日比谷 線。 東京メトロ、日比谷線ダイヤ改正。虎ノ門ヒルズ駅開業、THライナー運行開始

営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故

日比谷 線

乗り入れ路線 [ ] 東京メトロの・と、都営地下鉄のの3路線が乗り入れる。 は日比谷線が H 08 、千代田線が C 09、三田線が I 08である。 また東京メトロおよび(JR東日本)・が乗り入れるの至近にあり、有楽町線の乗り換え駅として案内される。 ただし、当駅からJR線への正式な乗り換え案内は都営三田線のみ行っている。 日比谷線・千代田線から有楽町線有楽町駅方面へは都営三田線付近の通路より連絡している。 この構内通路は東京都交通局の管轄であり、案内は基本的に都営線基準となっている。 また、当駅から東側は、まで、北側は、まで改札外地下通路で連絡している。 歴史 [ ]• (39年):(営団地下鉄)日比谷線の駅が開業。 (昭和46年):営団地下鉄千代田線の駅が開業。 (昭和47年):都営地下鉄6号線の駅が開業。 (昭和49年):営団地下鉄有楽町線の有楽町駅が開業し、乗換業務を開始。 (昭和53年):都営地下鉄6号線を三田線に改称。 (16年):帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、日比谷線・千代田線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される。 (平成19年):「」の利用が可能となる。 (平成30年):千代田線ホームでとの使用を開始。 (2年):日比谷線ホームで発車メロディの使用を開始。 駅構造 [ ] 東京メトロ [ ] 日比谷線は2面2線を有するである。 改札は地下2階、ホームは地下3階にある。 とが地下2階と地下3階を連絡している。 千代田線は1面2線を有する地下駅である。 改札は地下1階、ホームは地下2階にある。 エスカレーターとエレベーターが地下1階と地下2階を連絡している。 なお、両線のホーム間は日比谷線の霞ケ関寄りと千代田線の二重橋前寄りが連絡通路により直結している。 改札内の連絡通路は他になく、異なる路線の改札口から入場した場合はホームを経由する必要がある。 毎年10月の直前にで開催される「鉄道フェスティバル」の際には、千代田線霞ケ関寄りの改札口付近にブースが設置されることがある。 当駅は、「駅務管区 日比谷地域」として近隣の駅を管理している。 のりば [ ] 番線 路線 行先 日比谷線ホーム(地下3階) 1 日比谷線 ・・方面 2 ・・・方面 千代田線ホーム(地下2階) 3 千代田線 ・方面 4 ・北千住・・方面 (出典: ) 発車メロディ [ ] 全てのホームにおいて、制作の(発車サイン音)を使用している。 番線 路線 曲名 作曲者 1 日比谷線 銀杏の下で 2 公園日和 3 千代田線 ショウが始まるよ 4 スニーカー 大和優子 都営地下鉄 [ ] 島式ホーム1面2線を有する地下駅。 改札は地下1階、ホームは地下2階にあり、エスカレーターとエレベーターが地下1階と地下2階を連絡している。 改札は3か所ある。 までは日比谷駅務管理所の所在駅であり、三田線の - 間の各駅を管理していた。 付でが実施した駅管区制の導入より、の所在駅となり、前述の日比谷駅務管理所は廃止となった。 大手町寄りの改札外通路および出入口は、千代田線と共用している。 ただし正式な連絡駅に指定されていないため、当駅で下車して二重橋前駅を利用しても乗継割引の適用対象外となる(逆も同様)。 改札外に売り場と、のちに併設された型の売店「グランメルシー」がある。 2001年3月から数年間、製薬会社の(現・)のなどが壁面やホームゲートなどに施されていた。 当駅の改札至近に地上へ連絡するがあるが、帝国劇場所有のため、利用可能な時間は限られている。 のりば [ ] 番線 路線 行先 1 都営三田線 ・・方面 2 ・・方面• 列車のは、南行は内幸町側の先端部、北行はホーム中央付近である。 大手町側先端部には両方向の列車とも停車しない。 当駅の大手町寄りに上り線から下り線への片渡り線が存在する。 利用状況 [ ]• 東京メトロ - 2018年度の1日平均は前年度比14. 東京メトロ線同士の乗換人員を含んだ、2018年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである。 有楽町駅の有楽町線との乗換人員も含む。 日比谷線 - 145,607人 - 同線内では北千住駅、中目黒駅、茅場町駅、銀座駅に次ぐ第5位。 千代田線 - 133,898人 - 同線内では綾瀬駅、北千住駅、代々木上原駅、大手町駅、表参道駅、西日暮里駅に次ぐ第7位。 都営地下鉄 - 2018年度の1日平均乗降人員は 92,589人(:46,101人、:46,488人)である。 三田線全27駅の中ではに次いで第6位。 年度別1日平均乗降人員 [ ] 近年の1日平均 乗降人員の推移は下表の通り。 (JR東日本)• JR東日本 - 三田線の大手町寄り出口(B7出入口)に案内あり。 千代田線はの方が至便。 (大小)• 千代田区立• 「緑と水の市民カレッジ」• 日比谷グリーンサロン• フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)• (洋風レストラン)• 東京宝塚ビル• 東宝シアタークリエビル• 帝国ホテル内• 第一生命館内郵便局• 帝劇ビル• 東京商工会議所ビル• 富士ビル• 千代田丸ノ内郵便局• 霞が関官庁街• (有楽町マリオン) バス路線 [ ] 日比谷• B1出口付近• 等々力操車所行(・・経由)(東急)• A10出口付近• 行(東急)• A6出口付近• 行(前経由)(都営)• A9出口付近• 行(経由)(都営) 第一生命(B1出口付近)、 三信ビル(A9出口付近)• 行 駅名の由来 [ ] 駅に隣接する「日比谷公園」に由来する。 皇居や皇居外苑にも近いため、それに準じた駅名も計画されていたものの、当時の政府やから拒否されたために「日比谷」に落ち着いたという経緯がある。 隣の駅 [ ] 東京地下鉄(東京メトロ) 日比谷線 H 07 - 日比谷駅 H 08 - H 09 千代田線 霞ケ関駅 C 08 - 日比谷駅 C 09 - C 10 東京都交通局(都営地下鉄) 都営三田線 I 07 - 日比谷駅 I 08 - I 09 脚注 [ ] [] 記事本文 [ ] 注釈 [ ]• 東日本旅客鉄道. 2020年4月8日時点のよりアーカイブ。 2020年4月8日閲覧。 日本語 プレスリリース , 営団地下鉄, 2004年1月27日 , の2006年7月8日時点におけるアーカイブ。 , 2020年3月25日閲覧。 日本語 PDF プレスリリース , PASMO協議会/パスモ, 2006年12月21日 , の2020年5月1日時点におけるアーカイブ。 , 2020年5月5日閲覧。 株式会社スイッチオフィシャルサイト. 株式会社スイッチ. 2019年9月3日閲覧。 株式会社スイッチオフィシャルサイト. 株式会社スイッチ 2020年2月7日. 2020年2月7日閲覧。 鉄道ピクトリアル2016年12月臨時増刊号 【特集】東京地下鉄 p. 利用状況 [ ] 地下鉄の1日平均利用客数.

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東京メトロ、日比谷線ダイヤ改正。虎ノ門ヒルズ駅開業、THライナー運行開始

日比谷 線

帝都高速度交通営団は、銀座線、丸ノ内線に次いで、日比谷線に着手しました。 1957(昭和32)年5月、北千住~中目黒間の20. 3kmを、1958(昭和33)年~1964(昭和39)年、総工事費348億9300万円で計画しました。 時代背景としては、1964(昭和39)年10月に開催される東京オリンピックを前に、都市の交通網を充実させることが社会要請としてありました。 日比谷線の最大の特徴は、都内の北東の北千住と西南の中目黒を途中銀座を中心として上野・築地・霞ケ関・六本木など要所を経由し、北千住で東武伊勢崎線に、中目黒で東急東横線に相互乗り入れすることでした。 当時、相互直通運転方式の導入を決定したことは世界的にも初の試みでした。 今では当たり前のようになっている他社線との乗り入れは、利用客の利便性を格段に向上させました。 戦後の復興を果たし、日本が更なる発展をするための東京オリンピックに向けた工事は、多岐にわたっていました。 オリンピック会場の建設、都内道路の整備、東海道新幹線の新設なども、オリンピック開催に間に合うように工事が進められていましたので、日比谷線工事は、人手不足、資材不足のなかで行われました。 営団初の相互直通運転に際し、まずは東武鉄道・東京急行電鉄との調整にあたりました。 例えば集電方式を第三軌条方式から架空電車線によるパンタグラフ方式に統一することなどがこれにあたります。 その他にも相互直通運転の乗り入れ区間、運転士の取り扱いなどの問題を一つひとつ解決し、協定書や契約書の形に整えていきました。 これらの貴重な経験は、その後の営団が行うことになる国鉄(現:JR)、小田急電鉄、さらには西武鉄道との協議の雛形になりました。 このような様々な課題をクリアしながら、営団は1959(昭和34)年5月に日比谷線南千住~仲御徒町間3. 7kmの土木工事に着手し、あとを追って軌道、電車線路等の路線設備も整備されました。 そして、1961(昭和36)年3月28日、南千住~仲御徒町間で営業を開始しました。 1962(昭和37)年5月、北千住~人形町間の8. 3kmが開通し 、同時に東武伊勢崎線と相互直通運転が開始されました。 伊勢崎線の北千住~北越谷間の19kmと合わせて27. 3kmの線区を営団の3000形車両と東武の2000系車両が相互直通運転するようになり、都心部へ乗り換えなしで行けるようになりました。 このことにより、利便性が向上し伊勢崎線沿線の開発も促進され利用客が予想以上に急増しました。 翌年2月、人形町~東銀座間の3. 0kmが開通し、同時に都営地下鉄1号線(浅草線)も東銀座まで開通し、銀座線、丸ノ内線、日比谷線、都営浅草線の4本が絡みあうようになり、東京の地下鉄はようやく路線網らしくなってきました。 日比谷線は北千住~南千住付近の地上区間以外、ほとんどが開削工法で建設されました。 開削式における土留め杭打ち工法はハンマーによる打撃打ち込みでしたが、銀座地区の地質が硬い関係もあって騒音等、沿道に配慮する必要が出てきました。 解決策として、あらかじめアースオーガーで穿孔したのち杭を建て込む方法をとりました。 また、それまで支保工(しほこう:トンネル工事等で、工事が終了するまで側圧、土圧を支える仮設構造物)は木製でしたが、虎ノ門・神谷町において、H形鋼を使用。 その後銀座・日比谷地区は全面鋼製の支保工となりました。 東京オリンピックの開催を目前に、日比谷線全通が社会的な要請であったので、営団は急ピッチで工事を進めました。 日比谷線に使用する車両は、東武・東急と相互直通運転を行うため、直通車両規格統一分科会が開かれ検討がなされました。 まず直通運転に関する協定を取り決め、軌間・集電方式・電車線電圧を決定、これらを基準に直通車両統一規格を3社によって決定し、車両の設計が進められました。 車両の寸法・構造・扉の位置や数等の車体関係から、制御・ブレーキ方式や加減速度等の性能に関することや運転士の取り扱う機器・保安装置等検討事項が山積みでした。 一例として、保安装置が3社独自のものであったことから営団車両にはそれぞれの保安装置に関する機器を搭載することになり、機器配置が大変でした。 この問題は後に運転室を改造するたびに配置に苦労する原因となり、03系車両に置き換わるまで続きました。 営団は、日比谷線でも高性能車両を目指し車体関係や各装置等の研究開発を進め、車体の内外板の無塗装化、ATC方式の保安装置、剛体架線とパンタグラフによる集電方式等の採用を行いました。 また、地下部の高加減速性・地上部の高速性能を得る開発をしつつ、起動時・ブレーキ時の速度の変化を極力少なくし乗心地をよくする開発がなされました。 こうして相互直通運転に関する困難を克服し営団の最新技術を投入して1961(昭和36)年に誕生した3000形でした。 当初、2両編成で運転していましたが、翌年には4両、1966(昭和41)年には6両、1971(昭和46)年には全編成8両として輸送力増強を行ってきました。 その後、経年による老朽化及び冷房化対応の意味も含めて、1988(昭和63)年から03系車両に順次置き換えられていきました。 日比谷線の両端駅で他社線との乗り入れを行う相互直通運転は、この線の大きな特徴でした。 1962(昭和37)年、北千住~人形町間開通に伴い東武伊勢崎線北越谷駅まで直通運転が開始され、延伸開通ごとに直通区間が伸びていきました。 1964(昭和39)年、日比谷線全通と同時に中目黒駅で東急東横線日吉駅まで直通運転が開始され、東武線・営団線・東急線が日比谷線を挟んで結ばれました。 その後、直通区間は東武線が東武動物公園駅、東急線が菊名駅まで伸び、旅客の利便性が向上しました。 2013(平成25)年3月16日、東横線と東京メトロ副都心線の直通運転開始に伴い、日比谷線は東横線との直通運転を終了し、すべての電車が中目黒駅発着となりました。 同時に東武との直通運転区間を東武日光線南栗橋駅まで延長しました。

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日比谷 線

帝都高速度交通営団は、銀座線、丸ノ内線に次いで、日比谷線に着手しました。 1957(昭和32)年5月、北千住~中目黒間の20. 3kmを、1958(昭和33)年~1964(昭和39)年、総工事費348億9300万円で計画しました。 時代背景としては、1964(昭和39)年10月に開催される東京オリンピックを前に、都市の交通網を充実させることが社会要請としてありました。 日比谷線の最大の特徴は、都内の北東の北千住と西南の中目黒を途中銀座を中心として上野・築地・霞ケ関・六本木など要所を経由し、北千住で東武伊勢崎線に、中目黒で東急東横線に相互乗り入れすることでした。 当時、相互直通運転方式の導入を決定したことは世界的にも初の試みでした。 今では当たり前のようになっている他社線との乗り入れは、利用客の利便性を格段に向上させました。 戦後の復興を果たし、日本が更なる発展をするための東京オリンピックに向けた工事は、多岐にわたっていました。 オリンピック会場の建設、都内道路の整備、東海道新幹線の新設なども、オリンピック開催に間に合うように工事が進められていましたので、日比谷線工事は、人手不足、資材不足のなかで行われました。 営団初の相互直通運転に際し、まずは東武鉄道・東京急行電鉄との調整にあたりました。 例えば集電方式を第三軌条方式から架空電車線によるパンタグラフ方式に統一することなどがこれにあたります。 その他にも相互直通運転の乗り入れ区間、運転士の取り扱いなどの問題を一つひとつ解決し、協定書や契約書の形に整えていきました。 これらの貴重な経験は、その後の営団が行うことになる国鉄(現:JR)、小田急電鉄、さらには西武鉄道との協議の雛形になりました。 このような様々な課題をクリアしながら、営団は1959(昭和34)年5月に日比谷線南千住~仲御徒町間3. 7kmの土木工事に着手し、あとを追って軌道、電車線路等の路線設備も整備されました。 そして、1961(昭和36)年3月28日、南千住~仲御徒町間で営業を開始しました。 1962(昭和37)年5月、北千住~人形町間の8. 3kmが開通し 、同時に東武伊勢崎線と相互直通運転が開始されました。 伊勢崎線の北千住~北越谷間の19kmと合わせて27. 3kmの線区を営団の3000形車両と東武の2000系車両が相互直通運転するようになり、都心部へ乗り換えなしで行けるようになりました。 このことにより、利便性が向上し伊勢崎線沿線の開発も促進され利用客が予想以上に急増しました。 翌年2月、人形町~東銀座間の3. 0kmが開通し、同時に都営地下鉄1号線(浅草線)も東銀座まで開通し、銀座線、丸ノ内線、日比谷線、都営浅草線の4本が絡みあうようになり、東京の地下鉄はようやく路線網らしくなってきました。 日比谷線は北千住~南千住付近の地上区間以外、ほとんどが開削工法で建設されました。 開削式における土留め杭打ち工法はハンマーによる打撃打ち込みでしたが、銀座地区の地質が硬い関係もあって騒音等、沿道に配慮する必要が出てきました。 解決策として、あらかじめアースオーガーで穿孔したのち杭を建て込む方法をとりました。 また、それまで支保工(しほこう:トンネル工事等で、工事が終了するまで側圧、土圧を支える仮設構造物)は木製でしたが、虎ノ門・神谷町において、H形鋼を使用。 その後銀座・日比谷地区は全面鋼製の支保工となりました。 東京オリンピックの開催を目前に、日比谷線全通が社会的な要請であったので、営団は急ピッチで工事を進めました。 日比谷線に使用する車両は、東武・東急と相互直通運転を行うため、直通車両規格統一分科会が開かれ検討がなされました。 まず直通運転に関する協定を取り決め、軌間・集電方式・電車線電圧を決定、これらを基準に直通車両統一規格を3社によって決定し、車両の設計が進められました。 車両の寸法・構造・扉の位置や数等の車体関係から、制御・ブレーキ方式や加減速度等の性能に関することや運転士の取り扱う機器・保安装置等検討事項が山積みでした。 一例として、保安装置が3社独自のものであったことから営団車両にはそれぞれの保安装置に関する機器を搭載することになり、機器配置が大変でした。 この問題は後に運転室を改造するたびに配置に苦労する原因となり、03系車両に置き換わるまで続きました。 営団は、日比谷線でも高性能車両を目指し車体関係や各装置等の研究開発を進め、車体の内外板の無塗装化、ATC方式の保安装置、剛体架線とパンタグラフによる集電方式等の採用を行いました。 また、地下部の高加減速性・地上部の高速性能を得る開発をしつつ、起動時・ブレーキ時の速度の変化を極力少なくし乗心地をよくする開発がなされました。 こうして相互直通運転に関する困難を克服し営団の最新技術を投入して1961(昭和36)年に誕生した3000形でした。 当初、2両編成で運転していましたが、翌年には4両、1966(昭和41)年には6両、1971(昭和46)年には全編成8両として輸送力増強を行ってきました。 その後、経年による老朽化及び冷房化対応の意味も含めて、1988(昭和63)年から03系車両に順次置き換えられていきました。 日比谷線の両端駅で他社線との乗り入れを行う相互直通運転は、この線の大きな特徴でした。 1962(昭和37)年、北千住~人形町間開通に伴い東武伊勢崎線北越谷駅まで直通運転が開始され、延伸開通ごとに直通区間が伸びていきました。 1964(昭和39)年、日比谷線全通と同時に中目黒駅で東急東横線日吉駅まで直通運転が開始され、東武線・営団線・東急線が日比谷線を挟んで結ばれました。 その後、直通区間は東武線が東武動物公園駅、東急線が菊名駅まで伸び、旅客の利便性が向上しました。 2013(平成25)年3月16日、東横線と東京メトロ副都心線の直通運転開始に伴い、日比谷線は東横線との直通運転を終了し、すべての電車が中目黒駅発着となりました。 同時に東武との直通運転区間を東武日光線南栗橋駅まで延長しました。

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