛胤春も藩公・宗茂の命で「飯篠」を「晴気」と改めた。 二女は 広渡雪之進の妻となり、三男・ 常意(常政)は石井六右衛門忠之の養嗣子となった。 なお、飯篠家は武右衛門胤之で絶家とされたが、胤之の長男・ 石井郡右衛門胤陳の次男・ 野口利平次胤稠(野口三左衛門養子)が胤之家の再興を許されて 石井利平次胤清と改めて家督を継いだ。 晴気作兵衛胤春は飯篠から 藩公・宗茂の命を受けて改姓し、 初代晴気家当主となる。 妻は 志波喜左衛門慎之娘。 「晴気」は千葉家の先祖伝来の地である小城郡晴気村の由緒によるものか。 長男・ 平八は早世し、長女も早世。 二女は 伊東杢兵衛の妻、三女は蓮池藩士・ 原口三郎左衛門隆朗の妻となった。 胤春の二男・ 晴気胤丘ははじめ 軍蔵を称し、のち 作兵衛。 妻は 松永新右衛門忠英娘。 晴気胤丘の長女は 石井数馬尚方の妻、二女(始)は 石田利兵衛為武の妻となり、長男・晴気軍蔵が家督を継ぎ、 晴気作兵衛と改める。 三女は手明鑓・ 今泉新兵衛妻。 なお、藩公・鍋嶋斉直の命によって、石井数馬尚方の養女となった 龍女(藤堂家家来・高井九郎右衛門娘)は佐賀城奥向に上がり、 「唐橋」を称し、その後 「薗岡」となった。 さらに藩公の側室となって 「於増」と称し、 保九郎、 鍋島丹波守直永、 豊姫の母となった。 晴気作兵衛には跡継ぎの男子がなく、 深堀新左衛門正方の子を三女の婿養子に迎えて 晴気善作演胤として家督を譲った。 長女は所伝不明、二女は足軽の 嘉村庄助の妻となった。 その後、作兵衛に実子の 作一郎が生まれ、善作演胤の養子として家督を継いだ。 昭和期の軍人・ 晴氣慶胤陸軍大佐はこの晴氣家の流れをくんでいるのかもしれない。 椎名氏の祖・ 椎名胤光(六郎)の子・ 松山胤平(三郎)は、八日市場郷松山に松山神社を建立したときに、自身の事を 「其之地之豪族林資朝之孫、上総介良兼之門葉」と言っていることから、松山胤平は 林資朝の娘の子であろうと思われる。 林家はその後、椎名一族・ 野手氏の家老となり、戦国中期の 林資平(左平大)は野手氏の一族となっていた。 野手城主・ 野手義長が天文4(1535)年3月18日に 押田修理亮に滅ぼされると(野手合戦)、資平の子孫である 林左太夫(全仲)と 林弥右衛門らは義長の三男・義通とともに小田氏を頼っている。 また、林弥右衛門の兄・ 弥左衛門は野手に残ったという。 「はんざき」と読む。 遠祖は藤原北家と伝わり、相馬氏の功臣・ 木幡氏の一族。 発祥地は行方郡飯崎村(南相馬市小高区飯崎)。 盤崎村については、鎌倉後期に(彦次郎)が自らが惣領であると主張するために作成したと思われるの中に、小高村とともに 「闕所(領主不在地) 」として記載されているのが初見。 こののち、小高・盤崎村はによって師胤の母・ 尼阿蓮に知行が認められた。 相馬師胤の嫡子・に従って奥州へ下った 木幡範清(周防守)の弟・ 政清(伊予守)を飯崎氏の祖とする。 政清の子・ 胤清(紀伊守)は相馬氏より「胤」字を賜って一家に列した。 その後、木幡氏は室町時代まで代々相馬氏の筆頭家老・執事をつとめた家柄となった。 そして、胤清の子孫・ 胤秀(紀伊守)は相馬隆胤の代に小高郷中島に所領を与えられ、氏を木幡から飯崎へと改めた。 文安2(1445)年2月、牛越塁主(南相馬市原町区牛越)・ 牛越定綱が突如、相馬隆胤に謀反を起こした。 隆胤はみずから追討の軍勢を率いて牛越城に向かったが、中島塁主の 胤秀(紀伊守)が定綱と通じたため、隆胤は逆に攻めたてられる形となってしまった。 この危機を救ったのが 文間胤久(萱浜嘉右衛門尉)と 青田清弘(豊田三郎左衛門尉)の二将で、彼らは偽って牛越城に降伏して定綱を斬殺。 相馬勢は牛越城に乱入して攻め落とした。 胤秀は降伏して許された。 応仁2(1468)年3月21日、隆胤以下一族重臣たちが高野山金剛峰寺無量光院に銭を寄進した際、 「飯崎胤秀」が五十疋を、 「修理進」が百文を寄進している。 胤秀以降、 繁安(但馬守)、 安元(紀伊守)、 清安(右兵衛佐)と三代にわたって武功の臣として名を馳せる。 清安は永禄年中に起こった 青田顕治(信濃守)・ 左衛門父子、 草野胤清(式部)、 飯崎盛清(主水正。 飯崎本家で木幡家の惣領)が伊達家に通じた際には、に従って、彼らを宇多郡に追討した。 清安の郎党・ 高橋文右衛門は立谷村での戦いで、伊達家の武将・ 大谷地掃部を討つ大功をあげている。 清安の子・ 安吉(四郎左衛門)は81貫275文を領したが、慶長7(1602)年に家中減知にともなって北郷に44石1斗を知行。 その後、元和年中(1615-24)に出家して高野山に登り、後継ぎもなかったため飯崎氏嫡流は断絶する。 清安には 左近将監・ 但馬守・ 八郎の三人の弟がおり、それぞれ武勇で知られていたが、左近にも但馬にも子がなく、末弟・ 安定(八郎)が飯崎氏をついだ。 このとき飯崎氏はすでに半農半士の身分であり、幕末の当主・ 飯崎文五郎は宇多郡小高郷川房村に11石を給されていた。 ただし、府下給人 28石以上 と在郷給人 27石以下 で分かれる。 「御家中」と称された。 「給人」と称された。 ||||||| copyright(c)1997-2013. all rights reserved 当サイトの内容 文章・写真・画像等 の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。

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粟飯原氏・三

千葉 胤 連 という 人物 は 次 の うち 誰 を 養子 に 迎え た こと が ある か

大原氏は奥州千葉一族で、葛西家中最大の重臣であった。 その出自は千葉飛騨守頼胤の子宗胤が、東山大原の山吹城に住して大原氏を称したことに始まるいう。 しかし、宗胤の出自については諸説があり、「大原氏系図」「星氏系図」「西館熊谷系図」などに記された兄弟の数も一致しないが、百岡照胤の弟であるとすることは、諸系図とも一致している。 大原氏の登場 さて、宗胤の父とされる飛騨守頼胤は、鎌倉将軍藤原頼嗣に仕え、寛喜二年(1230)八月、奥州探題として下向し箱崎に住したという。 しかし、藤原頼嗣が将軍職に就いたのは寛元二年(1244)であるから、寛喜中の将軍頼経の誤りか、寛元の誤りであろう。 また、頼胤は千葉氏の嫡流が称するところの「千葉介」をも称していた。 このころ葛西家の当主は清時であったが男子が無かったため、千葉介頼胤の三男胤信を養子とし、胤信はのちに清信と改めている。 頼胤の室は葛西清時の妹であり、清時と胤信(清信)は伯父・甥の関係であった。 「千葉系図」にも、千葉介頼胤の三男胤衡が葛西家を継いだと伝えるものがある。 大原宗胤の父千葉介頼胤と葛西家の養子となった胤信の父千葉介頼胤とが同一人物とする確証はないが、同時代の人物であったとみてまず間違いないだろう。 そして、宗胤の父千葉介頼胤を寛喜・寛元頃の人物とすると、宗胤の大原移住は、さらに時代の下降も考えられるが、宗胤の弟重胤が寛喜元年に葛西氏に仕えたことが知られる。 以上のように、千葉介頼胤の寛喜二年の奥州入り、その子で宗胤の弟の重胤の寛喜元年の奥州入りなどから考えると、大原宗胤の大原入りも寛喜中のことであったと考えられる。 宗胤には実子が無かったようで、大原氏の二代は弟重胤の子重光が入り、のちに信親を名乗った。 ところが「西館熊谷系図」には、宗胤の兄国胤の二男に大原正光を記している。 おそらく大原信親は宗胤の甥であり、正光とも重光とも称したのであろう。 「星系図」では、信親の次に重胤・重康・重信と続き、信久に至り、その譜に「大原山吹城主、五万貫」と伝える。 ところが「大原系図」では、信親の譜に「正和二年九月、室根新宮権現勧請」と伝え、「星系図」にみえる大原重康の譜に「正和二年九月、室根新宮祭」とある記述とは二代の差がみられる。 さらに、「大原系図」では、親久の譜に「東山大原山吹城主、五万余貫」とあることから、信久と親久は同一人物であろう。 このように、大原氏の系譜は諸系図によって不審な点が多いのである。 加えて「西館葛西系図」によれば、葛西清親の二男重政が大原城に居住し、大原氏を称したとある。 重政の兄清時は系図によれば弘安十年(1287)に卒去したとあることから、重政も鎌倉時代の人物ということになる。 大原氏の発祥と系譜は、まことに渾沌としているのである。 中世、大原氏の動向 大原氏は、その後葛西氏の重臣として活躍した。 胤常の子胤義は胤常が生きている間に館を出て、新たに奥玉郡橘城を築いて移っている。 胤常が亡くなると胤義が四十二歳で家督を継ぎ、徳治三年(1308)に没した。 そのあとを継いだ子の胤信は葛西氏の老職に列し、南北朝時代の直前の元徳二年(1330)に没した。 胤信の嫡男胤高に関する事蹟は伝わっていないが、南北朝期、主家にあたる葛西氏は北朝に属しているから胤高もこれに従ったと思われる。 しかし、一族の大原備中守宗信は、南朝方の北畠顕家に従って建武二年(1335)十月五日に戦死したことが知られる。 宗信は、胤高の弟と思われるが重胤の子の可能性もある。 いずれにしろ、中世大原氏歴代の事蹟は詳らかではなく、わずかに永享十一年(1439)、大原清胤が大崎戦に出陣したことが知られるばかりである。 さらに、いまに伝わる「大原系図」は系も引かれていず、記された譜も不審な点が多いものである。 ところで、大原氏の出自に関して前記とはまったく異なる説もある。 奥州千葉一族であったことは共通しているが、こちらの説では千葉介胤正の子胤親が陸中国磐井郡大原村を領して大原を称したことが始まりという。 しかし、胤正の子に胤親という人物は系図上には見えない。 しかし、胤正の娘の一人が上総一族の相馬常清の子貞常に嫁ぎ、彼の子が常親と名乗った。 常親はのちに上総一族の「常」を千葉一族の「胤」と変えて胤親と名乗っていることから、祖父の千葉介胤正もしくは叔父の成胤の養子となったとも考えられる。 奥州の戦乱 さて、大原広光の子で十三代家督を継承した広忠のとき、文明六年(1474)三月、気仙沼城主熊谷丹波守直氏が東山に逃れて広忠を頼ってきた。 『熊谷家譜』によれば、「直氏、直行第四男。 享徳二年生。 熊谷清九郎、丹波守。 母気仙沼熊谷右馬助直賢女。 文明六年春、与父直行不和、及楯鉾、為浪士出奔、同年三月赴磐井郡、同郡東方旗頭大原郷主千葉肥前守平広忠為幕下、賜采地五十余町、居于大原郷内野里。 永正九年二月二十二日不禄、年六十、法名西慶」とある。 つまり、熊谷直氏は父・直行と不和になって合戦におよび、敗れた直氏が大原氏を頼った、ということになる。 広忠の子飛騨守信広は、文明七年三月、気仙郡横田村で矢作氏と戦い、その合戦で次男信綱を失っている。 この戦いは、前年の熊谷直氏の一件が絡んでいるものと思われる。 すなわち熊谷直氏が父直行と戦って敗れ大原氏を頼ってきたことで、大原信広は直氏を後援して気仙郡の熊谷直行を攻めた。 一方の直行も代々同盟を結んでいた気仙の矢作千葉氏に援軍を頼み、大原氏との間で合戦になったものであろう。 子飛騨守信広は、葛西・大崎両家が内訌に揺れた「明応の乱」において、薄衣美濃入道と同盟して葛西大守に反抗した。 このとき葛西勢に城を包囲されて万事窮した薄衣入道が、伊達成宗に救援を求める書状を送ったのが有名な「薄衣状」で、このなかに大原肥前守として出ているのが飛騨守信広である。 この乱に際して、信広の嫡子信明は葛西太守方に味方して父と袂を分かっている。 乱の結果は詳らかではないが、その後、葛西氏には伊達氏から宗清が入っており、おそらく伊達氏の仲介によって終熄したものとみられる。 永正元年(1504)春、東山折壁郷において、上折壁氏と遠藤氏が衝突し、七月には気仙郡横田・矢作郷を中心に気仙の浜田氏と東山の大原信明が衝突した。 葛西領内も確実に戦国の風が吹き荒れるようになったのである。 合戦は大原方の勝利に終わったようで、大原信明の麾下として出陣した熊谷直恒は、戦功によって葛西重信から所領を給せられたと伝えられている。 大原・浜田の合戦の原因は不明だが、直恒の一件から、私闘ではなく大守葛西氏に公認されたものであったようだ。 おそらく、浜田氏が大守に反抗を企て、大原信明が葛西氏の重臣として追討にあたったものと思われる。 大原信明は信輔とも称したようで、葛西氏麾下の大身として権勢を振るっていた。 混迷を深める奥州 天文十一年(1542)、伊達家中に「天文の大乱」とよばれる内紛が発生した。 すなわち、伊達稙宗・晴宗の父子が不和となり、ついに、晴宗が父稙宗を幽閉したことが乱の始まりであった。 この伊達氏の内紛に、奥州の諸大名は、稙宗派と晴宗派とに分かれて互いに抗争する事態となった。 葛西氏では当主の高信をはじめ、大原氏・富沢氏・柏山氏らの大身は晴宗派に属した。 翌年五月、伊達晴宗は大原飛騨守に書状を送り、「葛西三郎殿、稙宗に力を合わせ、大谷に出陣せんとうかがう。 (中略)案外至極というべきか」というものである。 葛西三郎は稙宗の子で葛西氏に養子として入った晴清であり、父に協力したことで葛西家中も二派に分かれ、葛西領内は騒擾することになった。 そのような状況のなか、伊達晴宗は大原飛騨守に葛西三郎が稙宗に加担したことを遺憾に思う旨を書き送ったのである。 この大原飛騨守とは信胤のことと思われ、東山大原城主で葛西領内屈指の大身であり権勢を有していた。 晴宗の書状は、そのことをうかがわせる傍証ともいえよう。 当時の大原氏の歴代について、仙台の『封内名蹟志』には、大原郷山吹城主で播磨守信光、その子飛騨守信茂その子飛騨守茂光と伝え、天正末年、葛西氏没落のとき滅亡したとある。 飛騨守信茂は盛岡藩士「葛西系図」に「親信別腹之兄也。 大原千葉弾正忠信胤為子、継家督号千葉飛騨守」とある。 天文十二年、葛西高信(晴胤)が大原信光の嗣子に、その子信茂を入れたことは、大原氏の葛西氏家中における権勢をさらに高めたことであろう。 永禄四年(1561)、薄衣上総介清正と鳥畑胤堅とが合戦した。 鳥畑胤堅は松川鳥畑城主であり、薄衣清正は清貞の子と思われる。 この合戦は、鳥畑胤堅が大原に退去する結果となった。 このころの大原氏は信光が存世していたようだが、信茂の活躍が知られる時代であった。 また、大原氏は鳥畑胤堅の祖母が出た家であり、親戚として鳥畑胤堅を保護したのであろう。 以後、鳥畑氏は大原氏に仕えることになり、子孫は大原氏の重臣となっている。 戦国時代の終焉、大原氏の没落 奥州の地で諸大名が合戦に明け暮れているとき、中央政局は大きく転回し、織田信長ついで豊臣秀吉が天下統一に大きく前進しつつあった。 そして、天正十八年(1590)春、秀吉は小田原北条氏の討伐を開始する。 この小田原の陣こそ、奥州の諸大名のその後の明暗を分ける契機となったのである。 それは、小田原の陣に対して参加したか否かによって決定づけられた。 すなわち、小田原不参加組の大名は、その後の「奥州仕置」により、所領を没収され没落の運命をたどることになる。 大崎・和賀・稗貫の諸氏であり、葛西氏も同様であった。 ここに奥州の戦国時代は一大転機を迎え、近世へと歴史は大きな変化をみせるのである。 諸大名の没落とともに、その家臣らの運命も定まった。 多くの武将が没落し、葛西氏家中屈指の大身を誇った大原氏もあえなく没落した。 大原氏麾下の宿老である鳥畑氏の「鳥畑系譜」の堅長の譜に「天正十九年八月十四日、大原千代竹丸(重光)、桃生郡深谷庄に於いて害した後、浪士と為し、同郡天狗田邑に移り民間に交わる」と大原氏の没落を記している。 また、「葛西大崎陣割之覚」によれば、大原飛騨守なる人物を記し、その子に六男をあげ、うち五人が一揆に参加して深谷に討死したとしている。 すなわち、光胤、定胤、国胤、頼胤、忠胤、致胤であり、致胤以外はすべて深谷で討死したとある。 ところで、天正十七年(1579)大原信茂は、鳥畑伊予守を通じて、砂金二百五十目を京都衆に引き渡す予定になっていたことが「鳥畑系図」にみえている。 ところが、大原系図では、信茂は天正十一年に卒し茂光の代であり、その茂光も天正十七年に卒去したという。 しかし、その後の天正十八年まで大原飛騨守は活動したことが知られる。 このように、終焉期の大原氏の動向は諸説錯綜して判然としないのが実状である。 奥州仕置後の大原氏は、岩淵信経の子で養子となった信辰が重光の家督を継いだことが知られるばかりである。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料… 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。

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【ニッポン城めぐりクイズの答え】5/2 千葉胤連という人物は、次のうち誰を養子に迎えたことがあるか?

千葉 胤 連 という 人物 は 次 の うち 誰 を 養子 に 迎え た こと が ある か

------------------------------------------------------ 【あ】 赤崎伊予守【あかざきいよのかみ(15?? ~15?? )】 松浦郡佐世保城主。 相神浦松浦親家臣。 通称伊代。 室は遠藤盛胤の娘。 遠藤盛胤とともに佐世保城を守備した。 松浦親が飯盛山城退去すると、松浦隆信に仕えた。 松浦親が遠藤盛胤を謀殺した際には、松浦親勢に属した。 悪太左市【あくたさいち(15?? ~1586)】 松浦隆信家臣。 松浦隆信の命をうけ佐々清左衛門、佐志方杢兵衛、中倉甲右衛門とともに遠藤盛胤の嫡男遠藤右近を討取った。 1572年、「佐志方城の戦い」では、大村純忠に寝返った針尾三郎衛門を討取る戦功を挙げた。 朝日頼貫【あさひよりつぐ(15?? ~15?? )】 養父郡朝日山城主。 少弐資元家臣。 東肥前国十九城将のひとり。 1528年、大内義興勢の攻撃を受け落城した。 1530年、大内義隆は少弐資元を討伐するため杉興運らを派遣し、朝日頼貫、筑紫尚門らを降伏させた。 朝日宗贇【あさひむねよし(15?? ~15?? )】 朝日頼貫家臣。 官途は近江守。 姉川惟安【あねかわこれやす(15?? ~15?? )】 神崎郡姉川城主。 少弐資元家臣。 官途は中務大輔。 東肥前国十九城将のひとり。 1545年、馬場頼周が水ヶ江城主龍造寺家兼を妬んでその枝連衆を謀殺するという事件を起こした。 その際は少弐冬尚に属して参陣して戦功を挙げた。 1546年、馬場頼周はに龍造寺家兼の反撃を受け討死し、少弐冬尚も龍造寺家兼と対立することとなった。 1555年、少弐冬尚が龍造寺隆信の攻撃を受け自刃すると、姉川惟安も龍造寺隆信に降伏した。 1570年、「今山の戦い」では、大友義鎮勢に属したが大敗後、再び龍造寺隆信に属した。 姉川信安【あねがわのぶやす(15?? ~15?? )】 姉川惟安の男。 官途は中務大輔。 1570年、龍造寺隆信の「少弐政興討伐」に参陣して戦功を挙げ、三根郡米田に1,000石を領した。 土肥家実らとともに三根郡米田を守備した。 1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。 姉川信秀【あねがわのぶひで(15?? ~15?? )】 姉川惟安家臣。 通称兵庫助。 1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。 1583年、肥後玉名郡横島の城に転封し大野別府の太田家豊らとともに横島城を守備した。 綾部鎮幸【あやべ しげゆき(15?? ~15?? )】 三根郡綾部城主。 綾部泰幸の男。 官途は備前守。 東肥前国十九城将のひとり。 1551年、村中城主龍造寺隆信の本家の家督相続に反対して、龍造寺鑑兼に属して龍造寺隆信と対立した。 1558年、龍造寺隆信は江上武種が少弐各尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻撃した際は、龍造寺隆信勢に属した。 1565年、「少弐政興討伐」に参陣した。 綾部茂幸【あやべしげゆき(15?? ~15?? )】 綾部鎮幸家臣。 鷹取山城主。 安住家能【あんじゅういえよし(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 安住秀能の兄。 官途は安芸守。 1570年、「今山の戦い」では、納富信安、成松信勝、秀島信純、諸岡信良、成富信種、西村家秀、倉町信吉、倉町信光、円城寺信胤らとともに参陣した。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。 安住秀能【あんじゅうひでよし(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 安住家能の弟。 官途は石見守。 室は鍋島清房の娘(次女)。 1569年、「多布施口の戦い」に参陣した。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。 出雲氏忠【いずもうじただ(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は民部大輔。 通称太郎次郎。 東肥前国十九城将のひとり。 1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。 東犬塚鎮直【いんつかしげなお(15?? ~1569)】 神埼郡崎村城主。 犬塚鑑直の男。 1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻撃した際、龍造寺隆信勢に属して、大友義鎮勢に属した犬塚尚重と戦ってともに討死した。 東犬塚家広【いんつかいえひろ(15?? ~15?? )】 犬塚鎮直の男。 通称三郎右衛門。 1572年、龍造寺隆信が東肥前国に侵攻すると、養父郡に転封した。 姉川信安、土肥家実らとともに養父郡、三根郡を守備した。 西犬塚家重【いんつかいえしげ(15?? ~15?? )】 神埼郡蒲田江城主。 犬塚家貞の次男。 官途は伯耆守。 東肥前国十九城将のひとり。 少弐冬尚と龍造寺隆信が対立すると龍造寺隆信勢の属した。 西犬塚尚重【いんつかなおしげ(15?? ~1569)】 犬塚家重の男。 官途は民部大輔。 室は龍造寺家和の娘。 1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻めた際、大友義鎮勢に属した。 龍造寺隆信勢に属した犬塚鎮直と戦ってともに討死した。 西犬塚茂続【いんつかしげつぐ(15?? ~15?? )】 犬塚尚重の男。 通称与右衛門。 別名龍造寺信尚。 1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻めた際、大友義鎮勢に属した犬塚尚重は、龍造寺隆信勢に属した犬塚鎮直と戦ってともに討死したため、龍造寺隆信に養育されて龍造寺信尚と称した。 のちに父の遺領を継いで犬塚茂続と改めた。 小松犬塚鎮家【いぬづかしげいえ(15?? ~15?? )】 犬塚家重家臣。 神埼郡小松城主。 犬塚家清の男。 官途は播磨守。 別名犬塚盛家。 龍造寺隆信の武勇優れた四人(大村弾正、犬塚弾正、百武志摩守、上瀧志摩守)を藤津両弾二島と称した。 1530年、「田手畷の戦い」では父犬塚家清とともに少弐資元に属して大内義隆勢と戦った。 1569年、東犬塚鎮直と西犬塚尚重の抗争では西犬塚尚重に属した。 1576年、「横澤城の戦い」では先鋒を務めた。 1581年、龍造寺政家の「肥後侵攻」に参陣した。 小松犬塚鎮盛【いぬづかしげもり(15?? ~15?? )】 犬塚鎮家の男。 通称掃部助。 石井忠義【いしいただよし(15?? ~15?? )】 佐嘉郡飯盛城主。 千葉胤連家臣。 嫡男石井忠清、次男石井忠繁らとともに、龍造寺家兼に仕えた。 石井忠清【いしいただきよ(15?? ~15?? )】 石井忠義の男。 官途は和泉守。 室は飯盛肥前守の娘。 継室は龍造寺家純の娘。 父石井忠義や盟友鍋島清久とともに龍造寺家兼に属した。 1530年、「田手畷の戦い」では鍋島清久、鍋島清房とともに、赤熊の面を被った奇襲部隊を指揮して、龍造寺家兼勢を支援し、その勝利に貢献した。 これを契機に、鍋島清房とともに龍造寺家兼に重く用いられるようになった。 龍造寺家兼および龍造寺隆信が、肥前国人衆や家臣の謀反により、佐賀城を追われ筑後国に落ち延びた際にも、鍋島清房とともに、龍造寺家兼の復権を目指し挙兵するなどした。 実弟石井忠繁、石井義昌、石井忠本、石井兼清とともに石井党を形成した。 石井忠繁【いしいただしげ(15?? ~15?? )】 石井忠義の次男。 官途は石見守。 室は大乗坊長勝の娘。 龍造寺家兼、龍造寺隆信二代に仕えた。 龍造寺家兼が佐賀城から筑後国に落延びた際、、再起のために奮闘した。 石井忠高、石井忠次、石井忠尊の龍造寺隆信勢の勇将だったが三人とも討死した。 石見守家の嫡家は後に断絶したが、曾孫石井茂里、石井茂賢兄弟はそれぞれ横岳鍋島家、深堀鍋島家を興し、家老職となった。 石井忠高【いしいただたか(15?? ~15?? )】 石井忠繁の男。 石井忠次【いしいただつぐ(15?? ~1565)】 石井忠繁の次男。 官途は石見守。 通称新右衛門。 室は牛島家泰の娘。 1565年、龍造寺隆信が、三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃した際、嫡男石井忠修、次男石井信忠とともに先鋒に任じられた。 石井忠修は一番槍の戦功を挙げたが討死にし、石井忠次もまた忠修に続いて敵陣に突入し討死した。 父子の奮闘が中野城攻略の突破口を開いた。 石井忠尊【いしいただのり(15?? ~15?? )】 石井忠繁の三男。 通称孫三郎。 1570年、肥前国に侵攻した大友義鎮勢への備えのため、龍造寺隆信の命を受けて高尾村に布陣した。 田尻鑑種の勢と交戦した。 劣勢の石井忠尊らは討死したが、田尻鑑種勢は攻略を諦め撤兵した。 石井正国【いしいまさくに(15?? ~15?? )】 石井忠尊の男。 石井義昌【いしいよしまさ(15?? ~15?? )】 石井忠義の三男。 石井忠本【いしいただもと(15?? ~15?? )】 石井忠義の四男。 石井兼清【いしいかねきよ(15?? ~1557)】 石井忠義の五男。 官途は尾張守。 通称藤兵衛尉。 別名石井忠房。 室は於保宗益の娘。 晴気城主千葉胤連に仕えていたが、父石井忠義や兄石井忠清らとともに龍造寺家兼に仕えた。 龍造寺家兼が病死すると、石井兼清は龍造寺隆信の擁立に主導的な役割を果した。 石井兼清は、龍造寺隆信が出家していた宝琳院に手勢を率いて出迎え、佐賀城内の自邸を御座所として迎え、還俗、元服の儀式の一切を取り仕切った。 龍造寺隆信が佐賀城を追われて筑後国に落延びた際も、旧領回復に貢献した。 龍造寺隆信が、村中龍造寺宗家を相続する際、水ヶ江龍造寺家の家督を弟龍造寺長信に譲ったが、石井兼清は龍造寺長信の執権を命じられた。 1557年、「鉄布峠の戦い」では、石井兼清も小河信安とともに参陣したが、神代勝利勢の山伏阿含坊に狙撃され討死した。 石井忠修【いしいただみち(15?? ~15?? )】 石井忠次の男。 通称源次郎。 武道に優れ、義兄石井常忠や馬渡刑部少輔、倉町太郎五郎とともに、龍造寺隆信の馬廻衆を務め、「無双の荒武者」と称された。 戦陣にあっては、龍造寺隆信の身辺を守護した。 1565年、龍造寺隆信は、三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃、石井忠修は先鋒を務め、敵陣に斬り込むが奮戦及ばず討死した。 石井信忠【いしいのぶただ(15?? ~1584)】 石井忠次の次男。 官途は安芸守。 室は石井忠俊の娘(大宝院)。 父石井忠次、兄石井忠修らとともに龍造寺隆信に仕えた。 嫡男鍋島茂里を鍋島直茂の養子に出すが、鍋島勝茂が生まれたため養子縁組を解消しようとしたが、鍋島直茂が応じず、鍋島茂里の家系は横岳鍋島家、深堀鍋島家として栄えた。 1584年、龍造寺隆信の馬廻衆として「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。 石井常忠【いしいつねただ(15?? ~1583)】 石井常延の男。 官途は和泉守。 室は石井忠次の娘。 武道に優れていたため、龍造寺隆信の馬廻衆として戦功を挙げた。 馬渡刑部少輔、倉町太郎五郎、石井源次郎とともに「無双の荒武者」と称された。 戦いの際は、龍造寺隆信の身辺を警護した。 石井信易【いしいのぶやす(15?? ~15?? )】 石井常忠の男。 官途は大膳亮。 室は川副宮内の娘。 1583年、父石井常忠の病没により石井家の家督を相続した。 1584年、「沖田畷の戦い」では、馬廻衆として出陣し、龍造寺隆信を守ったが、本陣壊滅により龍造寺隆信とともに討死した。 嫡男がなかったため、石井忠易の次男石井信易の娘を娶り、家督を相続した。 石井忠易【いしいただやす(15?? ~15?? )】 石井忠時の次男(石井信易の養子)。 通称三右衛門。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣し、敵将を討取る戦功を挙げた。 その後、「沖田畷の戦い」で討死した宗家の石井信易の娘を室に迎え、その跡を継いだ。 鍋島直茂が羽柴秀吉に降ると、鍋島茂里や鍋島茂賢とともに人質として、小早川隆景のもとに差し遣わされた。 石井重次【いしいしげつぐ(15?? ~15?? )】 石井忠時の男。 通称孫左衛門。 室は石井忠清の娘。 1584年、「沖田畷の戦い」では、宗家の石井信易とその弟石井信忠が討死したため、和泉守家の家勢が衰える一方、庶家の石井忠時、石井重次父子が重用された。 後に鍋島直茂より蓮池城を与えられ、本丸城代となった。 石井義元【いしいよしもと(15?? ~1602)】 龍造寺隆信家臣。 石井彦十郎の次男。 別名石井生札。 1590年、蓮池城の天守を名護屋城大手櫓に移築した際、鍋島直茂のもとで石井茂里、久納茂俊とともに奉行を務めた。 1584年、「島原の役」に参陣した。 鍋島生三、下村生運とともに「三生」と称された。 1592年、「文禄の役」では石井忠種とともに後方支援部隊を指揮して、物資運送の奉行を務めた。 1600年、「柳川城の戦い」では、石井茂利とともに船大将をつとめ、鍋島家海賊衆を率いた。 一部大和守【いちぶやまとのかみ(15?? ~1564)】 松浦弘定家臣。 生月島城主。 籠手田安昌とともに松浦弘定の勢力下に入った。 松浦親との戦いで討死した。 娘婿の松浦信賢が一時家督を相続するが、まもなく病没した。 一部勘解由【いちぶかげゆ(15?? ~15?? )】 籠手田安昌の次男。 一部大和守の娘が松浦信賢に嫁いでいたが、一部大和守が松浦親との戦いで討死にすると、松浦信賢に一部家の家督を相続させようとしたが、松浦信賢が病没したため、その未亡人を室とし、一部家の家督を相続した。 兄籠手田安経とともに基督教を信仰した。 籠手田安経の病没後も信仰を続けた。 1599年、松浦家から他の基督教信者とともに追放された。 伊東祐俊【いとうすけとし(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は兵部少輔。 別名伊東家秀。 1570年、「今山の戦い」では佐嘉郡新荘から兵を率いて龍造寺隆信勢を支援した。 伊万里純【いまりすみ(15?? ~15?? )】 松浦郡伊万里城主。 伊万里治【いまりおさむ(15?? ~1623)】 伊万里純の男。 官途は兵部大輔。 室は後藤貴明の娘。 1560年、少弐冬尚を滅ぼした龍造寺隆信が肥前国の諸勢力を征圧して勢力を拡大し、高来郡の有馬義貞を攻撃した。 1572年、松浦地方に侵攻して松浦党の諸家を降した。 1573年、武雄城主後藤貴明、須古城主平井経治を攻撃した際、伊万里治は将兵を引き連れて後藤貴明勢に参陣した。 1581年、龍造寺隆信は伊万里城主伊万里治を攻撃した。 伊万里治は要害を頼みに応戦したが及ばず、家臣の前田、立川、大河内と兵200余人の将兵とともに後藤貴明のもとに落延びた。 伊万里治は後藤貴明に300石で仕えた。 伊万里治には男子が無かったため、甥にあたる伊万里静を養嗣子として伊万里家を相続させた。 宇久盛定【うくもりさだ(15?? ~1549)】 松浦郡江川城主。 宇久囲の男。 通称次郎三郎。 宇久家は宇久島から五島列島全域に支配権を持つ国人衆。 1507年、「玉之浦納の反乱」により、宇久盛定は乳母に抱かれて平戸に逃れ、平戸松浦弘定を頼った。 1524年、松浦弘定のあとを継いだ松浦興信の援助を受け、宇久盛定は兵235余りを率いて久島を出発した。 久賀島の田之浦瀬戸で隊を二分し、岐宿の西津上陸後陸路で大宝を目指す部隊と宇久盛定自身が率いる直接海路で大宝をつく部隊にわけた。 両隊とも夜陰に紛れ大宝に接近し同時に討ち入った。 玉之浦大宝勢は地の利をもって頑強に抵抗したがやがて敗走した。 玉之浦納は側近と三井楽へと落ち自刃した。 1526年、宇久盛定は平戸松浦興信の援助により江川城を築し、福江島の奈留盛信、大浜、貞方、玉之浦家を麾下におき、福江島の田尾、中通島の青方、奈摩らの諸領主層を従属させ、職制に整備して、浦中五人衆、六名字、その他福江四人衆、上三頭、下三頭といった家臣団を編成した。 所領支配では、平戸松浦興信の干渉を受けたが、宇久盛定は五島の頭領として地位を強固なものにした。 宇久純定【うくすみさだ(15?? ~1586)】 宇久盛定の男。 官途は淡路守。 通称左衛門尉。 洗礼名は「ドン・ルイス」。 室は宇久盛重の娘(マリー)。 1549年、父宇久盛定死後に家督を継いだ。 1550年、奈留盛信が松浦家に降ったため討伐した。 宇久純定はポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダに熱病を治療してもらった縁で、アルメイダ、ロレンソ了斎を招いて島民にキリスト教を布教させたり、教会に寄付するなど布教活動を援助し、1568年、夫婦で入信した。 宇久盛重【うくすもりしげ(15?? ~15?? )】 宇久盛定の次男。 宇久盛長【うくもりなが(15?? ~15?? )】 宇久盛重の男。 通称八郎兵衛。 室は宇久純堯の娘(細御寮)。 父宇久盛重は五島を平定した宇久盛定の次男で、父の代より幾久山を治める。 朝鮮の役のときは、城代留守役となる。 室の細子姫は美貌の持ち主で、五島を訪れた羽柴秀吉の家臣の目に留まり、このことを聞き及んだ羽柴秀吉は名護屋城の陣中への出仕を命じた。 しかし、細子姫は、出仕の道中に貞節を守り自刃した。 宇久細子姫【うくさいししめ 15?? ~15?? 】 宇久盛長の室。 宇久純尭の娘。 別名細御寮。 絶世の美女。 1592年、「文禄の役」で、肥前名護屋に参陣した羽柴秀吉はこの評判を聞いて、使者を送って名護屋城に呼び寄せようとしました。 細御寮は宇久盛長へ貞節の心を示すために自ら小指と髪を切って自刃した。 内田兼智【うちだかねとも(15?? ~15?? )】 龍造寺家兼家臣。 佐嘉郡道免城主。 官途は美作守。 室は龍造寺康家の娘。 佐嘉郡道免館に転封した。 1553年、龍造寺隆信の佐嘉奪還戦に参陣した。 諫早攻めでは第四陣を務めた。 内田兼能【うちだかねよし(15?? ~15?? )】 内田兼智の男。 官途は肥後守。 1583年、肥後国玉名郡大野別府に転封して肥後方面の警備に当たった。 江上興種【えがみおきたね(15?? ~15?? )】 神崎郡勢福寺城主。 少弐資元家臣。 大内義興に内応したため、勢福寺城を追われた。 江上武種【えがみたけたね(1526~1575)】 江上興種の男。 官途は伊豆守。 通称太郎。 室は龍造寺胤久の娘。 東肥前国十九城将のひとり。 少弐冬尚を馬場頼周とともに支えた。 馬場頼周が龍造寺家兼に謀殺されると、少弐冬尚は劣勢に陥った。 1558年、龍造寺隆信勢の小田政光から攻撃を受けるが、少弐冬尚と神代勝利とともに迎撃して小田政光を討取る戦功を挙げた。 1559年、神代勝利と和議を結んだ龍造寺隆信の攻撃を受けると支え切れず江上武種は降伏、少弐冬尚は自刃した。 1570年、「今山の戦い」では、大友義鎮勢に属したが大敗、江上武種は窮地に立たされた。 鍋島信昌勢の攻撃を受け、これを撃退するも、家臣の執行種兼の進言を受け、龍造寺隆信の次男江上家種を養子に迎え和議を結んだ。 江上家種【えがみいえたね(15?? ~1593)】 龍造寺隆信の次男(江上武種の養子)。 官途は武蔵守。 通称又四郎。 別名龍造寺家胤。 室は大村純忠の室。 江上家を相続して伝家の銘刀「小胸切」を継いだ。 武勇を以って鳴り、沖田畷では弟の後藤家信とともに左翼を形成して有馬晴信と戦った。 父龍造寺隆信の討死を聞くと有馬晴信勢に突攻したが必死の反撃を受けて撤兵した。 1589年、鍋島直茂が佐嘉城に移ると江上家種は蒲池城に入り、鍋島直茂の嫡男鍋島勝茂を養子に迎えた。 1592年、「文禄の役」に参陣したが釜山で病没した。 江上勝種【えがみかつたね(1590~1676? )】 江上家種の次男。 別名勝山大蔵。 龍造寺伯庵を推して松平秀忠に龍造寺家復興を訴えるも敗訴し保科家預かりとなりった。 後に江上家に復姓して名跡を復活させ、保科正之に仕えた。 江副家久【えぞえいえひさ(15?? ~1545)】 佐嘉郡蠣久館主。 通称又八郎。 1545年、龍造寺周家に属して参陣したが、江上武種、神代勝利勢の攻撃を受けて討死した。 江副信英【えぞえのぶひで(15?? ~1556)】 江副家久の男。 通称新八郎。 1556年、「鉄布峠の戦い」に参陣して討死した。 江副信俊【えぞえのぶとし(15?? ~1584)】 江副信英の男。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して、討死した。 枝吉種浄【えだよしたねきよ(15?? ~15?? )】 江上武種家臣。 神埼郡日吉城主。 1571年、江上武種と龍造寺隆信が和議を結ぶと、以後は龍造寺隆信に属した。 枝吉種次【えだよしたねつぐ(15?? ~1584)】 枝吉種浄の男。 1571年、父枝吉種浄が龍造寺隆信に属すると、枝吉種浄とともに北九州各地を転戦して戦功を挙げた。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。 江里口信常【えりぐちのぶつね(1548~1584)】 千葉胤連家臣。 小城郡江里口館主。 通称藤兵衛。 龍造寺家四天王のひとり。 はじめ鍋島信房に仕え、その弟鍋島直茂が養子入り先の千葉家から実家に戻る際、鍋島直茂に付けられた十二名の家臣のうちのひとり。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣した。 龍造寺隆信の討死の報を受けると、味方の頸を掻き落として島津義久勢と偽り、島津家久に近づいて左腿を切りつけたが討取られた。 円城寺信胤【えんじょうじのぶたね(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 嘉瀬連乗院住持増誾の男。 官途は美濃守。 室は鹿江兼明の娘。 成松信勝、江里口信常、百武賢兼、木下昌直とともに龍造寺家四天王と称された。 龍造寺隆信に属して北九州各地を転戦した。 1570年、「今山の戦い」で戦功を挙げた。 1584年、「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信と同じ熊毛の鎧を着して自ら龍造寺隆信を名乗って敵勢を引きつけ有馬晴信、島津義久勢と戦ったが討死した。 大島輝家【おおしまてるいえ(15?? ~1566)】 松浦隆信家臣。 官途は筑前守。 別名大島照屋。 1550年、大島輝家は「飯盛山城の戦い」で、兵500余りの部隊の内鉄砲隊100余りを率い参陣した。 弟加藤澄月とともに松浦親攻めで活躍した。 大村純忠、西郷純隆らが龍造寺家に属して、潮見城に侵攻した。 後藤貴明も離反し、潮見城を攻撃、後藤純隆は松浦隆信を頼り落延びた。 その際大島輝家が指揮を取り城兵約1,500余りを退去させた。 1566年、「半坂、中里の戦い」で討死した。 辞世の句は「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」。 大島澄月【おおしますみついき(15?? ~1566)】 松浦隆信家臣。 官途は民部。 兄大島輝家とともに対相神浦松浦家との戦いでは中心になって戦った。 松浦隆信は交易によって葡萄牙人から入手した鉄砲100挺余りを大島輝家に与え、鉄砲隊を組織させた。 鉄砲隊は「相神浦松浦家との戦い」では、北野源蔵らを討取る働きを示した。 1566年「半坂、中里の戦い」では、松浦親の伏兵により松浦隆盛勢は壊滅、奈留三郎左衛門、宮崎蔵人、中山治部兄弟、山田忠左衛門兄弟、柴加田市之丞、南蔵人、佐々刑部、太田弾正忠らが討死した。 大島輝家、大島澄月も殿で、松浦親勢の追撃を受け討死した。 辞世の句は「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」。 太田資元【おおたすけもと(15?? ~15?? )】 佐嘉郡田中城主。 官途は美濃守。 龍造寺家兼に仕えて戦功を挙げた。 太田源舜【おおたげんしゅん(15?? ~15?? )】 太田資元の男。 1570年、大友義鎮勢の攻撃を受けたが撃退した。 太田家豊【おおたいえとよ(15?? ~15?? )】 太田源舜の男。 官途は右衛門大夫。 1583年、龍造寺隆信が肥後国に侵攻すると内田兼能らと肥後玉名郡大野別府に転封して、肥後国方面の警備に当たった。 小河為純【おがわためずみ(15?? ~15?? )】 春日山城主。 菊池為安の男。 父菊池為安は肥後国の豪族衆であったが、小河為純のとき東肥前国に移封して小河家と称して龍造寺家兼に仕えた。 龍造寺隆信の村中龍造寺本家相続に尽力した。 小河信安【おがわのぶやす(15?? ~1557)】 小河為純の男。 官途は筑後守。 別名小河武純。 龍造寺隆信が村中龍造寺宗家を相続すると納富信景、福地信重とともに家老職を務めた。 龍造寺隆信は、龍造寺胤栄の室を迎えて村中龍造寺宗家を相続したが、夫婦仲がよくなかったため、小河信安は龍造寺胤栄との間に生まれた姫(秀の前)に刃を当てて夫人に対し龍造寺隆信との夫婦仲を改めるよう諫言した。 神代勝利との戦いで居城の春日山城を攻落され枝連衆の多くが討死した。 1558年、「鉄布峠の戦い」に参陣して神代勝利勢と戦うが討死した。 小河信俊【おがわのぶとし(15?? ~1584)】 小河為純の次男。 官途は武蔵守。 別名小河信友。 1557年、兄小河信安が神代勝利と戦い討死すると、小河家の家督を相続した。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣したが討死した。 小田資光【おだすけみつ(15?? ~15?? )】 神埼郡蓮池城主。 少弐資元家臣。 少弐資元が自刃すると、その嫡男少弐尚は小田資光を頼って落延びた。 小田政光【おだまさみつ(1509~1558)】 小田資光の男。 官途は駿河守。 通称新九郎。 東肥前国十九城将のひとり。 少弐冬尚が少弐家を再興すると小田政光もこれに仕えた。 龍造寺隆信の佐嘉城を攻撃したが、龍造寺隆信勢に敗退した。 1553年、龍造寺隆信勢に降伏した。 1558年、龍造寺隆信の「江上武種討伐」に参陣したが、「長者林の戦い」で討死した。 龍造寺隆信は小田政光からの援軍要請を黙殺し小田政光が討死すると、居城蓮池城を攻落した。 小田政光のこどもらは老臣深町理忠の働きにより無事に落延びた。 小田家は大友義鎮の支援により再興したが、小田鎮光、小田賢光はり龍造寺隆信によって非業の死をとげた。 小田鎮光【おだしげみつ(15?? ~1571)】 小田政光の男。 官途は弾正少弼。 通称新九郎。 龍造寺隆信の攻撃を受け筑後国に落延びた。 大友義鎮勢の支援を受けて旧領に復帰した。 のち龍造寺隆信に属して多久城を領した。 1571年、弟小田賢光とともに佐嘉城で龍造寺隆信に謀殺された。 小田賢光【おだもとみつ(15?? ~1558)】 小田政光の次男。 1558年、龍造寺隆信勢の攻撃を受け討死した。 小田増光【おだますみつ(15?? ~1585)】 小田政光の三男。 父小田政光が龍造寺隆信と和議を結んだ後も龍造寺隆信に対抗した。 1558年、龍造寺隆信が江上武種を攻撃した際、蓮池城も奇襲され、筑後国に落延びた。 その後、龍造寺隆信と和議を結んで服属した。 於保胤宗【おほたねむね(15?? ~1545)】 龍造寺家臣。 於保宗繁の男。 官途は備前守。 1545年、馬場頼周の謀略により、肥前杵島郡志久峠で討死した。 ------------------------------------------------------ 【か】 金子九右衛門【かねこきゅうざえもん(15?? ~15?? )】 松浦鎮信家臣。 松浦鎮信が戦機と見て、進撃をしようとしても金子九右衛門は轡を離さず、松浦鎮信がいくら命じても「まだ、潮時ではありません」 と離さない。 金子九右衛門が頃合を計り轡を離すと松浦鎮信勢の勝利となった。 鹿江兼明【かのえかねあき(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は遠江守。 1553年、龍造寺隆信の「肥前復帰戦」で戦功を挙げた。 娘は神代長良に嫁いだ。 鴨打胤宗【かもうちたねむね(15?? ~15?? )】 千葉胤繁家臣。 室は千葉胤繁の娘。 松浦党あったが、千葉胤繁に招かれて仕えたが後に龍造寺家兼に属した。 1545年、「佐賀城の戦い」に参陣した。 馬場頼周、馬場政員親子の征伐戦に参陣した。 鴨打胤忠【かもうちたねただ(15?? ~15?? )】 鴨打胤宗の男。 官途は陸奥守。 1545年、龍造寺家兼による馬場頼周攻めに参陣して、以後龍造寺家兼に仕えた。 1558年、「江上武種討伐」に参陣した。 1562年、有馬義貞の小城郡侵攻を迎撃した。 1570年、「今山の戦い」では鍋島直茂とともに夜襲を敢行して大友義鎮勢を撃破した。 蒲原信俊【かんばらのぶとし(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 通称源左衛門。 龍造寺隆信に仕えて北九州各地を転戦した。 1584年、「沖田畷の戦い」で討死した。 北野直勝【きたのなおかつ(15?? ~1567)】 相神浦松浦親家臣。 通称源蔵。 松尾与三郎、丸田源蔵と並んで強弓の名手。 1563年、松浦隆信との「飯盛山城の戦い」では、山の中腹から松浦家の軍船めがけ矢を放ち、二町を越え船の目印に命中させた。 さらに続け、武者二人を串刺しにし、船の船神様も射抜いた。 その後も「半坂の戦い」でも弓を使って戦功を挙げた。 松浦隆信の家臣奈留三郎左衛門を弓で討取った。 1567年、松浦隆信との「飯盛山城の戦い」で松浦家鉄砲隊の攻撃により討死した。 木塚直喜【きつかなおよし(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は尾張守。 佐嘉郡大宝村を領した。 1581年、龍造寺政家の「肥後侵攻」の際、高木胤秀らとともに佐嘉城に留守居した。 木下覚順【きのしたえいじゅん(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は伊予守。 木下昌直【きのしたまさなお(1534~1584)】 木下覚順の男。 通称四郎兵衛。 1584年、「沖田畷の戦い」では鍋島直茂勢に属して戦った。 鍋島直茂を落とした後、殿を務めて討死した。 倉町信俊【くらまちのぶとし(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 官途は左衛門大夫。 通称新太郎。 室は龍造寺隆信の娘。 1570年、「今山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。 1582年、「肥後国侵攻」でも戦功を挙げ、筑前国侵攻後は筑前の守備に就いた。 1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信を守って討死した。 籠手田安昌【こてだやすまさ(1508~1557)】 松浦興信家臣。 北松浦郡籠手田城主。 受洗名「ドン・ジェロニモ」。 松浦興信の死後、松浦家で家督争いが起きると松浦隆信を支持し、松浦隆信を擁立反対派を抑え、擁立に尽力した。 松浦隆信を助け、相神浦松浦家攻めなどを立案指揮し松浦隆信の勢力拡大に尽力した。 1557年、嫡男の籠手田安経とともにキリシタンとなった。 籠手田安経【こてだやすつね(1532~1581)】 籠手田安昌の男。 通称左衛門尉。 洗礼名「ドン・アントニオ」。 葡萄牙との貿易の条件に父籠手田安昌とともに基督教に入信した。 領主として多くの領民に慕われていたため、自身の領地である生月島を中心に多くの領民も入信した。 1566年、松浦家の本家との争い、波多興との戦いや宇久純定との戦いでは、松浦隆信の代わりに総大将となり松浦隆信勢の指揮をした。 父籠手田安昌からの筆頭家老としての地位ではあったが、後年キリスト教に問題により松浦隆信や他の家臣との対立が深くなり孤立した。 籠手田栄【こてだえい(15?? ~15?? )】 籠手田安経の男。 受洗名「ドン・ジェロニモ」。 1582年、父籠手田安経の跡を引き継いだが、籠手田栄には籠手田安経程の権力基盤はなく、松浦隆信のキリスト教嫌いも相まって生月島における基督教保護の力も衰えた。 1587年、羽柴秀吉の「伴天連追放令」に際して、松浦鎮信の教会破壊と十字架撤去の命令に対し、殉教するか澳門へ出国する決意を宣教師に述べ、賞賛された。 1599年。 松浦信実の諌言にあって、家臣を引き連れて長崎に退去した。 1614年、籠手田栄は黒田長政に仕え長崎で殉教した。 五島純玄【ごとうすみはる(1562~1594)】 の男。 室は西郷純尚の娘(松浦鎮信の養女)。 福江城10,530石を領した。 1587年、家督を継ぐと羽柴秀吉に属して「九州討伐」に協力したため、所領を安堵された。 1592年、「文禄の役」に参陣した。 この前後に名字を宇久から五島に改めた。 1594年、天然痘により病没した。 家督は叔父大浜玄雅が相続した。 五島玄雅【ごとうはるまさ(1548~1612)】 宇久純定の三男。 官途は淡路守。 通称孫右衛門。 室は大久保家次の娘。 別名大浜玄雅。 五島純玄の叔父。 1594年、甥五島純玄が「文禄の役」に参陣中、天然痘にかかって病没したため、五島家の家督を相続した。 1600年、「関ヶ原の役」では中立を保ち、松平元康から所領を安堵された。 1612年、養子五島盛利に家督を譲った。 五島盛利【ごとうもりとし(1591~1642)】 宇久盛長の男(五島玄雅の養子)。 1603年、松平元康に拝謁した。 1612年、養父五島玄雅が病没したため、五島家の家督を相続した。 1613年、権力強化のため、在郷の家臣団を城下に移住させて兵農分離を進めた。 1614年、江川城が焼失、「大坂冬の陣」の参陣したため、失敗に終わった。 1619年、五島玄雅の実子角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と五島盛利の失政を松平秀忠に対して直訴した。 松平秀忠は五島盛利の正統性を認め、五島盛利は大浜主水らを処刑した。 1634年、農兵分離を完成させて権力を確立し、長子相続制の確立や検地の実施なども行なって基礎固めた。 ------------------------------------------------------ 【さ】 執行兼貞【しぎょうかねさだ(15?? ~15?? )】 執行頼久の男。 官途は治部大輔。 櫛田宮の執行別当職。 1523年、本告頼景とともに櫛田宮の修復に務めた。 1530年、大内義隆の侵攻に際、少弐資元を支援して「田手畷の戦い」の勝利に貢献した。 執行直明【しぎょうなおあき(15?? ~15?? )】 執行兼貞の男。 官途は摂津守。 執行頼兼【しぎょうよりかね(15?? ~15?? )】 執行直明の男。 官途は内蔵介。 執行種兼【しぎょうたねかね(1530~1584)】 執行直明の次男。 官途は越前守。 勢福寺城主江上武種に属した。 1570年、「今山の戦い」では、江上武種に属して龍造寺隆信勢と戦った。 鍋島直茂を総大将とした龍造寺隆信勢が勢福寺城に攻め寄せると、執行種兼は城原衆を率いて鍋島直茂を撃退した。 江上武種が龍造寺隆信に屈し、龍造寺隆信の次男江上家種を養子に迎えると江上家種に仕え、龍造寺隆信の勢力拡大に尽力した。 1572年、「朝日山城の戦い」では、江上家種勢のみで朝日山城を攻落した。 1584年、「沖田畷の戦い」では江上家種に属して戦い、嫡男執行種直、次男執行種国、三男執行信直、城原衆らとともに討死した。 執行種直【しぎょうたねなお(15?? ~1584)】 執行種兼の男。 通称新介。 1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、次弟執行種国、三弟執行信直、城原衆らとともに討死した。 執行種国【しぎょうたねくに(15?? ~1584)】 執行種兼の次男。 通称新九郎。 1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、兄執行種直、三弟執行信直、城原衆らとともに討死した。 執行種貞【しぎょうたねさだ(15?? ~1584)】 執行種兼の三男。 1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、兄執行種直、次兄執行種国、城原衆らとともに討死した。 執行種俊【しぎょうたねとし(15?? ~15?? )】 執行直明の三男。 通称四郎兵衛尉。 執行種忠【しぎょうたねただ(15?? ~15?? )】 執行種俊の次男。 通称五郎左衛門。 1588年、「九州征伐」後に、肥前国主に任じられた佐々成政の検地に反発した肥後国衆が一揆を起した。 この討伐に龍造寺政家勢して執行種忠も城原衆とともに参陣したが「大田黒城の戦い」で、執行種忠は枝連衆、被官とともに討死した。 渋川義長【しぶかわよしなが(15?? ~1534)】 養父郡朝日山城主。 渋川尹繁の男。 室町幕府の九州探題職。 1504年、父渋川尹繁より九州探題職を譲り受けた。 1533年、長年の庇護者であった大内義隆から離反し、逆に長年の宿敵であった少弐資元に通じたため、大内義隆勢の攻撃を受けた。 1534年、大内義隆勢によって肥前朝日山城を攻落とされ自刃した。 渋川義長の討死によって、渋川家嫡流は滅亡した。 渋川堯顕【しぶかわたかあき(15?? ~1534)】 渋川尹繁の次男。 1534年、九州探題を称して挙兵したが筑前国姪浜の興雲山で大内義隆勢に敗れ討死した。 下村長光【しもむらながみつ(15?? ~15?? )】 小弐政資の次男。 別名少弐長光。 佐嘉郡巨勢郷に移住し、龍造寺周家に仕えた。 下村信光【しもむらのぶみつ(15?? ~1545)】 龍造寺周家家臣。 下村長光の男。 父長光は少弐政資の次男。 神埼郡祗園原で馬場頼周により龍造寺周家、龍造寺家泰、龍造寺頼純らが討たれたとき、龍造寺周家とともに討死した。 少弐資元【しょうにすけもと(1491~1536)】 神崎郡勢福寺城主。 少弐政資の次男。 官途は大宰少弐。 室は大友親治の娘。 1497年、父少弐政資、兄少弐高経の大内義興勢の陶興房と戦い討死した後は、枝連衆の三根郡西島城横岳資貞に養育された。 その後、神崎郡勢福寺城を拠点に勢力を広げた。 1524年、筑紫満門と馬場頼周との対立すると、筑紫満門を綾部城に誘い出し謀殺した。 1530年、大内義隆は杉興運らを派遣して、少弐資元勢の筑紫尚門、朝日頼貫らを攻撃するが、少弐資元は龍造寺家兼、龍造寺家重、龍造寺家門、小田政光、犬塚家清、犬塚尚家、馬場頼周、江上元種らを結集させて、大内義隆勢と戦った。 鍋島清久の奇襲により大内義隆勢は大敗した。 1532年、杉興運は陶興房らの援兵を得て再び勢福寺に迫ったがこれを撃退した。 1533年、大内義隆と和議を結んだ。 そのとき大内義隆は少弐資元の東肥前領有を許さずにこれを奪い、多久城に減封した。 1536年、大宰大弐の官途を得た大内義隆の家臣陶興房の攻撃を受け少弐資元は自刃した。 少弐冬尚【しょうにふゆひさ(1529~1559)】 少弐資元の男。 1535年、父少弐資元が自刃すると、少弐冬尚は小田資光もとに落延びた。 1540年、少弐冬尚は龍造寺家兼ら家臣団や大友義鑑の助けを受けて勢福寺城に復帰した。 龍造寺家兼は嫡男龍造寺家門を少弐冬尚の後見にするなど勢力の拡大をはかったため、外様衆である龍造寺家兼の勃興をよしとしない譜代衆はこれに危惧を抱き、その筆頭馬場頼周は龍造寺家兼を少弐冬尚に諫言した。 1545年、家臣の馬場頼周が龍造寺家兼を妬んでその枝連衆を謀殺するという事件を起こした。 1546年、馬場頼周は龍造寺家兼の反攻にあって討死した。 少弐冬尚も龍造寺家兼と対立した。 1547年、少弐冬尚も村中龍造寺胤栄、水ヶ江龍造寺隆信らに追放されたが、弟少弐政興、千葉胤頼、大友義鎮の援助を得て、養父郡軍綾部城に籠城して龍造寺隆信、大内義隆に抵抗した。 1557年、江上武種、神代勝利らも龍造寺隆信の攻撃を受け降伏した。 1559年、少弐冬尚は龍造寺隆信と戦い勢福寺城で自刃した。 少弐政興【しょうにまさおき(1534~15?? )】 少弐資元の三男。 1559年、兄少弐冬尚が龍造寺隆信と戦って討死すると、馬場鑑周に匿われ、大友義鎮と結んで少弐家の再興を図った。 1563年、馬場鑑周、有馬晴純、波多鎮、大村純忠、多久宗利、西郷純尚らとともに、龍造寺隆信勢と戦った。 1564年、龍造寺隆信勢の猛攻を受け肥前中野城に籠城するも、馬場鑑周とともに降伏した。 少弐元盛【しょうにもともり(1535~15?? )】 少弐資元の四男。 横岳資誠に養育された。 少弐資宗【しょうにすけむね(15?? ~1584)】 少弐元盛の男。 1584年、「沖田畷の戦い」では、龍造寺隆信勢に属して、兄弟全員討死した。 宗本盛【(15?? ~1547)】 少弐資元の男。 官途は筑後守。 1547年、「米田原の戦い」に龍造寺胤栄、龍造寺隆信の連合軍に敗北した。 宗尚夏【そうなおなつ(15?? ~15?? )】 少弐政興家臣。 三根郡。 1563年、龍造寺隆信は少弐政興と戦うたため、弟龍造寺信周、納富但馬守、福地長門守らを率いて東肥前国に参陣した。 三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃した。 馬場頼周家臣の手田、川波、薬王寺らが奮戦したが力及ばず、馬場鑑周は弟馬場周鎮を人質に出して降伏した。 三根郡内の少弐政興勢の宗尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造隆信に降った。 重松頼幸【しげまつよりゆき(15?? ~15?? )】 三根郡続命院城主。 官途は中務大輔。 1533年、復帰をはかる龍造寺隆信は重松頼幸と結び、以後龍造寺信ぬ仕えた。 1582年、「有馬晴信討伐」で戦功を挙げた。 勝屋勝一軒【しょうやしょういっけん(15?? ~1584)】 龍造寺隆信家臣。 1584年、「沖田畷の戦い」では、軍監として参陣したが、龍造寺隆信とともに討死した。 副島左近允【そえじまさこんのじょう(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 1562年、「有馬討伐」では先陣を務めた。 杵島郡須古高城攻めに参陣した。 また杵島郡福母南大橋で苦境にあった鍋島信昌を救出した。 副島光家【そえじまみついえ(15?? ~15?? )】 龍造寺隆信家臣。 官途は長門守。 龍造寺隆信の「筑前侵攻」後は、筑前国の守備に就いた。 ------------------------------------------------------ 【た】 高木胤秀【たかぎたねひで(15?? ~1572)】 高木胤家の男。 官途は肥前守。 東肥前国十九城将のひとり。 枝連衆の高木鑑房とともに、龍造寺胤信の龍造寺宗家の家督相続に反対した。 1570年、鍋島信昌と争った。 1572年、島津義久勢の攻撃を受け討死した。 東高木鑑房【たかぎあきふさ(15?? ~15?? )】 高木満兼の孫。 官途は能登守。 東肥前国十九城将のひとり。 枝連衆の高木胤秀とともに、龍造寺胤信の龍造寺宗家の家督相続に反対した。 龍造寺胤信の筑前国追放に協力した。 1553年、東肥前国復帰を図る龍造寺胤信と本庄岩村において戦って敗れ、肥前杵島郡佐留志にに落延びたが、龍造寺胤信の家臣前田家定に討たれた。 多久安順【たくやすとし(1563~1641)】 龍造寺長信の男。 官途は長門守。 室は鍋島直茂の娘(千鶴姫)。 1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討死すると、鍋島直茂が龍造寺家の家政を担った。 鍋島直茂が東肥前国を治めると、鍋島直茂勢に属した。 1592年、「文禄の役」に参陣し、帰国の際に連れ帰った陶工の李参平らを起用して、磁器(伊万里焼)を製作した。 1600年、「関ヶ原の役」では、鍋島直茂に属した。 1607年、龍造寺高房が病没し、龍造寺宗家が断絶すると、鍋島直茂に重く用られた。 1634年、龍造寺高房の男龍造寺季明(伯庵)が、松平家光に龍造寺宗家の相続権を訴えでたが、多久安順の主張により松平家光は鍋島勝茂の正当制を認めた。 多久茂辰【たく しげとき(15?? ~15?? )】 後藤茂富の男(多久安順の養子)。 官途は美作守。 室は鍋島勝茂の娘(鶴姫)。 1635年、鍋島勝茂の嫡男鍋島忠直が早世し、遺児鍋島光茂が幼かったため、鍋島勝茂は次男鍋島直澄を後継にしようとした。 多久茂辰はこれに反対し、鍋島光茂に継がせるよう主張し、鍋島光茂が鍋島家の家督を相続した。 1637年、「島原の乱」が起こると、鍋島茂辰は諫早茂敬、鍋島茂綱と協議し松平家光の指示を待った。 1646年、返済不能な私借銀を作ったとして罷免されたが、家老職に留め置かれた。 西千葉胤勝【ちばたねかつ(15?? ~1535)】 横岳資貞の男。 1506年、高田城主千葉胤繁が筑紫満門らの攻撃を受け城から落延びると、西千葉家の家督を相続した。 1513年、龍造寺胤家、龍造寺盛家らとともに東尚盛を上松浦郡に追落した。 1530年、大内義隆勢の侵攻では、朝日頼貫や父横岳資貞らが大内義隆勢に内通したため千葉胤勝もこれに属した。 「田手畷の戦い」で大内義隆勢が敗退すると、少弐資元に降伏した。 1533年、少弐資元と大内義隆が和議を結ぶと、千葉胤勝と千葉興常も和議を結んだ。 1535年、大内義隆勢が筑前国に侵攻すると、少弐資元とともには敗れて自刃した。 西千葉胤連【ちばたねつら(15?? ~1593)】 千葉胤勝の男。 小城郡晴気城主。 龍造寺隆信に属した。 1559年、千葉胤頼、少弐冬尚兄弟の撃滅に協力した。 その後所領を鍋島直茂に譲った。 祇園千葉興常【ちばおきつね(15?? ~1540)】 千葉胤盛の男(千葉胤朝の養子)。 別名千葉胤棟。 千葉胤朝の病没後、千葉宗家に少弐教頼から千葉胤資が入ると、反発して大内義興と結んだ。 父千葉胤盛が亡くなったことから大内義興のもとで養育された。 1486年、千葉胤資と少弐政資との対立により千葉家は分裂し、千葉興常は千葉城を本拠とした祇園千葉家を興した。 1497年、大内義興が少弐政資を攻め滅ぼした後、肥前守護代に任じれ威勢を振るった。 祇園千葉喜胤【ちばよしたね(1507~1542)】 千葉興常の次男。 官途は丹波守。 1540年、父千葉興常の病没により東千葉家の家督を相続した。 1541年、高来郡の有馬賢純が武威を張り、彼杵郡から小城郡、佐賀郡に侵攻を企てた。 大内義隆勢に属する晴気城主千葉介胤勝と少弐冬尚勢に属する千葉胤連は対立しており、有馬賢純はこれに乗じたものであった。 有馬賢純の侵攻に危機感を強めた少弐冬尚勢の龍造寺家門は、祇園山城主千葉喜胤、晴気城主千葉胤勝、千葉城主千葉胤連を説得し、少弐冬尚との同盟を結ばせることに成功した。 少弐冬尚は弟千葉喜胤の娘を娶らせて千葉喜胤の婿養子(千葉胤頼)とし、祇園山城に入れた。 また、千葉胤連の養子として龍造寺党の鍋島清房の子彦法師丸を入れて、千葉喜胤、少弐冬尚、龍造寺家門の連携を強めた。 この連携を察した有馬賢純は侵攻を断念した。 祇園千葉胤頼【ちばたねより(1532~1559)】 少弐資元の次男(千葉喜胤の養子)。 室は千葉喜胤の娘。 1542年、養父千葉喜胤の自刃により、千葉胤頼が祇園千葉家を相続することになった。 千葉胤頼は兄少弐冬尚が龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。 分裂以来対立関係であった西千葉胤連は龍造寺隆信の家臣鍋島直茂を養子に迎えて対抗した。 1559年、龍造寺隆信、千葉胤連の攻撃を受け勢福寺城で少弐冬尚とともに自刃した。 祇園千葉胤誠【ちばたね(15?? ~1593)】 千葉胤頼の男。 官途は千葉介。 別名千葉胤政。 1559年、父千葉胤頼が龍造寺隆信、千葉胤連の攻撃を受け勢福寺城で少弐冬尚とともに自刃すると、神代勝利、神代長良を頼って落延び、家宝である「妙見ノ太刀」などを長良に伝えた。 祇園千葉胤信【ちばたねのぶ(1551~1632)】 少弐胤連の男。 官途は右馬助。 別名鍋島忠右衛門。 東千葉家は千葉胤頼の女婿神代勝利の嫡男神代長良が治めた。 のち龍造寺作左衛門と称した。 1592年、「文禄の役」では、鍋島直茂に属して神代家良とともに渡海した。 継嗣なく、鹿江茂次の次男鹿江常貞(鍋島玄蕃)を女婿に迎えた。 千布家利【ちふいえとし(15?? ~15?? )】 土生島城主。 官途は因幡守。 彼杵郡から佐嘉郡千布に転封して土生島城を築いて千布と改めた。 1545年、龍造寺兼家との戦いでは反龍造寺家に属した。 しかしやがて龍造寺隆信に属し、肥前藤津攻めに活躍した。 筑紫満門【つくしみつかど(15?? ~1524)】 養父郡勝尾城主。 筑紫教門の男。 少弐政資に属して綾部城の九州探題渋川万寿丸が家臣により謀殺されると、少弐政資の命で馬場経周らとともに渋川万寿丸の弟渋川刀禰王丸を攻撃して筑後国に追放した。 大内義興勢が北九州に侵攻してくると、少弐政資は劣勢にたたされた。 1497年、少弐政資が自刃し少弐家は滅亡した。 筑紫満門は東尚盛らとともに大内義興に降伏し許され、大内義興勢に属した。 少弐政資、少弐高経父子が敗死した後は筑紫満門は三根郡、神埼両郡の郡代に任じられた。 1524年、少弐資元の家臣馬場経周の寝返りの誘いを筑紫満門が拒否し、逆に馬場経周の大内義隆への帰順をうながそうとしたため馬場経周に謀殺された。 筑紫尚門【つくしなおかど(15?? ~15?? )】 筑紫満門の男。 官途は能登守。 1528年、少弐資元の復興に危機感を抱いた大内義隆は、筑前守護代杉興運を大将として肥前に侵攻させた。 横岳資貞、筑紫尚門らの少弐一族や千葉勝胤らはなだれをうって大内義隆に寝返り、大内義隆勢は少弐資元の拠る勢福寺城に迫った。 龍造寺家兼は龍造寺家純、龍造寺家門ら枝連衆と江上武種、小田政光、犬塚家重、馬場鑑周、出雲氏忠、姉川惟安、本告信景などの国人とともに大内義隆を迎え撃ち、「田手縄の戦い」で大内義隆勢の先陣を敗り、朝日頼貫を敗死させた。 杉興運、筑紫尚門らが龍造寺家兼勢を攻撃するが、横合いから鍋島清久勢が突入すると、浮き足立った横岳資貞、筑紫尚門らが討死、杉興運は大宰府に敗走した。 筑紫惟門【つくしこれかど(1531~1567)】 筑紫尚門の男。 官途は下野守。 通称四郎。 1551年、大内義隆の討死後、大友義鎮に属したが、毛利元就と結び反大友義鎮陣営を形成した。 毛利元就が北九州に侵攻すると、秋月文種とともに挙兵したが失敗に終わり、秋月文種は自刃し、筑紫惟門は嫡男筑紫広門らとともに山口に落延びた。 後に毛利元就の支援により旧領に復帰した。 1567年、高橋鑑種、原田了栄、秋月種実、宗像氏貞らとともに挙兵し、再び大友義鎮勢と戦うものの、斎藤鎮実勢の攻撃を受け自刃した。 筑紫照門【つくしてるかど(15?? ~15?? )】 筑紫惟門の次男。 官途は筑後守。 筑後春門【つくしはるかど(15?? ~15?? )】 筑紫惟門の三男。 官途は左衛門大夫。 筑紫広門【つくしひろかど(1556~1623)】 筑紫惟門の男。 官途は左馬頭。 1567年、父筑紫惟門が大友義鎮勢に降伏し自刃したため筑紫家の家督を相続した。 1586年、高橋紹運の次男高橋統増に娘を嫁がせて縁戚となり、再び大友義鎮勢に属した。 「岩屋城の戦い」でも、大友義鎮勢に属し島津義久勢と戦った。 弟筑紫晴門は島津義久勢の川上忠堅と一騎討ちを演じて相討ちとなり、自身も島津義久勢に捕縛された。 1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、家臣を糾合して羽柴秀吉勢に属して島津義久勢と戦い戦功を挙げ、筑後国上妻郡で18,000石を領した。 1592年、「文禄の役」では小早川隆景に属して参陣した。 1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「伏見城の戦い」「大津城の戦い」で戦功を挙げた。 役後に所領を没収しれた。 加藤清正に招かれ寄食した。 筑紫茂成【つくししげなり(1575~1646)】 筑紫広門の男。 官途は主水正。 通称善吉郎。 1600年、「関ヶ原の役」では、父筑紫広門とともに石田三成勢に属したため役後失領した。 1627年、嫡男筑紫茂成は、「大坂夏の陣」の戦功により3,000石を領した。 徳島盛秀【とくしまもりひで(15?? ~15?? )】 龍造寺家兼家臣。 小城郡芦刈小路館主。 順【とくしまたねより(15?? ~15?? )】 徳島盛秀の男。 官途は土佐守。 1553年、龍造寺家兼の「佐嘉城奪還戦」及び「馬場頼周討伐」に参陣した。 1579年、龍造寺政家から桐日光紋を許された。 徳島信忠【とくしまのぶただ(15?? ~1584)】 徳島盛秀の次男。 官途は甲斐守。 室は鍋島信定の娘。 1584年、「沖田畷の戦い」で討死した。 徳島信盛【とくしまのぶもり(15?? ~1584)】 徳島盛秀の三男。 官途は筑後守。 1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して、兄徳島信忠とともに討死した。 徳島胤純【とくしまたねずみ(15?? ~15?? )】 千葉胤連家臣。 1562年、大友義鎮は少弐家を復興しようと有馬晴純とともに少弐政興を擁立した。 1563年、有馬晴純は杵島郡に侵攻すると、千葉胤連は龍造寺隆信に援軍を要請して、鴨打胤忠、徳島胤時、持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠に参陣した。 龍造寺隆信も鍋島信房、鍋島直茂らとともに小城郡高田に参陣した。 徳島胤純は島原弥七郎を柳津留の入江に誘み撃破った。 この戦い後東肥前国の豪族衆の多くが龍造寺隆信に属した。 千葉胤連は龍造寺隆信に属して小城郡高田城を領した。 徳島胤純らも龍造寺隆信に属した。 ------------------------------------------------------ 【な】 名護屋経勝【なごやつねかつ(15?? ~15?? )】 波多親家臣。 北松浦郡垣添城主。 名護屋経述【なごやつねつじ(15?? ~15?? )】 名護屋経勝の男。 名護屋城が築城された勝男山には、波多信時の家臣名古屋経述が居城した垣添城があった。 1592年、羽柴秀吉は「文禄の役」の拠点として、黒田孝高、加藤清正、小西行長、黒田長政による縄張り、九州の諸大名による天下普請によって名護屋城を築城した。 名護屋広子【なごやひろこ(1573~1637)】 羽柴秀吉の側室。 名護屋経勝の娘。 別名広沢局。 1592年、「文禄の役」のため、名護屋城に来た羽柴秀吉の側室になった。 その後、羽柴秀吉は山里丸の一角に広沢寺を建立した。 1593年、羽柴秀吉は大坂にに帰り、名護屋城には二度と戻ってこなかった。 名護屋城の山里丸に住んでいたが、羽柴秀吉が病没すると仏門に帰依した。 鍋島清久【なべしまきよひさ(1490~1542)】 佐嘉郡本荘館主。 鍋島経房の男。 通称平右衛門。 室は野田大隈守の娘。 1530年、「田手畷の戦い」で大内義隆勢の杉興連の猛攻を受けて窮地にあった龍造寺家兼を、鍋島清久は鍋島清房とともに赤熊の面を被った兵を率いて杉興連勢を攻撃した。 態勢を立てなおした龍造寺家兼は大内義隆勢を撃破した。 鍋島清久は、龍造寺家重の娘を室に迎えた。 鍋島清久は龍造寺家兼の筑後国流浪も助け、水ヶ江城奪取にも尽力した。 鍋島清泰【なべしまきよやす(15?? ~15?? )】 鍋島清久の男。 官途は左近将監。 1557年、神代勝利を攻撃した。 1569年、「多布施の戦い」で戦功を挙げた。 鍋島清房【なべしまきよふさ(1513~1585)】 鍋島清久の次男。 官途は駿河守。 通称孫四郎。 室は龍造寺家純の娘(華渓姫)。 1530年、「田手畷の戦い」では父鍋島清久、野田清孝らとともに赤熊隊を率いて龍造寺家兼の支援して、大内義隆勢の杉興連を撃破した。 龍造寺家純の娘を迎え、嫡男鍋島直茂を設けた。 龍造寺家兼の信任も厚く、龍造寺家兼が水ヶ江城を奪還する際は、少弐冬尚が馬場頼周を支援できないように一揆を煽動した。 龍造寺家兼の病没後は龍造寺隆信を補佐した。 1548年、村中龍造寺が病没すると龍造寺隆信が還俗して龍造寺宗家を相続するとその後見役となった。 1556年、龍造寺家純の娘である正室が病没していたため龍造寺隆信の母慶誾尼が押し掛ける形で後室に入った。 「沖田畷の戦い」では筑後国柳河にあって留守居を務めた。 鍋島直茂【なべしまなおしげ(1538~1618)】 鍋島清房の次男(西千葉胤連の養子)。 官途は加賀守。 通称孫四郎。 別名鍋島信生。 室は高木胤秀の娘(慶円)。 継室は石井常延の娘(彦鶴姫)。 1545年、少弐尚冬に龍造寺家純らが謀殺され、龍造寺家兼が筑後国に落延びると父鍋島清房は千葉胤連との鍋島直茂の養子縁組を解消した。 1558年、小田鎮光を謀殺して、その居城蓮池城に入って筑後国の領国経営を行った。 1569年、「佐嘉城の戦い」では戸次鑑連の猛攻を凌いで和議に持ち込んだ。 1570年、「今山の戦い」では、夜襲を指揮して大友親貞を討取る戦功を挙げた。 1578年、西肥前国の有馬、大村を降す戦功を挙げた。 1581年、蒲池鎮漣を謀殺すると田尻鑑種を使って蒲池鎮漣の枝連衆を謀殺した。 1584年、「沖田畷の戦い」では島津義久勢の猿渡信光と戦った。 龍寺造隆信が討死すると龍造寺隆信勢を指揮して佐嘉城まで退却した。 島津義久勢には抗しえず降伏した。 羽柴秀吉の「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に内通した。 1587年、龍造寺政家の陣代として参陣して佐嘉城357,000石を領した。 1592年、「文禄の役」に参陣して、加藤清正とともに朝鮮王子の捕囚にした。 1598年、羽柴秀吉が病没すると、松平元康と結ぼうとした。 1600年、「関ヶ原の役」では、鍋島勝茂が石田三成勢に属し、自身は東海道の穀物を買い占めて松平元康に献上し、石田三成勢の久留米城主毛利秀包や柳川城主立花宗茂を攻撃した。 龍造寺高房は松平元康に対して龍造寺家の実権の回復をはたらきかけたが、松平元康は鍋島直茂、鍋島勝茂の東肥後国の領有を支持した。 1614年、「大坂冬の陣」にも参陣した。 鍋島勝茂【なべしまかつしげ(1580~1657)】 鍋島直茂の男(江上家種の養子)。 官途は信濃守。 通称伊勢松。 室は戸田勝隆の娘。 継室は岡部長盛の娘(菊姫)。 1598年、「慶長の役」に参陣した。 1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したが、父鍋島直茂の進言により松平元康勢に寝返り久留米城主毛利秀包、柳河城主立花宗茂を攻撃した。 石田三成勢が敗退した後に黒田長政の仲裁で松平元康に謝罪し、本領安堵を認められた。 その後「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」「島原の乱」にも参陣した。 龍造寺季明により龍造寺領返還問題が起きて家中動揺するも、多久安順ら龍造寺家枝連衆が龍造寺家の名跡が鍋島家に移ったことを証言した。 鍋島忠茂【なべしまただしげ(1584~1624)】 鍋島直茂の次男。 官途は和泉守。 別名小川直房。 室は江上家種の娘。 1592年、「文禄の役」に参陣した。 1597年、「慶長の役」にも参陣した。 1600年、「関ヶ原の役」では、兄鍋島勝茂が石田三成勢に属したため、父鍋島直茂の命で石田三成勢の立花宗茂を攻撃して、鍋島家の存続に尽力した。 1601年、松平元康への人質として江戸に赴いた。 1602年、松平秀忠の近習として仕え、下総国矢作で5,000石を領した。 1609年、鍋島勝茂から常広城20,000石を分知されて25,000石の諸侯に列した。 1614年、「大坂冬の陣」では、病身を押して参陣したため、松平秀忠に激賞された。 その後は矢作で療養したが、まもなく病没した。 鍋島信房【なべしまのぶふさ(15?? ~1609)】 鍋島清房の三男。 官途は豊前守。 通称三郎兵衛、別名鍋島房義。 1576年、藤津郡横沢城の戦いに参陣した。 その後藤津郡鹿島城に入って有馬晴信に対抗した。 1584年、「沖田畷の戦い」では藤津衆を率いて殿を務めた。 鍋島勝茂の代になって鹿島城は鍋島勝茂の弟鍋島忠茂が入り、鍋島信房は高来郡神代城に転封したがまもなく病没した。 鍋島茂昌【なべしましげまさ(15?? ~15?? )】 鍋島信房の男。 鍋島茂治【なべしましげはる(15?? ~15?? )】 鍋島信房の次男。 鍋島清虎【なべしまきよとら(15?? ~15?? )】 官途は周防守。 鍋島為俊【なべしまためとし(15??

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