いざ 生き め や も。 堀辰雄『風立ちぬ』「いざ生きめやも」の意味

風立ちぬ (小説)

いざ 生き め や も

風立ちぬ 風が立つのか、立たぬのか。 ここから既に分かりませんが、これは 「風が立った」と言う方の意味ですね。 風が立ったという表現も少しおかしいので 「風が吹いた」あたりがいいでしょうか。 いざ生きめやも 「そろり、そろり」……と聞こえてきそうな語調ですな。 元々フランス語の詩を訳したものらしいのですが、どうも誤訳らしく、これをそのまま現代風に直すと、 「さあ生きようか、いや生きない」となってしまい、本来の意味とは変わってくるのだとか。 本来は「生きるしかないよなぁ」と言ったニュアンスになるそうです。 単純に誤訳だと、ミスったのだと決めつけるのは簡単なのですが、ここにあの「生きねば」を足して考えると。 いざ生きめやも(生きねば)で 生きようか、いやそんなことは出来ない。 でも生きるしかないよなぁ と言う感じにつながるのではないでしょうか。 まとめ と言う事で、「風立ちぬ いざ生きめやも」の意味は 「風が吹いた。 生きてみるか」 てな感じでどうでしょうか。 映画を最後まで見たら、またおいでください。 としたのですが、映画の中ではより深い意味になるのでは?と考えています。 と言うのも、この言葉も「生きねば」のセリフも劇中では出てきません。 (「君は生きねばならん」と言うセリフはありますが) ではなぜ「生きねば」がキャッチコピーになったのか。 恐らくですが、最後菜穂子から二郎に宛てられた手紙の中にこの言葉達が入っていたのではないでしょうか。 「風立ちぬ いざ生きめやも …生きねば」 と。 で、あるならば菜穂子からしたらこの言葉の意味は、 「風が吹いた(二郎にとってテスト飛行後は更に新しい世界が始まる)」 「いざ生きめやも(そんな世界を共に生きたい、いや生きれないのだろうな)」 「…生きねば(生きてみよう、抗ってみよう)」となり、希望を持った意味だったのではないでしょうか。 そんな希望を持って「生きぬいた」からこそ、最後の二郎に対する菜穂子の「生きて」とカプローニの「君は生きねばならん」に繋がるのではないでしょうか。 そしてここから二郎にとって、 「風立ちぬ(多くを失い、夢と君のいない世界が始まる)」 「いざ生きめやも(そんな時代を生きれるのだろうか、いや生きてはいけまい)」 「…生きねば(生きねばならないな。 君のように抗わねばならないな)」 と繋がるのではないでしょうか。 まとめ 「風立ちぬ いざ生きめやも」の意味、どうだったでしょうか。 こんな意味が含まれていたのだとしたら、それぞれの最期に対する見方も少し変わってくるのではないでしょうか。

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いざ 生き め や も

例 [ ] はルール上、を詰めていくといずれアタリになる眼を「」と呼ぶ。 囲碁の死活では、欠け眼ではない(ダメを詰めてもアタリにならない)眼が2つあれば生きとなる。 上の局面は、白の生きている石を黒が囲い、その周りをさらに白が囲んでいるという状態。 黒が持っている2つの眼a、bはどちらも欠け眼に見えるが、黒の石はぐるりと一周しているため、白は黒石をアタリにすることはできない。 このように、2つの眼が欠け眼でも、一周してつながっていることによって生きるのを 欠け眼生きという。 実戦での出現 [ ] 欠け眼生きは、敵の生きた石を包囲した石が、さらにぐるりと周囲を包囲された、極めて特殊な形の時のみ生ずる。 このため、実戦での出現例は極めて少ない。 21世紀に入ってからは、以下の例が知られている。 (黒)-(白) 白の石が欠け眼生き• トーナメント決勝 (黒)-(白) 白の石が欠け眼生き 参考文献 [ ]• 『基本死活辞典』全2巻 日本棋院 1984-85年• 、利夫『傑作詰碁辞典』誠文堂 新光社 1975年 改訂版 2010年 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ].

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堀辰雄『風立ちぬ』「いざ生きめやも」の意味

いざ 生き め や も

24 「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一節で、『ヴァレリー全集』(鈴木信太郎訳)で、<風 吹き起こる……生きねばならぬ>と訳されています。 私もこう解釈したいのですが、どうやら堀辰雄の小説の中での意味は違うという説が出ています。 文法的に正しく解釈すると「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、<風が吹き始めた。 さあ、この風の中でどうして生きて行けるだろうか。 とてもできない>となるそうなのです。 この台詞は主人公が不治の病に冒された女性に「口の裡 うち で繰り返していた」だけで口にはしていないのです。 つまり死を自覚した病人に向かって言ってはいけない言葉だととれるのですから、堀辰雄はこの意味を知っていて使ったのかも知れません。 ただこのままだと古典の解釈など出来ない阿呆オヤジの希望的観測は消えてしまうのです。 そこでもう一度考えてみました。 ふいに風が吹いてきてキャンバスが倒れたのを見て、<風 吹き起こる……生きねばならぬ>と思ったけれど、命短いことを知っているかたわらの女性に向けて口にしていい言葉ではないと思い口の中でつぶやくことにした、という解釈も成り立つのではないでしょうか。 堀辰雄はこれを謎にしておきたかったのかも知れませんが、ポール・ヴァレリーの詩の翻訳の<風 吹き起こる……生きねばならぬ>という意味が正しく、文法的には誤って「風立ちぬ、いざ生きめやも」となったのでしょうから、その解釈は誤ったまま<風 吹き起こる……生きねばならぬ>としておいたほうがいいのではと思っています。 だって私の一番好きな日本語の言葉なんですもの。 そして、これからの福島にとって必要とされる言葉はまさしく<風 放射能 吹き起こる……生きねばならぬ>なんですからね。

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