デカメロン ペスト。 ペストに襲われた中世のヨーロッパ、人々と教会はどうなった?

デカメロン

デカメロン ペスト

「ペスト」は、ペスト菌が原因でおこる病気です。 現在の日本では感染症法で最も危険な一類感染症に分類され、感染者を隔離して治療することと定められています。 もともとはネズミに流行するものですが、感染したネズミの血を吸ったノミに刺された人に感染が広がります。 かつて感染者は皮膚が黒くなり死に至ったことから「黒死病」と呼ばれていました。 現在では抗菌剤の投与が有効で、適切に治療を行えば後遺症を残すことなく治癒しますが、抗菌剤がなかった昔は致死性が高く恐れられていました。 そもそもペスト菌が原因で流行するということも解らなかったわけですから、多くの人が「ペスト」で命を落としました。 14 世紀のヨーロッパでは流行を繰り返し、おおよそ 2500 万人が死亡したことから、全人口の半分近くを失ってしまったのです。 ヨーロッパ各地にはこのペスト大流行の記念碑があります。 写真はウィーンにある「ペストの柱」です。 ペスト流行の原因は解らなかったけれど、人は大勢の患者がいる場所から逃れようと考えるのは当然のことです。 「デカメロン」はボッカチオが 1348 年に著した物語集です。 この時のペスト大流行から逃れようと男女 10 人が邸宅にひきこもり、その退屈さをまぎらわすため、毎日 10 人が 10 話ずつのおもしろおかしい物語を語り合い、百話ができたという設定になっています。 題名の「デカメロン」はギリシア語の 10 日という意味の言葉に由来するそうで、「十日物語」などとも呼ばれています。 ボッカチオはペスト流行という当時の最新ニュースに引っかけて文芸作品「デカメロン」を作り上げましたが、その中で悲惨な流行のようすが今に伝えられているのです。 ところで、このペスト流行が医学の発展に与えた影響には大きいものがありました。 それはペストといった伝染病をどのように予防するか、という防疫法が確立されていったことです。 イタリアでは患者の発生を届け出させ、患者の隔離、使用した物品の焼却処分、さらに港の封鎖が始まりました。 入港した船の船員の上陸や荷物の陸揚げをすぐにさせず、 40 日間停泊して発病する人がいないことが確認されたのち初めて上陸が許可されました。 現在、空港などにある検疫所で行われている「検疫」は英語で quarantine といいますが、これはラテン語の 40 という意味の単語からできたもので、 14 世紀イタリアでの港の封鎖が語源となっています。

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フィレンツェのペスト

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Decameron, 1492 『 デカメロン』(Decameron)は、による物語集。 ダンテの『』に対して、『人曲』とも呼ばれる。 また、デカメロンはの「10日」 deka hemerai に由来し、『 十日物語』とも和訳される。 からにかけて製作された。 サブタイトルは「 ガレオット公爵」で、においての不倫の恋を仲立ちしたキャラクターの名前から取られている。 に大流行したから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をするという趣向で、10人が10話ずつ語り、全100話からなる。 内容はユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などで、それぞれ『』や『』から影響を受けている。 の『』やの『』(七日物語)などに影響を与えた。 は、『デカメロン』の文体が、イタリア散文芸術の始まりだとする。 また、以来初めて、現在の事件を描いた文体が教養のある階級を楽しませるようになったとも指摘した。 登場人物 [ ]• パンフィロ• フィロストラト• ディオネオ• パンピネア• フィアンメッタ• フィロメナ• エミリア• ラウレッタ• ネイフィレ• エリッサ 10日間の話のテーマ [ ] 日によって話のテーマが決められている。 話者はそれに沿った話を披露していく。 自由テーマ• 多くの苦難をへたのち成功や幸福を得た人の話• 長い間熱望したもの、あるいは失ったものを手に入れた話• 不幸な恋人たちの話• 不幸のあとに幸福に巡り合う恋人たちの話• とっさのうまい返答で危機を回避した人の話• 夫を騙した妻の話• 男が女を、女が男を騙す話• 自由テーマ• 気高く寛大な行為についての話 脚注 [ ]• 、コトバンク。 2014年5月11日閲覧。 エーリヒ・アウエルバッハ 『』(上) 篠田一士・川村二郎訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1994年。 第9章 関連項目 [ ] イタリア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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社会も医療もペストが変えた 人類の歩みに感染症あり [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

デカメロン ペスト

その冒頭部分には、1348年にを襲ったペストについての記述があります。 の恐ろしさを伝える、重要な史料です。 以下に、その一部を紹介します。 天の球体の運行のなせるわざか、あるいは私たちの罪業に怒りを覚えて神が死すべき人間たちに正義の裁きをくだされたためか、その数年前に東方の各地に発生して、かの地において無数の人びとの命を奪い、とどまるところを知らぬ勢いで、つぎつぎにそ行先を変え、やがては恐ろしいことに西洋へ向かって、それは広がってきた。 これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐がなく、もとより都市は特別の係官を任命して、彼らの手ですべての汚物を浄めたり、城壁の内部へ一切の患者の立ち入りを禁止したり、衛星を保つためのありとあらゆる措置を講じたり、加えてまた敬虔な願もかけられ、行列も整然と組まれて信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが、それにもかかわらず、(中略)目を覆うばかりの惨状を呈し出した。 (中略) 病気の初期の段階で、まず男女ともに鼠径部と腋の下に一種の腫瘍を生じ、これが林檎大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者によって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤と呼び習わされた。 (その後は)黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の他の部分にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きくて数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場合もあった。 こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった徴候として、やがて斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。 こういう病気の勢いを前にしては、医術も薬術もおよそ何の価値をも持たず、何の効果をも発揮できないように思えた、それどころか、病気の本性には一向に堪えないのか、それとも医者どもの無知が病の拠って来るところを突き止められないためか、結局、適切な措置がとれずに、治癒した人間はごく稀であり、それどころかほとんど全員が、遅い早いの差はあれ、先に述べた徴候を見せてから三日以内にろくに熱も出さずに、またそれ以上に症状が進んだとも見えないのに、つぎつぎに死んでいった。 (中略) 零細な人々や、またおそらく大多数のの人びとには、より悲惨な状況が待ち受けていた。 なぜなら彼らの多くは、あるいは虚しい期待を抱きながら、あるいは貧困ゆえにそれぞれの家のなかに引きこもり、隣りあって生活していたため、日に何千と病んでゆき、何の世話も援助も受けられずに、逃げ場さえほとんど失って、等しくみな死んでいったからだ。 そして昼夜を分かたずに街頭で息絶える者の数は知れず、また家のなかで息を引き取る者の数はさらに多かったが、彼らは腐敗した身体の臭いによってやっとおのれの死んだことを隣人に知らせるのだった。 の「人口は9~10万から4~5万に激減した。 当時のヨーロッパの3分の1の人びとが亡くなったと言われています。 whomoro.

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