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子どもの徳育に関する懇談会(第10回) 議事要旨:文部科学省

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三聚浄戒とは 三聚浄戒とは、漢訳四阿含や漢訳諸律蔵およびパーリ三蔵など、声聞乗において説かれることの無い大乗特有の戒、いわゆる菩薩戒です。 三聚浄戒は、菩薩乗・声聞乗における様々な戒を、大乗の立場から包摂した概念的なものであって、五戒や八斎戒などのような一般的意味での戒とは異なったものです。 菩薩として六波羅蜜および四摂法・四摂を実現するための欠くべからず因、菩薩が菩薩たりえる核心として説かれる菩薩戒の総称、それが三聚浄戒です。 しかし、他の漢訳仏典においてはまた三種浄戒・三種戒聚・三浄戒などの訳語も見られ、また三聚戒蔵・三受門という語でも表されています。 そしてその内容としては、それが律儀戒・摂善法戒 [しょうぜんぽうかい]・饒益有情戒 [にょうやくうじょうかい](摂衆生戒 [しょうしゅじょうかい])の三つの戒を包摂したものであるためです。 ところで、日本仏教各宗派においても頻繁に三聚浄戒の名目が用いられることから、それが一体いかなるものかと調べようとする人があります。 しかし、「三聚浄戒とは律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三つをまとめて言ったものです」という程度の説明を聞くのみで納得し、満足してしまう者が大半のようです。 けれども、それでは結局何一つ解ったことになりません。 実際、三聚浄戒は大乗において極めて重要で必須のものとされてきたにも関わらず、今や日本において三聚浄戒についてまともに理解している者も詳しく説き得る者もほとんどありません。 仮にあったとしても、それは極少数の仏教学者がただ学問の対象として文献学的に学術論文の中にて云々するのみで、仏教としてどのようなものであるかを知りたい者にはまるで不満足のものとなっている場合があります。 よって、ここでは三聚浄戒を、拙い口説による非常に長く少々込み入った内容とはなりますが、その種々の典拠を示しつつ、仏教としてどのようなものであるかを示します。 では三聚浄戒とは何か。 それはまず『華厳経』に説かれる言葉です。 於諸佛所。 立深志樂。 常自安住三種淨戒。 亦令衆生如是安住。 諸々の仏陀のもとに深い大志を立て、常にみずから三種浄戒 〈三聚浄戒〉に安住しつつ、また衆生にも同じく安住させる。 実叉難陀訳『大方広仏華厳経』巻第廿七 十廻向品( T10. P149b) [現代語訳:沙門覺應] このように、『華厳経』にて菩薩は三種浄戒を守り従うべきであることが説かれています。 この三種浄戒とは、いわゆる三聚浄戒に相違ないものですが、ここでそれが何かは全く明らかにされていません。 『華厳経』において、三聚浄戒はいわばただ名目だけのものであり、何がどう三種であってその内容がそれぞれいかなるものかなどについてなど、全く説かれていないのです。 しかしそこで、『華厳経』十地品の同本異訳である『十地経』の世親菩薩によるとされる注釈書『十地経論』にて離垢地に関して解釈される中、三聚浄戒がいかなるものかが言及されています。 菩薩如是已證正位依出世間道因清淨戒説第二菩薩離垢地。 此清淨戒有二種淨。 一發起淨。 二自體淨。 《中略》 自體淨者有三種戒。 一離戒淨。 二攝善法戒淨。 三利益衆生戒淨。 離戒淨者謂 十善業道。 從離殺生乃至正見亦名受戒淨。 攝善法戒淨者。 於離戒淨爲上。 從菩薩作是思惟。 衆生墮諸惡道。 皆由十不善業道集因縁。 乃至是故我應等行十善業道。 一切種清淨故。 利益衆生戒淨者。 於攝善法戒爲上。 從菩薩復作是念。 我遠離十不善業道。 樂行法行乃至生尊心等 論じて曰く、菩薩がそのように已に正位 〈初地歓喜地〉を証したならば、出世間道に依り清浄戒に因って、第二の菩薩の離垢地を説く。 この清浄戒には二種の浄がある。 一つには発起浄、二には自体浄である。 《中略》 自体浄には三種の戒がある。 一つには離戒浄、二には摂善法戒浄、三には利益衆生戒浄である。 離戒浄とはすなわち十善業道である。 (『十地経』本文の)「殺生を離れ乃び正見に至る」までを受戒浄という。 摂善法戒浄とは、離戒浄より上位のものである。 (本文の)「菩薩はこのように思惟する、『衆生が諸々の悪道に堕すのは、すべて十不善業道を多く行じた因縁に由る。 乃至、その故に私はまさに等しく十善業道を行じるべきである。 一切種は清浄であるが故に。 』」とあるのがそれである。 利益衆生戒浄とは、摂善法戒より上位のものである。 (本文の)「菩薩はこのような想いをなす、『私は十不善業道を遠離し行法を願って行じ、乃至、尊心を生じる』」等とあるのがそれである。 菩提流支訳 世親『十地経論』離垢地第二 ( T10. P145b-c) [現代語訳:沙門覺應] ここでは離戒・摂善法戒・利益衆生戒として三聚浄戒が挙げられ、その重層的関係が明らかにされて、それぞれ十善業道を実現するものと云われています。 が、やはりその具体に踏み込んだものではありません。 そして、これはしかも特に十地の第二地である離垢地に至った菩薩について云われるものであって、一般に通用するものとは言い難いものです。 そこで、三聚浄戒についてその一般的概要を示す経典としては、『菩薩善戒経』(『善戒経』)の九巻本があります。 云何名菩薩摩訶薩戒。 戒者有九種。 一者自性戒。 二者一切戒。 三者難戒。 四者一切自戒。 五者善人戒。 六者一切行戒。 七者除戒。 八者自利利他戒九者寂靜戒。 《中略》 一切戒者。 在家出家所受持者名一切戒。 在家出家戒有三種。 一者戒。 二者受善法戒。 三者爲利衆生故行戒。 何を菩薩摩訶薩戒と云うであろう。 戒には九種がある。 一つには自性戒、二つには一切戒、三つには難戒 〈難行戒〉、四つには一切自戒 〈一切門戒〉、 五つには善人戒 〈善士戒〉、六つには一切行戒 〈一切種戒〉、七つには除戒 〈遂求戒〉、八つには自利利他戒 〈此世他世楽戒〉、九つには寂静戒 〈清浄戒〉である。 《中略》 一切戒とは、在家・出家が受持する戒を名づけて一切戒としたものである。 在家・出家の戒には三種がある。 一つには戒 〈律儀戒〉、二つには受善法戒 〈摂善法戒〉、三つには為利衆生故行戒 〈饒益有情戒〉である。 求那跋摩訳『菩薩善戒経』巻四 菩薩地戒品第十一( T30. P982b-c) [現代語訳:沙門覺應] 『善戒経』は、まず菩薩戒に九種の別があることを示して列挙。 別といっても、それはいわば九種の見方・範疇あるいは理念ということなのですが、そこで一切戒の名目を挙げています。 一切戒とは、在家出家の文字通り「すべての戒」であってそれに三種戒があると説いています。 そして、その三種とは具体的に、戒・受善法戒・為利衆生故行戒の三種であると云います。 が、これらも単に訳語の相違によるもので、一般的には玄奘による律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒という訳語が通用しています。 特に法相宗など瑜伽行唯識では根本典籍の一つとされています。 そこで『瑜伽論』では、その所説の戒がいかなるものかを以下のように明らかにしています。 復次如是所起諸事菩薩學處。 佛於彼彼素怛纜中隨機散説。 謂依律儀戒攝善法戒饒益有情戒。 今於此菩薩藏摩呾履迦綜集而説。 菩薩於中應起尊重住極恭敬專精修學。 また次に、以上の様に起てた諸々の菩薩の学処は、世尊が彼此の経に於いて様々な機会にて散説されたものである。 論〉において総集して説く。 菩薩は(この菩薩戒を)尊重して最も恭敬し、勤め励まなければならない。 玄奘訳 弥勒『瑜伽師地論』巻四十( T30. P521a) [現代語訳:沙門覺應] 印度では菩薩戒すなわち三聚浄戒といえば、いわゆる瑜伽戒のことでした。 そして、それを玄奘は直接当地にて受学し、その典拠たる『瑜伽論』と併せてその受戒法式も支那にもたらしています。 菩薩戒と言えば瑜伽戒であったのは、印度から直接仏教がもたらされた西蔵 [チベット]においても同様です。 ) では実際に、『善戒経』の一節と重複してさらに長くなりはますが、その戒品における該当箇所を示します。 云何菩薩戒波羅蜜多。 嗢拕南曰 自性一切難 一切門善士 一切種遂求 二世樂清淨 如是九種相 是名略説戒 謂九種相戒名爲菩薩戒波羅蜜多。 一自性戒。 二一切戒。 三難行戒。 四一切門戒。 五善士戒。 六一切種戒。 七遂求戒。 八此世他世樂戒。 九清淨戒 《中略》 云何菩薩一切戒。 謂菩薩戒略有二種。 一在家分戒。 二出家分戒是名一切戒 又即依此在家出家二分淨戒。 略説三種。 一律儀戒。 二攝善法戒。 三饒益有情戒 律儀戒者。 謂諸菩薩所受七衆別解脱律儀。 即是苾芻戒。 苾芻尼戒。 正學戒。 勤策男戒。 勤策女戒。 近事男戒。 近事女戒。 如是七種。 依止在家出家二分。 如應當知。 是名菩薩律儀戒 攝善法戒者。 謂諸菩薩受律儀戒後。 所有一切爲大菩提。 由身語意積集諸善。 總説名爲攝善法戒。 此復云何。 謂諸菩薩依戒住戒。 於聞於思於修止觀於樂獨處。 精勤修學。 如是時時於諸尊長。 精勤修習合掌起迎問訊禮拜恭敬之業。 即於尊長勤修敬事。 於疾病者悲愍殷重瞻侍供給。 於諸妙説施以善哉。 於有功徳補特伽羅。 眞誠讃美。 於十方界一切有情一切福業。 以勝意樂起淨信心發言隨喜。 於他所作一切違犯思擇安忍。 以身語意已作未作一切善根。 迴向無上正等菩提。 時時發起種種正願以一切種上妙供具供佛法僧。 於諸善品恒常勇猛精進修習。 於身語意住不放逸。 於諸學處正念正知正行。 防守密護根門。 於食知量。 初夜後夜常修覺悟。 親近善士依止善友。 於自愆犯審諦了知深見過失。 既審了知深見過已。 其未犯者專意護持。 其已犯者於佛菩薩同法者所。 至心發露如法悔除。 如是等類所有引攝護持。 増長諸善法戒。 是名菩薩攝善法戒 云何菩薩饒益有情戒。 當知此戒略有十一相。 何等十一。 謂諸菩薩於諸有情能引義利。 彼彼事業與作助伴。 於諸有情隨所生起疾病等苦。 贍侍病等亦作助伴。 又諸菩薩依世出世種種義利。 能爲有情説諸法要。 先方便説先如理説。 後令獲得彼彼義利。 又諸菩薩於先有恩諸有情所善守知恩。 隨其所應現前酬報。 又諸菩薩於墮種種師子虎狼鬼魅王賊水火等畏諸有情類。 皆能救護。 令離如是諸怖畏處。 又諸菩薩於諸喪失財寶親屬諸有情類。 善爲開解令離愁憂。 又諸菩薩於有匱乏資生衆具諸有情類。 施與一切資生衆具。 又諸菩薩隨順道理。 正與依止如法御衆。 又諸菩薩隨順世間。 事務言説。 呼召去來。 談論慶慰。 隨時往赴。 從他受取飮食等事。 以要言之。 遠離一切能引無義違意現行。 於所餘事心皆隨轉。 又諸菩薩若隱若露。 顯示所有眞實功徳。 令諸有情歡言進學。 又諸菩薩於有過者。 内懷親昵利益安樂増上意樂調伏訶責治罰驅擯。 爲欲令其出不善處安置善處。 又諸菩薩以神通力。 方便示現那落迦等諸趣等相。 令諸有情厭離不善。 方便引令入佛聖教歡喜信樂生希有心勤修正行。 無問自説〉に曰く。 自性と一切と難と、一切門と善士と、 一切種と遂求と、二世樂と清淨、 これらの九種の相を略して戒を説くと云う。 すなわち九種の相の戒を菩薩の戒波羅蜜多と云う。 一には自性戒、二には一切戒、三には難行戒、四には一切門戒、五には善士戒、六には一切種戒、七には遂求戒、八には此世他世楽戒、九には清浄戒である。 《中略》 何が菩薩の一切戒であろうか?菩薩戒には略して二種ある。 また、この在家と出家との二分の浄戒には、略説して三種がある。 優婆夷〉である。 以上の七種(がそれぞれ受持する戒律)は、在家・出家の二分の依止するものであると、まさにそのように知らなければならない。 これが菩薩の律儀戒である。 摂善法戒とは、(在家・出家の)諸菩薩が律儀戒を受けて後、一切のあらゆる大菩提を得るために行う身・語・意による諸々の善を積むことを、総じて摂善法戒という。 (具体的には)どのようなことであろうか。 2 時時に諸々の尊者 〈 guru〉に会ったならば合掌して起ち上がって出迎え、(体調や最近の動向を伺うなど)問訊して礼拝・恭敬することを努めて行うなど尊者に対して敬意をもって接すること。 もし(病や老いなどで)弱っていたならばいたわり、心を尽くして介護すること。 このような類の諸々の善法を獲得し、護持し、増長する戒が、菩薩の摂善法戒である。 何が十一の相であろうか。 徒衆〉を率いること。 その要は、まったく無意味で、(有情や世俗の)意志に反する行いをしてはならず、その他のことについても(有情の)心を喜ばせるようにすることである。 境遇〉の有り様を示現して、有情に不善を厭わせ離れさせ、方便して仏陀の聖教に教え導き、歓喜・信楽・希有の心を生じさせて、勤めて正行を修めさせること。 玄奘訳 弥勒『瑜伽師地論』巻四十 本地分中菩薩地第十五( T30, P511a-c) [現代語訳:沙門覺應] 今示した『瑜伽論』の一章である菩薩地には、それのみの部分訳であり同本異訳である『菩薩地持経』(『地持経』)があります。 これは玄奘によって『瑜伽論』が訳出されるおよそ二百年も以前、すでに曇無讖によって訳され、支那における菩薩戒の重要な典拠とされていました。 今伝わる梵本と、『地持経』ならびに『瑜伽論』とを比較した時には、前者がより簡潔で原書たる梵本に沿っており、後者には玄奘自身によるものか、より解りやすくした解説の如き挿入語句が相当あることが知られます。 そこで、ここでは『瑜伽論』を掲げましたが、その現代語訳に際しては梵本と『地持経』を適宜参照してその原語も示しています。 そして、摂善法戒とは、菩薩が阿羅漢果ではなく無上正等菩提をこそ得るための資糧を積集するためのものです。 その日常にて具体的に為すべきこととしては、上記のように種々に規定されています。 (現代語訳では新羅僧遁倫による『瑜伽論』の注釈書『瑜伽論記』の所説に従って摂善法戒の徳目を七種とし、またそれぞれ便宜的に番号を振っています。 ) 最後の饒益有情戒とは、他者を積極的に利益するためのものです。 『善戒経』・『瑜伽論』では具にはこれに十一種あるとして、以上のように現実的に他者に対して行うべきことが説かれています。 この『瑜伽論』の一節においては、律儀戒は七衆の別解脱律儀であるとその概要を示すのみですが、特に摂善法戒と饒益有情戒それぞれについて説かれているのはいわば理念です。 そして、その理念を表出したものとしての積極的に「なすべき事柄」、行動規範が説かれています。 すなわち、これらは一般的な戒の意である「なすべきでない事柄」、いわゆる禁則ではありません。 『瑜伽論』では、三聚浄戒における「なすべきでない事柄」の具体は別途説かれており、それが一般に地持戒もしくは瑜伽戒、あるいは四重四十三軽戒などと称されるものです。 しかしその理解をより確かなものとするためには、その典拠の所説を直に披覧することがどうしても必要なことであるため、敢えて更に印度の諸大徳の書典で三聚浄戒に言及したものをいくつか以下に示します。 大乗でも特に唯識の教理が体系的にまとめられ示されているものであることから、大乗の二大潮流の一つである瑜伽行唯識における根本典籍の一つとなっています。 もっとも、『摂論』は「そもそも大乗とは何か」「大乗と声聞乗との相違点は何か」を簡潔に示した概説書の如きものであることから、大乗のすぐれた入門書として、唯識の学徒に限らず読むべき必読書の一つです。 云何應知諸波羅蜜差別。 由各有三品知其差別。 《中略》 戒三品者。 一守護戒。 二攝善法戒。 三攝利衆生戒。 この諸々の波羅蜜多の相違をどの様に見るべきであろうか。 まさに知るべきである、(六波羅蜜多の)それぞれに三品あることを。 《中略》 戒の三品とは、一つには守護戒 〈律儀戒〉、二つには摂善法戒、三つには摂利衆生戒 〈饒益有情戒〉である。 真諦訳 無着『摂大乗論』巻中 入因果勝相第四( T31. P125b) [現代語訳:沙門覺應] 無着は六波羅蜜について明かす中、戒波羅蜜に律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種の別あることを言います。 しかし、その内容を明らかにはしていません。 そこでこの『摂論』の一節に対し、無着の実弟であった世親 〈 Vasubandhu〉は、その註釈書『摂大乗論釈』(『摂論釈』)にて以下のように広説しています。 戒三品者。 一守護戒。 二攝善法戒。 三攝利衆生戒 釋曰。 守護戒是餘二戒依止。 若人不離惡。 攝善利他則不得戒。 若人住守護戒。 能引攝善法戒。 爲佛法及菩提生起依止。 若住前二戒。 能引攝利衆生戒。 爲成熱衆生依止。 復次守護戒由離惡故。 無悔惱心。 能得現世安樂住。 由此安樂住故。 能修攝善法戒。 爲成熟佛法。 若人住前二戒。 能修攝利衆生戒。 爲成熟他。 此三品戒即四無畏因。 何以故。 初戒是斷徳。 第二戒是智徳。 第三戒是恩徳。 四無畏不出此三徳故。 言即四無畏因。 由具此義故説戒有三品 『摂大乗論』本文: 戒の三品とは、一つには守護戒 〈律儀戒〉、二つには摂善法戒、三つには摂利衆生戒 〈饒益有情戒〉である。 『摂大乗論』註釈: 守護戒とは、他の(摂善法戒と摂利衆生戒との)二戒の依止 [えじ] 〈拠り所〉である。 もし人が悪を離れることがなければ、善を行って他者を利することは出来ない。 もし人が守護戒に従って生活していたならば、よく摂善法戒を行い得て仏法および菩提を生起する依止となる。 そしてもし、(守護戒と摂善法戒との)最初の二つの戒に従って生活したならば、よく摂利衆生戒を行い得るようになって、衆生を教え導く依止となるであろう。 また次に、守護戒を持して悪を離れることに由り、(「以前悪を為した」と)後悔して悩むことがなくなり、現世において安楽に過ごすことが出来るであろう。 そのように安楽に過ごせることに由って、摂善法戒を行うことが出来るようになる。 仏法を成就するためである。 もし人が(守護戒と摂善法戒との)前の二戒に従って生活したならば、よく摂利衆生戒を行い得る。 他者を教え導くためである。 この三品の戒は、すなわち(仏陀の)四無畏の因である。 なんとなれば、初戒 〈守護戒〉は断徳である。 第二戒 〈摂善法戒〉は智徳である。 第三戒 〈摂利衆生戒〉は恩徳である。 四無畏はこれら(仏陀が具える)三徳に過ぎたものではないことから、四無畏の因と言う。 これらの意義を具えていることから、「戒に三品あり」と説かれるのだ。 真諦訳 世親菩薩『摂大乗論釈』巻第九 釈入因果勝相第四 ( T31, P218c-219s) [現代語訳:沙門覺應] ここで世親は、これは先に示した『十地経論』と同様、三聚浄戒それぞれの重層的・階層的関係を明らかにしています。 ところで、本章の小題において、三聚浄戒が重層的構造を持ったものであることから、これを「重楼戒」と表現しましたが、それは『菩薩善戒経』において出家・在家の律儀戒の重層的構造を「重楼四級 〈四階建ての楼閣〉」と喩えているのに基づき、支那の賢首大師法蔵がその著の中で「重楼戒経」と称しているのに準じたものです。 さて、そしてより具体的に「守護戒是餘二戒依止(守護戒は是れ餘の二戒の依止なり)」と、守護戒すなわち律儀戒こそ最も重要な基礎、拠り所であることを強調。 菩薩たる者は先ず律儀戒を受け、これを護持して初めて摂善法戒が実現可能となり、次いで摂善法戒を護持することによってようやく饒益有情戒が果たし得るとしています。 なお、律儀戒は三聚浄戒を受ける以前、別途にそれぞれの分際に応じた形で受けていなければならないとされます。 ただ三聚浄戒を受けただけでは、律儀戒は正しく成立しません。 さて、また三聚浄戒は四無畏の因としていますが、これは無上正等正覚の因であると換言して良いものです。 このような世親による理解は、実は『摂論』で後に以下のように説かれているのを根拠としたものです。 云何應知依戒學差別。 應知如於菩薩地正受菩薩戒品中説。 若略説由四種差別。 應知菩薩戒有差別。 何者爲四。 一品類差別。 二共不共學處差別。 三廣大差別。 四甚深差別。 品類差別者。 有三種。 一攝正護戒。 二攝善法戒。 三攝衆生利益戒。 此中攝正護戒應知是二戒依止。 攝善法戒是得佛法生起依止。 攝衆生利益戒是成熟衆生依止。 どのように戒学に依る差別を知るべきであろうか。 それには菩薩地正受菩薩戒品にて説いているままに知らなければならないが、それを略説したならば四種の差別に由る。 菩薩戒に差別のあることを知れ。 何をもって四種とするか。 一つには品類の差別、二つには共不共学処の差別、三つには広大の差別、四つには甚深の差別である。 品類の差別には三種がある。 一つには摂正護戒 〈摂律儀戒〉、二には摂善法戒、三つには摂衆生利益戒 〈饒益有情戒〉である。 この中、摂正護戒は二戒の依止であることを知らなければならない。 摂善法戒は仏法を生起することの依止であり、摂衆生利益戒は衆生を成熟する依止である。 真諦訳 無着『摂大乗論』巻下 依戒学勝相第六( T31. P126c) [現代語訳:沙門覺應] この一説について、また世親はさらに三聚浄戒の三種戒の具体に踏み込んで、それぞれどういったものかを以下のように詳説しています。 品類差別者有三種。 一攝正護戒 釋曰。 謂比丘比丘尼。 式叉摩尼沙彌沙彌尼。 優婆塞優婆夷。 此戒是在家出家二部七衆所持戒 論曰。 二攝善法戒 釋曰。 從受正護戒。 後爲得大菩提。 菩薩生長一切善法。 謂聞思修慧及身口意善。 乃至十波羅蜜 論曰。 三攝衆生利益戒 釋曰。 略説有四種。 謂隨衆生根性。 安立衆生於善道及三乘。 復有四種。 一拔濟四惡道。 二拔濟不信及疑惑。 三拔濟憎背正教。 四拔濟願樂下乘。 云何此三與二乘有差別。 二乘但有攝正護戒。 無餘二戒。 何以故。 二乘但求滅解脱障。 不求滅一切智障。 但求自度不求度他。 不能成熟佛法及成熟衆生。 是故無攝善法戒及攝衆生利益戒 論曰。 此中攝正護戒。 應知是二戒依止 釋曰。 若人不離惡。 能生善及能利益衆生。 無有是處。 故正護戒是餘二戒依止 論曰。 攝善法戒是得佛法生起依止。 攝衆生利益戒是成熟衆生依止 釋曰。 攝善法戒先攝聞思修三慧。 一切佛法皆從此生起。 何以故。 以一切佛法皆不捨智慧故。 攝衆生戒所謂四攝。 初攝令成自眷屬背惡向善。 第二攝未發心令發心。 第三攝已發心令成熟。 第四攝已成熟令解脱。 《中略》 此三種戒以何法爲體。 不起惱害他意。 生善身口意業爲體。 離取爲類。 此三種戒以何法爲用。 正護戒能令心安住。 攝善法戒能成熟佛法。 攝衆生戒能成熟衆生。 一切菩薩正事不出此三用。 由心得安住無有疲悔故。 能成熟佛法。 由成熟佛法故能成熟衆生 本文:(菩薩戒の)品類の差別には三種がある。 一つには摂正護戒 〈摂律儀戒〉 註釈:すなわち比丘・比丘尼・式叉摩尼 〈正学女〉・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷など、この戒は在家・出家の二部七衆が受持する所の戒である。 本文:二つには摂善法戒 註釈:正護戒 〈律儀戒〉を受けたことに依り、後に大菩提を得る為に菩薩は一切の善法を生長する。 すなわち聞思修の慧 〈三慧〉、及び身口意の善 〈十善業〉、乃至十波羅蜜である。 本文:三つには摂衆生利益戒 〈饒益有情戒〉 註釈:これに略説すれば四種がある。 すなわち衆生の根性 〈機根〉に従って衆生を善道 〈人道・天道〉および三乗 〈菩薩乗・独覚乗・声聞乗〉に導く。 また四種がある。 一つには四悪道 〈地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道〉から抜済する。 二つには不信及び疑惑から抜済する。 三つには正教 〈正法〉を憎み背くことから抜済する。 四つには下乗 〈独覚乗・声聞乗〉を願楽することから抜済する。 この三聚浄戒には二乗 〈独覚乗・声聞乗〉とどのような差別があるであろうか。 二乗にはただ摂正護戒があるのみであって、他の二戒は無い。 どのような理由から(二乗には他の二戒が無いの)であろうか。 二乗はただ解脱障 〈煩悩障〉を滅することのみを求めて一切の智障 〈所知障〉を滅することを求めず、ただ自度を求めて度他を求めず、仏法を成熟し及び衆生を成熟することは出来ない。 そのようなことから、摂善法戒及び摂衆生利益戒とが(二乗には)無いのである。 本文:この中で摂正護戒とは、まさに知るべきである、(摂善法戒と摂衆生利益戒との)二戒の依止であることを。 註釈:もし人が悪を離れることがなければ、よく善を生じ、またよく衆生を利益することは出来ない。 そのようなことから正護戒とは他の二戒の依止である。 本文:摂善法戒とは仏法を生起することの依止であって、摂衆生利益戒とは衆生を成熟することの依止である。 註釈:摂善法戒は、先ず聞・思・修の三慧を包括するもので、一切の仏法は皆これより生起する。 なんとなれば一切の仏法は皆、智慧を捨てることが無いためである。 摂衆生戒 〈饒益有情戒〉はいわゆる四摂である。 初めの摂は自らの眷属を成じて悪に背き善に向かわせるものである。 第二の摂は未だ発心していない者を発心させるものである。 第三の摂は已に発心しているものを成熟させるものである。 第四の摂は已に成熟している者を解脱させるものである。 《中略》 この三種戒 〈三聚浄戒〉は何れの法を体 〈本質〉とするのであろうか。 他の生命を悩ませ害する心を起こさず、善なる身口意の業 〈十善業〉を生じることを体とし、取 〈執着〉から離れることを類とする。 この三種戒は何れの法を用 〈作用〉とするのであろうか。 正護戒はよく心を安住させ 〈止悪・断徳〉、摂善法戒はよく仏法を成熟し 〈修善・智徳〉、摂衆生戒はよく衆生を成熟する 〈利他・恩徳〉。 一切の菩薩の正事 〈菩薩として為すべき行〉はこの三用 〈三徳〉を過ぎるものでない。 心が安住すれば疲悔 〈後悔・自己嫌悪〉すること無く、その故によく仏法を成熟する。 そして仏法を成熟しているからこそ、よく衆生を成熟することが出来るのである。 真諦訳 世親『摂大乗論釈』巻第十一( T31, P232b-c) [現代語訳:沙門覺應] 律儀戒が七衆の別解脱律儀であるとする点、これは当然のことながら『瑜伽論』に全く同じであって声聞乗と全く共有されるものです。 またそれが俗法や外道などとも共通するものでもあることから、それを共学処 [ぐうがくしょ]とも云います。 そして、これは『瑜伽論』にて無着が言及していない点ですが、摂善法戒とは聞思修の三慧・十善業・十波羅蜜を成就するものであり、饒益有情戒は四摂を達成するものであるとしています。 もっとも、この四摂とは、一般にいわれる布施・愛語・利行・同事の四摂法ではなく、衆生を化導する四つの段階を意味するものです。 先ず四悪趣へと繋がる悪しき行いから人を離れさせ、次に道徳・倫理に対する不信・疑惑を払拭し、そして仏法を忌み嫌うことを止めさせ、さらに仏法に信を託したならば声聞乗あるいは独覚乗を信楽することを防ぐ、という化導の段階を示したものが、ここにいわれる四摂です。 そして世親はまた『摂論』の所論を受け、律儀戒と摂善法戒と饒益有情戒とが階層的に次第して行じていかなければならないものであることを、その理由を含めてより詳しく述べています。 一般に、三聚浄戒について最も詳しいのは『瑜伽論』とされ、それはその通り事実です。 しかし、このようにして見たならば、『摂論』および『摂論釈』の所論も決して等閑視出来ない、非常に重要な詳細を明かしたものであることが知られるでしょう。 事実、その昔の支那及び日本では、『摂論』は菩薩戒についての重要な典拠としても扱われています。 摂律儀戒と律儀戒 ところで、上にいくつか印度の大論師によって著された論書にて三聚浄戒が示される中、第一戒の律儀戒について、「摂」を語頭に冠するものと冠しないものの二種あることに気づいた人があるかもしれません。 真諦訳では「摂正護戒」と摂が冠されているものと、冠していない守護戒との訳語が用いられている場合があるのに対し、玄奘訳では一貫して摂を冠せずただ律儀戒とされているのです。 ではそこで、摂を冠するものと冠していないものとでは何かしら違いがあるのか。 結論から言うと、それは単なる訳語の相違に過ぎません。 (もちろん厳密には、『摂論』の梵本にも基づき、真諦訳と比較してそう断定しなければなりませんが、残念ながらその梵本は散逸して伝わっていません。 ) 真諦訳ではそもそも訳語の統一が徹底されていないのですが、おそらく真諦三蔵は「律儀戒とは七衆の別解脱律儀」という論書の意を汲んで、摂の語を付したのでしょう。 なお、玄奘は摂律儀戒なる語は他の典籍を含めて一度も使っていません。 いずれにせよ、摂律儀戒と律儀戒とはただ訳の相違にすぎず、全く同じ語です。 何故ここでこのような些末と思えることを特記したかというと、これは原語から考えたならば直ちに破綻するものだったのですが、日本で摂律儀戒と律儀戒との語があることに注目し、それぞれ指示する範囲が異なる語であると見なして立論する人があったためです。 そのようなことから、これは今示した印度の諸典籍には全く該当しない話ですが、特に日本撰述の典籍においては、摂律儀戒とは七衆の律儀戒など全てを包摂したものであり、律儀戒とは七衆いずれかの立場個別の戒あるいは律を指示するものとして使用されている場合があることに注意する必要があります。 さて、もはや蛇足となるかもしれませんが、伝統的にも言及されてきたものであることから最後にもう一点、やや後代ながらやはり印度の論師が三聚浄戒について触れている述作を示します。 戒有三種。 謂律儀戒。 攝善法戒饒益有情戒。 《中略》 戒學有三。 一律儀戒。 謂正遠離所應離法。 二攝善法戒。 謂正修證應修證法。 三饒益有情戒。 謂正利樂一切有情。 此與二乘有共不共甚深廣大如餘處説。 戒には三種ある。 すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒である。 《中略》 戒学には三種ある。 一つは律儀戒、正しく離れるべき法 〈事物・行為・思想〉から遠離すること。 二つには摂善法戒、正しく修証すべき法を修証すること。 三には饒益有情戒、正しくすべての有情を利楽することである。 達磨波羅〉が注釈したものです。 玄奘は、その学徳の高さに深く帰依していた戒賢が師として仰いでいた、亡き護法の唯識教学を非常に重視して支那にもたらしていますが、その結果成立したのが法相宗です。 故に『唯識論』は法相宗における最も重要な論書の一つとなっています。 『唯識論』にて護法は、十波羅蜜の戒波羅蜜に三種あり、それがいわゆる三聚浄戒であるとしています。 しかし、これは先に示した世親の『摂論釈』の説を踏襲したものでしょうけれども、それぞれがいわゆる止悪・修善・利他を目的としたものであることを言うに留め、それ以上詳らかにしてはいません。 とはいえ、三聚浄戒それぞれがどのような類いのものであるかを、もっとも簡潔にあらわした一節となっています。 以上、三聚浄戒の根本的な典拠となる経典と印度における大乗の大論師らが著した主要な論書の該当箇所を、少々冗長とはなりましたが挙げました。 そこで、これまで示した諸典籍の中でも『瑜伽論』の所説を主としつつ他も要約し、総じて理解しやすいよう表にして示します。 三聚浄戒とは、大乗を奉じて自身を菩薩であると規定する者が受けるべき、菩薩が菩薩たる所以となるものであって、故に別個に受持することなど出来ないものです。 三聚浄戒のうち律儀戒は声聞乗と菩薩乗とで内容としては基本的に共有されるもので、大乗に特有であるのは摂善法戒と饒益有情戒です。 そして、摂善法戒と饒益有情戒とを「後二の戒」ともいうのですが、後二の戒が大乗に特有と言っても、それらはあくまで律儀戒あってこそのものであり、それに立脚して初めて有効とされます。 後二の戒の具体的内容は、『瑜伽論』ではいわゆる瑜伽戒として詳らかに説かれています。 瑜伽戒とは本来、摂善法戒と饒益有情戒における禁則を示したものです。 ただし、後二の戒だけではなく律儀戒の戒相に何を配当するかということについて、特に中世の日本にて問題となって議論され、種々の見解を生じています。 また、三聚浄戒はそれぞれ止悪・修善・利他を目的としたものであると言われます。 それらはそれぞれ別個に為すべき徳目などではなく、まず自らを制して身を修め、そして智慧を育んで善を行じ、そこで他者を利益・化導するという、それぞれ次第して修めてこそ実現し得る段階を示したものでもあります。 善人の用心は他を先とし己を後とす 一般に、大乗とは「他を先とし己を後とする」ものであるとされます。 そこで巷間、「他を先とするが故に大乗は優れているのだ」・「己のことはさて置いて、まず他者をこそ導かなければならない」などと放言する者があります。 常識的な意味でならば「善人の用心は他を先とし己を後とすること」、まったくその通りで、実際これを日常的に行う人は徳高き人でありましょう。 己を差し置いて、まず他者に様々な思いありある優しき行いをすること。 それはその人の奉ずる思想がなんであろうと、賞賛されるべきものです。 しかしもし、宗教的な意味で「己が救われるよりもまず、他者こそがまず救われなければならないし、私がこれを救うのだ。 それが大乗」などと思っていたならば、それは全く誤った認識というものです。 ところが、これは日本の古今通じてのことですが、出家・在家それぞれの分際で異なる戒や律いわゆる別解脱律儀を、声聞戒や小乗戒であると矮小化し、卑下した上で、「声聞戒と菩薩戒とは別物である」・「声聞戒は劣ったものであって大乗の徒はこれを行う必要が無い」等といった言を放つ者があります。 あるいは、菩薩の律儀戒とは純粋に大乗のものであるべきで、律儀には菩薩戒のいずれかを充てるべきであると主張する輩がある。 「大乗教を奉じていながら大乗戒のみでなく小乗律を兼受するのは不純で不徹底であり、思想的矛盾である」などといった調子の言を声高に振るう者が、最澄の昔以来、現代においてすら日本には存在し続けているのです。 ) それらは畢竟、一知半解も甚だしきもの、幼稚な妄想に過ぎません。 あたかもそれは、「柱も壁も無く、何の寄る辺もなしに空に屋根をのみ架けることが出来るし、屋根はそうあるべきだ」と主張するようなものです。 あるいは、「屋根は家の最も上にあるものであるから文字通り最上であり、最上の家を求めるならば、基礎も柱も屋根でなければならない」などという狂人の思考に違いありません。 けれども、そのような浅薄な誤解・曲解、現実から乖離した稚拙な妄想というべきものが、日本ではそのまま大乗への見方と信仰に持ち込まれ、ついに大乗は「観念のお遊戯」となってむしろ仏教でさえ無くなっていったのでしょう。 日本では巷間、僧職者や(最近はそうでも無くなってきたようですが)仏教学者であっても、印度以来の重要な諸仏典に以上のように明瞭に説かれているにも関わらず、この点を全く理解しておらず立論する者がほとんどのようです。 何故不言我當度衆生。 而言自得度已當度衆生。 自未得度不能度彼。 如人自沒淤泥。 何能拯拔餘人。 又如爲水所㵱不能濟溺。 是故説我度已當度彼。 如説 若人自度畏 能度歸依者 自未度疑悔 何能度所歸 若人自不善 不能令人善 若不自寂滅 安能令人寂 是故先自善寂而後化人。 又如法句偈説 若能自安身 在於善處者 然後安餘人 自同於所利 凡物皆先自利後能利人。 何以故。 如説 若自成己利 乃能利於彼 自捨欲利他 失利後憂悔 是故説自度已當度衆生。 問:どのような理由から「私は衆生を済度すべし」と言わず、むしろ「先ず自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と言うのであろうか。 答:自らを未だ済度出来ずに他者を済度することなど出来はしない。 譬えば人が自ら汚泥に没していたならば、他者を救い出すことなど出来ないようなものである。 あるいは(自ら)水に漂流していては溺れる者を救うことなど出来ないようなものである。 この故に「私自身を度して後、まさに他者を度すべし」と説くのである。 (偈頌に)説く如し。 もし人が自ら畏れより脱したならば、 帰依する者(の畏れ)を除くことが出来るであろう。 自ら未だ疑惑や後悔を除くことが出来ない者に、 どうして帰依者のそれを除くことが出来るであろうか。 もし人が自ら善で無いのならば、 他者をして善ならしめることなど出来はしない。 もし自ら寂滅に至っていなければ、 どうして他者を寂滅に至らしめることなど出来ようか。 このようなことから、先ず自ら善く寂滅に至って後、他者を化導する。 これはまた『法句偈』にかく説かれている通りである。 もしよく自らその身を安じて 善処に至ったならば、 そうして初めて他者を安じ得る。 自ら利するところも同様である。 およそ物事は全て、先ず自らを利して後に人を利することが出来る。 どのような理由からそう云うのであろうか。 (偈頌に)説くが如し。 もし自ら己が利を成就してこそ、 他を利することが出来る。 自らを捨てて他を利そうとすれば、 (いずれの)利も失って後に悔いるであろう。 このようなことから、「自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と説くのである。 鳩摩羅什訳 龍樹『十住毘婆沙論』 T26, P24b [現代語訳:沙門覺應] 日常生活での心がけとしては「他を先とし己を後とする」としつつも、しかし仏道においてはまず自分を度してのち他に向かう、というのが道理というものです。 そしてその道理は三聚浄戒にもまったく同様に通じます。 繰り返しの言となりますが、三聚浄戒すなわち菩薩戒とは、いわゆる声聞戒をその基礎・根本として内包した重層的・階層的なものです。 それは譬えば家の基礎が確たるものでなければ柱は立たず、柱が立たなければ屋根も有り得ないように、それぞれ次第して踏み行わなければならないものです。 これは三聚浄戒についての理解で極めて重要な点で、しかしながら日本では古来往々にして誤解されてきたのですが、三聚浄戒の他に菩薩戒などありません。 三聚浄戒とは菩薩戒の総体です。 もし、三聚浄戒の他に菩薩戒なるものを別途説く者があったとしたならば、その輩は何もわかぬ蒙昧の徒であると断じて間違いありません。 『菩薩地持経』や『瑜伽論』所説の四重四十三軽戒(地持戒・瑜伽戒)、『梵網経』ならびに『菩薩瓔珞本業経』所説の十重禁、さらには『大方等陀羅尼経』所説の二十四重戒など、およそ支那および日本で菩薩戒といわれるものは、あくまで三聚浄戒の一環に過ぎず、その範疇外にあるものではないのです。 理解 『菩薩瓔珞本業経』 これまでは特に印度以来の三聚浄戒について説く経論のいくつかを示しましたが、以下は支那および日本で三聚浄戒の典拠の一つとして、上に示した典籍に加えて重用された経論をいくつか示します。 というのも、支那では印度の諸論書に全く見られないものの、しかし支那ひいては日本でのみ非常に重要視された菩薩戒経ともいわれる大乗経典があり、故に印度以来のそれと支那以来のそれとはひとまず切り分けて考える必要があるためです。 実際、そのようにした方が菩薩戒についてより理解しやすくなるでしょう。 まず支那における三聚浄戒理解とは、その根本は先に挙げた『善戒経』・『地持経』・『瑜伽論』および『摂論』に全く基づいたものです。 しかしある時点から、支那においてのみ知られ用いられた経典に基づいた支那独自の理解が加上されるようになり、通用していくことになります。 しかもそれは、印度以来の、そして支那でも従来理解されてきたものと、場合によっては重大な齟齬や矛盾を来たすものでした。 そのようなことから、支那の諸論師はその矛盾を解消しようと様々な解釈を加えていくことになります。 『本業経』とは、菩薩の階梯たる十住・十行・十廻向・十地・無垢地・妙覚地の四十二賢聖法を主題とし、菩薩の為すべき行として十波羅蜜を説く経典です。 また十住以前に十信があるとして、いわゆる菩薩の五十二地にも言及したものです。 『本業経』には、隋代の開皇十七年 〈 597〉に費長房 [ひちょうぼう]によって上梓されたいわば支那の訳経史書でその後の経録の範となった『歴代三宝記』(『長房録』)によれば、その当時は竺仏念 [じくぶつねん]により晋の孝武帝の治世 〈 372-396〉に翻訳されたものと、智厳により文帝元嘉四年 〈 427〉に訳されたものとの二本あったといいます。 しかしながら、『長房録』に先行すること三年ながら、ほぼ同時代の開皇十四年 〈 594〉に著されていた、法経等による『衆経目録』(『法経録』)では智厳訳の言及がなく、ただ前秦の竺仏念訳本のみが記載されています。 そして、これについて後代の諸経録は『法経録』の説を継いで竺仏念訳のみを挙げています。 実際、今伝わるのは竺仏念の訳とされる本のみです。 『本業経』は、『梵網経』のようにその最初から偽経の嫌疑が掛けられていた経でも、支那的口記に満ち溢れたものでもありません。 ところが、『梵網経』同様、まず印度の諸論書にて全く言及されたことが無く、その内容として近似する説も一切見られないという類の経典です。 特に菩薩戒については、常軌を逸しているとすら言い得る過激な文言が散見されるものです。 (そのようなことから、現代では文献学者らによって『本業経』も偽経であるとほぼ断定されています。 が、ここではそれを問題としません。 ) また、竺仏念が四世紀後半に訳したものとしたとしても、しかし六世紀後半に天台大師智顗 [ちぎ]〈 538-598〉がこの経に着目して言及するまで、支那の誰もこれに言及・依行した形跡が無いものです。 『梵網経』に同じく、智顗がこれに着目し重用したことによって、むしろ俄に注目されるようになったと思われる経です。 では実際に『本業経』にて三聚浄戒について言及している箇所を示します。 十般若波羅蜜者。 從行施有三縁。 三施衆生無畏。 戒有三縁。 一自性戒。 二受善法戒。 三利益衆生戒。 《中略》 佛子。 若一切衆生初入三寶海以信爲本。 住在佛家以戒爲本。 始行菩薩若信男若信女中。 諸根不具黄門婬男婬女奴婢變化人受得戒。 皆有心向故。 初發心出家欲紹菩薩位者。 當先受正法戒。 戒者是一切行功徳藏根本。 正向佛果道一切行本。 是戒能除一切大惡。 所謂七見六著。 正法明鏡。 今爲諸菩薩結一切戒根本。 所謂三受門。 攝善法戒。 所謂八萬四千法門。 攝衆生戒。 所謂慈悲喜捨化及一切衆生皆得安樂。 攝律儀戒。 所謂十波羅夷 《中略》 佛子。 先當爲聽法者與授菩薩法戒。 然後爲説菩薩之本行六入法門。 次第爲授四歸法。 歸佛歸法歸僧歸戒。 得四不壞信心故。 然後爲授十戒。 不殺不盜不妄語不婬不沽酒不説在家出家菩薩罪過不慳不瞋不自讃毀他不謗三寶。 是十波羅夷不可悔法。 仏子よ、十般若波羅蜜とは、まず施を行ずるには三縁がある。 一つには財、二つには法、三つには衆生に無畏を施すことである。 戒には三縁がある。 一つには自性戒、二つには受善法戒、三つには利益衆生戒である。 〈以上、因果品第六〉 《中略》 仏子よ、あらゆる衆生で初めて三宝の海に入ろうとする者はまず信をもって本とし、仏家に在住するには戒をもって本としなければならない。 仏子よ、始行の菩薩 〈初発心の菩薩〉の信士 〈優婆塞〉あるいは信女 〈優婆夷〉で、たとい諸根不具 〈身体に欠損ある者〉・黄門 〈性的不具者〉・婬男・婬女・奴婢・変化人 〈人に化けている神霊〉であったとしても戒を得ることが出来る。 その皆が(菩提)心あって(菩提を得るために)向かう者であるから。 初発心して出家菩薩たらんとする者は、先ず正法戒を受けなければならない。 戒とは一切行功徳蔵の根本であり、正しく仏果の道を歩む一切行の本である。 この戒はよく一切の大悪いわゆる七見六著を除く、正法という明鏡である。 仏子よ、今こそ諸々の菩薩らの為に、一切戒の根本を制定する。 いわゆる三受門である。 摂善法戒とは八万四千の法門、摂衆生戒は慈悲喜捨(の四無量心)である。 その化を一切衆生に及ぼし、皆に安楽を得せしめる。 摂律儀戒は十波羅夷である。 〈以上、大衆受学品第七〉 《中略》 仏子よ、まず法を聴く者の為に菩薩法戒を授与し、そうした後に菩薩の本行たる六入法門を説け。 仏子よ、次第して四帰依の法を授けよ。 帰依仏・帰依法・帰依僧・帰依戒である。 四不壊信 〈四不壊浄〉の心を得させるため、その後に十戒を授けよ。 〈以上、集散品第八〉 竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』巻下( T24. P1019b, P1020b-c, P1022c) [現代語訳:沙門覺應] この『本業経』にてもいわゆる三聚浄戒が説かれていますが、その内容が『善戒経』や印度撰述の諸論書におけるそれとかなり異なっています。 摂善法戒を八万四千の法門、また饒益有情戒を四無量心であると抽象的にしながら、しかし律儀戒を七衆別解脱律儀とせず、またそれに言及もせずして十波羅夷であると断定する点です。 そしてその十波羅夷とは、梵網戒の十重禁戒にまったく同内容のものです。 『本業経』が三聚浄戒の一環として十重八万威儀戒を説くのに対し、『梵網経』では十重四十八軽戒を説きますが三聚浄戒については全く言及がありません。 その故に本稿で『梵網経』を示していないのですが、十波羅夷(十重)が『本業経』と『梵網経』とで全く同一であることから、支那および日本では、『梵網経』は三聚浄戒を含意して説くものであると伝統的に理解されています。 そして、その十重は文字通り律儀戒にも該当するものと理解された場合がありますが、このあたりは声聞の律儀戒との兼ね合いから少々複雑でしばしば議論の元となり、説の分かれるところです。 ところで、『本業経』には、菩薩戒を受けること自体についても非常に特異と言える説がいくつか示されています。 受十無盡戒已。 其受者過度四魔越三界苦。 從生至生不失此戒。 常隨行人乃至成佛。 若過去未來現在一切衆生。 不受是菩薩戒者。 不名有情識者。 畜生無異。 不名爲人。 常離三寶海。 非菩薩非男非女非鬼非人。 名爲畜生名爲邪見。 名爲外道不近人情。 故知菩薩戒有受法而無捨法。 有犯不失盡未來際。 若有人欲來受者。 菩薩法師先爲解説讀誦。 使其人心開意解生樂著心。 然後爲受。 又復法師能於一切國土中。 教化一人出家受菩薩戒者。 是法師其福勝造八萬四千塔。 況復二人三人乃至百千。 福果不可稱量其師者。 夫婦六親得互爲師授。 其受戒者。 入諸佛界菩薩數中。 超過三劫生死之苦。 是故應受。 有而犯者勝無不犯。 有犯名菩薩。 無犯名外道。 以是故。 有受一分戒名一分菩薩。 乃至二分三分四分。 十分名具足受戒。 是故菩薩十重八萬威儀戒。 十重有犯無悔。 得使重受戒。 八萬威儀戒盡名輕。 有犯得使悔過對首悔滅。 一切菩薩凡聖戒盡心爲體是故心亦盡戒亦盡。 心無盡故戒亦無盡六道衆生受得戒。 但解語得戒不失。 仏子よ、十無尽戒を受け終ったならば、その受者は四魔を過度し、三界の苦を越え、生生世世にこの戒を失うことはない。 (戒は)常に行者に随ってついに成仏に至る。 仏子よ、もし過去・未来・現在の一切衆生で、この菩薩戒を受けない者など知性ある者と言えない。 それは畜生に同じであって、人とは言えない。 常に三宝という海から離れ、菩薩でもなく、男でもなく、女でもなく、鬼 〈死霊・餓鬼〉や神でもない、畜生である。 そのような者を邪見と云い、外道という。 人情には程遠いものである。 このようなことから知られるであろう、菩薩戒には受法は有っても捨法は無い。 (いかなる罪を)犯すことがあったとしても(戒を)失なうことはなく、未来際を尽くす。 もし人が来たって(菩薩戒を)受けようとしたならば、菩薩法師は先ず、彼の為に(菩薩戒について)解説し読誦し、その人の心を開かせ、意を解かせて楽著の心を起こさせ、そうして後に受けさせよ。 また、法師がいかなる国においてであろうとも、一人の出家者でも教化し、菩薩戒を授けたならば、この法師の功徳は八万四千の仏塔を建てることに勝るであろう。 ましてやその受者が二人・三人および百千人となれば、その功徳は計り知れないものとなる。 その戒師には、夫婦や六親眷属が互いに師となり受者となるも可である。 その受者は、諸々の仏界・菩薩衆の中に入り、三劫に渡って生死流転する苦を超過する。 そのようなことから(この菩薩戒を)受けるべきである。 受けていながら戒を犯す者は、受けてもおらず戒(の制する行為)を犯しもしない者に勝る。 戒を犯す者を菩薩といい、犯さないけれども戒を受けていない者を外道という。 戒を犯す者を菩薩といい、犯さない(けれども戒を受けていない)者を外道という。 このようなことから、一分の戒を受ける者を一分の菩薩と名づけ、乃至二分・三分・四分、十分(の戒を受ける者を)具足受戒と名づける。 このようなことから、菩薩には十重八万威儀戒がある。 十重を犯したならば懴悔することは出来ない。 しかしながら再び受戒することが出来る。 八万威儀戒はすべて軽戒と名づける。 もし犯したならば対首によって悔過して悔滅することが出来る。 一切の菩薩の凡・聖の戒は、全て心を体とする。 この故に心が尽きたならば戒もまた尽きる。 しかし心は尽きるものでないから、戒もまた尽きることはない。 六道の(あらゆる)衆生は戒を受けることが出来る。 それにはただ、(戒の内容と授受についての)言葉を解することが出来るならば、戒を得て失うことはないのだ。 竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』卷下 大衆受学品第七( T24. P1021b) [現代語訳:沙門覺應] この大衆受学品における菩薩戒についての所説は、菩薩戒を一度受けたならばその戒体を失うことが無いこと、またもし重戒を犯したならば懴悔は出来ないものの再受戒が出来ること、そして授戒に際して先ずその内容を充分に言い聞かせなければならないとすることなど、いくつかの点では『瑜伽論』等のそれと同様です。 しかしながら、就中、「不受是菩薩戒者。 不名有情識者。 畜生無異。 不名爲人(この菩薩戒を受けない者など知性ある者と言えない。 それは畜生に同じであって、人とは言えない)」などと言い、さらに「有而犯者勝無不犯。 有犯名菩薩。 無犯名外道(受けていながら戒を犯す者は、受けてもおらず、戒の制する行為を犯しもしない者に勝る。 戒を犯す者を菩薩といい、犯さないけれども戒を受けていない者を外道という)」などと言うのは、まさに尋常でなく、あまりにも極端な、正気の沙汰とは思えぬ言葉です。 むしろそのような刺激的な文言であったからでしょうけれども、支那の智顗や法蔵などはこの一節を憑拠として菩薩戒の優れたる由縁としています。 彼らにとって、これは紛う方なき金口説法の大乗経典であって、このような所説を異常などとは決して思わず、悪しき意味で捉えることは無かったからでしょう。 また、他に特異と言える点としては、戒の「分受」を許しているところです。 分受とは、ここでは特に十無尽戒について云われるものですが、数ある戒条のうち自身が護持しえるものをのみ選んで、文字通り「戒を分けて受ける」ことを意味します。 もっとも、同様に分受を許す経典には『優婆塞戒経』があります。 これは文字通り優婆塞すなわち在家信者には、その戒である五戒を分受することを許したものです。 いずれにせよ、戒の原意やその意義からすると、戒を分受しても良いすることは非常におかしな、理に叶わないものと思えることで、極めて特殊な説だと言わざるを得ません。 第一、「戒を受けていない者は人非人であって畜生に同じ」などと言っておきながら、「分受を許す」とは一体どうしたことでしょうか。 守らなくともその戒を受けていること自体が重要としながら、分受しても良いとすることは、整合性がまるで取れない。 これら種々の不審で不合理な説がその所説の戒について見られることから、現代の学者らが『本業経』を偽経であると断ずるのも無理からぬものです。 余談となりますが、日本ではその昔、天皇や貴族などがこの一節を根拠に菩薩戒を分受していたようです。 彼らは特に婬戒・邪淫戒を端から守ることが出来ないと考え、ならば最初からその戒条は除外して受けないでおこうと、ある意味で真面目に考えたためであったのでしょう。 さて、先に述べたように特に智顗がその著の彼此に引用するなど重用して以来、支那の諸師及び日本では『本業経』は非常に重要視され、三聚浄戒の本拠の一つとして必ず挙げられるものとなっています。 例えば、今ここで日本の学僧の見解を示すのは不適切かもしれませんが、鎌倉後期の凝然 [ぎょうねん]は以下のように述べています。 諸教三聚同異云何 答。 修多羅義根本所説。 要略明相在本業經。 阿毘達磨廣釋分別。 體相窮究在瑜伽論。 兩本善戒如來自説。 彌勒詫此説瑜伽論。 故瑜伽論全同善戒。 攝論唯識全同瑜伽。 問:諸教における三聚浄戒の同異はどのようであろうか。 経典〉の義が根本の所説である。 要略してその内容を明らかにしているのは『菩薩瓔珞本業経』である。 (大乗の)阿毘達磨では広くこれについての注釈・解説が行われているが、その本質にまで迫って突き詰めているのは『瑜伽師地論』である。 (一巻本と九巻本の)両本の『菩薩善戒経』は如来自ら説かれたものであるが、彌勒菩薩がこれに事寄せて説かれたのが『瑜伽師地論』であった。 そのようなことから『瑜伽師地論』は全く『菩薩善戒経』に同じである。 また『摂大乗論』と『成唯識論』(における三聚浄戒に関する所論)は全く『瑜伽師地論』に同じである。 凝然『律宗綱要』巻上( T74. P7b) [現代語訳:沙門覺應] 現代の文献学からの見方がどのようなものであるにせよ、支那及び日本の仏教としての伝統的見方として、ここで凝念が概説しているのが、ほぼ通じて認められたものとなっています。 …偽経? 『占察善悪業報経』 三聚浄戒が語られる時、特に日本では必ずと言っていいほど言及され、その典拠の一つとされてきた経典として、『占察善悪業報経』(『占察経』)があります。 しかしながら、この経は偽経の疑い極めて濃厚なものです。 と云うのも、まず出処が不明であり、さらになんと言ってもその内容があまりにも怪しく、故に支那古来の数々の経録にても信用ならないものとされていたためです。 たとえば、『長房録』にはかく伝えられています。 占察經二卷 右一部二卷。 檢群録無目。 而經首題云。 菩提登在外國譯。 似近代出妄注。 《中略》 勅不信占察經道理。 令内史侍郎李元操共郭誼就寶昌寺問諸大徳法經等。 占察經目録無名及譯處。 塔懺法與衆經復異。 不可依行。 諸如此者不須流行 『占察経』二卷 右一部二卷。 諸々の経録を調べてもその名目が無い。 しかし経の首題には「菩提登が外国にて訳したもの」とある。 おそらくは近代、妄りに書き記されたものであろう。 《中略》 (開皇十三年 〈 593〉、隨の文帝楊堅は、民間で『占察経』に基づいた妖しげな卜占と肉体的自虐的懴悔行がなされていることを知り、) 「『占察経』の所説を信じてはならない。 」 と勅した。 また内史侍郎の李元操と司馬郭誼とを宝昌寺に遣わして、法経などの諸大徳に(『占察経』の所説について)質問させた。 すると、 「『占察経』は目録にその名も訳処も無く、その塔懺法は諸々の経典と異なっており、依行すべきではない。 」 との答えであった。 (これを受け、文帝はさらに、) 「このような経典を流行させてはならない。 」 と勅命するに至った。 費長房『歴代三宝記』巻十二( T17, P904c) [現代語訳:沙門覺應] このように、費長房は隋の文帝がこの経への信奉と流通をすら禁じたと伝えています。 そしてこの話を裏付けるように、『法経録』ではこれを「衆経疑惑」すなわち偽経の疑いあるものの内に入れています。 また、やや後に著された彦琮 [げんそう]の『衆経目録』(『彦琮録』)でもこれを「名雖似正義渉人造(正法に似せて人が捏造したもの)」とする「五分疑偽」の内に入れ、『長房録』および『法経録』同様に見ています。 そして、唐代の南山大師道宣により麟徳元年 〈 664〉に編纂なった経録『大唐内典録』においても、やはり『占察経』は偽経として扱われています。 占察經兩卷 上卷一百八十事卜占 《中略》 右諸僞經論。 人間經藏往往有之。 其本尚多。 待見更録 『占察経』二卷 上卷には一百八十事の卜占が記されている 《中略》 右の諸々の偽経論は人間 〈俗世間〉の経蔵に往往にして収録されている。 その(疑いある)本はなお多くあり、更に疑偽経論録に載録されることを俟つ。 道宣『大唐内典録』巻十 歴代所出疑偽経論録第八( T55, P335c-336a) [現代語訳:沙門覺應] 道宣は、『占察経』を世俗で流通している、いわば民間信仰で用いられている経典の一つとしています。 これは道宣が『占察経』の所説に依る筈のないことを示し、引いては南山律宗の教学に『占察経』を持ち込む余地など無いことを意味したものと、十分に解し得る記述でありましょう。 (と云うのも、後代、特に日本の律宗においてこの『占察経』を根拠として、印度でも支那でも在り得なかった主張がなされ、またその主張に基づいた諸活動が展開されるためです。 そのような点で、決して好い意味でではないのですが、『占察経』は重要です。 ) ところが、武則天の治世 〈 690-705〉に明佺 [みょうせん]等によって編纂された『大周刊定衆経目録』(『武周録』)では、何故か武則天の勅命により『占察経』は真経(正経)として扱われ出しています。 それを受けて智昇は、開元十八年 〈 730〉頃に編輯した『開元釋教録』(『開元録』)にて、『占察経』に関して以下のように述べています。 占察善惡業報經二卷 云出六根聚經亦云大乘實義經亦名地藏菩薩經亦直云占察經 右一部二卷其本見在沙門菩提登。 外國人也。 不知何代譯占察經一部。 《中略》 今謂不然。 豈得以己管窺而不許有博見之士耶。 法門八萬理乃多途。 自非金口所宣何得顯斯奧旨。 大唐天后天册萬歳元年。 勅東都佛授記寺沙門明佺等。 刋定一切經録以編入正經訖。 後諸覽者幸無惑焉 占察善悪業報経二巻 『出六根聚経』・『大乗実義経』・『地蔵菩薩経』とも云い、また直に『占察経』と云う。 右一部二巻のその本を見るに沙門菩提登 〈菩提燈〉訳とある。 外国人である。 いずれの時代に占察経一部を訳したか不明。 《中略》 (『長房録』が伝えていることは)今から言えば正しくない。 一体どうして管窺 〈管見〉を以てして博見の士あることを許さないことなど出来ようか。 法門には八万の理あって多様である。 自ら金口 〈仏陀自身の言葉〉によって説かれたものでなければ、誰がこのような奥旨を顕すことが出来ようか。 大唐武則天の天冊万歳元年 〈 695〉、東都仏授記寺の沙門明佺らに勅して、一切経録を刊行し(『占察経』を)以って正経として編入した。 これによって後世の諸閲覧者は幸いにも(『占察経』を偽経であるなどと)惑うことが無いであろう。 智昇『開元釋教録』巻七( T55, P551a) [現代語訳:沙門覺應] 以上の一節で中略したのは、『長房録』にある『占察経』の項を丸ごと引用した箇所で、これを智昇は何故か「今謂不然(今から言えば正しくない)」などと全く否定し、逆に「金口所宣(仏陀が自ら説かれたもの)」であると断定しています。 彼は『占察経』の所説に疑問を持たなかったどころか、むしろ「奧旨」であると見ているのです。 『開元録』は一般に、最も信頼され依用される経録です。 しかしここでは、『占察経』の取り扱いに関して武則天の干渉があって、また智昇もそれをそのまま是認したことが伺えるものとなっています。 支那における経録編集も訳経も、まさしく国家事業として行われたものであったため、帝の意向に逆らうことなどあり得なかったのでしょう。 いずれにせよこれ以降、『占察経』は「経録の上では」真経とされるようになっています。 さて、『占察経』が偽経の疑い濃厚と見られたのは、所説の懴法や妖しげな卜占によるものであって、戒に関してではありません。 しかし、『占察経』では懴法と卜占と受戒とが密接に関連して説かれており、それは結局戒に関する所説への疑いに連なるものです。 ここでは『占察経』の全てを示すことは出来ないため、ただ三聚浄戒に関する一節をのみ、その前後を含めて示します。 復次未來之世。 若在家若出家諸衆生等。 欲求受清淨妙戒。 而先已作増上重罪不得受者。 亦當如上修懺悔法。 令其至心得身口意善相已。 即應可受。 若彼衆生欲習摩訶衍道。 求受菩薩根本重戒。 及願總受在家出家一切禁戒。 所謂攝律儀戒。 攝善法戒。 攝化衆生戒。 而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。 應當至心於道場内恭敬供養。 仰告十方諸佛菩薩請爲師證。 一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。 次當總擧三種戒聚自誓而受。 此亦得戒。 復次未來世諸衆生等。 欲求出家及已出家。 若不能得善好戒師及清淨僧衆。 其心疑惑不得如法受於禁戒者。 但能學發無上道心。 亦令身口意得清淨已。 其未出家者。 應當剃髮被服法衣如上立願。 自誓而受菩薩律儀三種戒聚。 則名具獲波羅提木叉。 出家之戒名爲比丘比丘尼。 即應推求聲聞律藏。 及菩薩所習摩徳勒伽藏。 受持讀誦觀察修行。 若雖出家而其年未滿二十者。 應當先誓願受十根本戒。 及受沙彌沙彌尼所有別戒。 既受戒已亦名沙彌沙彌尼。 即應親近供養給侍先舊出家學大乘心具受戒者。 求爲依止之師。 請問教戒修行威儀。 如沙彌沙彌尼法。 若不能値如是之人。 唯當親近菩薩所修摩徳勒伽藏。 讀誦思惟觀察修行。 慇懃供養佛法僧寶。 若沙彌尼年已十八者。 亦當自誓受毘尼藏中式叉摩那六戒之法。 及遍學比丘尼一切戒聚。 其年若滿二十時。 乃可如上總受菩薩三種戒聚。 然後得名比丘尼。 若彼衆生雖學懺悔。 不能至心不獲善相者。 設作受相不名得戒 また次に、(仏滅後の)未来世において、あるいは在家あるいは出家の諸々の衆生で、清浄なる妙戒を受けようと求めるも、以前に甚だ重い罪過を犯したことがあるために戒を受けることが出来ない者は、まず既に述べたような懺悔 [さんげ]の法を修めなければならない。 そして至心に身・口・意の善相 〈卜占による吉相〉を得たならば、ようやくその後に(戒を)受けるべきである。 もしその衆生が摩訶衍道 〈大乗道〉を修行することを欲し、菩薩の根本重戒を受けることを求め、および在家・出家の一切の禁戒、いわゆる摂律儀戒・摂善法戒・摂化衆生戒 〈饒益有情戒〉を総じて受けることを願ったとしても、善好なる戒師で菩薩法蔵 〈菩薩蔵〉を詳かに理解している先達を見出すことが出来なければ、至心に道場において(仏・菩薩像を)恭敬・供養し、十方の諸仏・諸菩薩を仰いで授戒の戒師となることと、その証明を請わなければならない。 そして一心に誓願を立て、その戒相を列挙する。 先ず十根本重戒を説き、次に三種戒聚 〈三聚浄戒〉を総じて挙げて、(それを護持することを)自ら誓って受けるのである。 このようにしても戒を得ることが出来る。 また次に、未来世の諸々の衆生が、出家することを求めあるいは既に出家していたとして、もし善好の戒師および清浄なる僧衆に会うことが出来ず、その心が疑いに惑って如法に禁戒を受けることが出来ない者は、ただよく発無上道心を学び、また身口意をして清浄ならしめよ。 そして未だ出家していない者ならば、剃髮して法衣を被着し、すでに述べたように誓願を立てて、自ら誓って菩薩律儀である三種戒聚を受けよ。 さすれば具さに波羅提木叉 〈戒本〉たる出家の戒を獲得して比丘・比丘尼となる。 そしてまさに声聞の律蔵および菩薩が習学する摩徳勒伽蔵 〈論蔵〉を探求して受持し、読誦・観察して修行せよ。 もし出家せんとしてもその齢が未だ二十に満たない者は、先ず誓願して十根本戒を受け、さらに沙弥・沙弥尼の別戒 〈十戒〉を受けよ。 そのように受戒したならば、沙弥・沙弥尼となる。 そして、先に既に出家し大乗心を学び具さに戒を受けている者に親近し供養し給侍して、依頼して依止の師とせよ。 教えと戒とについて質問し、沙弥・沙弥尼に定められた法の如くにその威儀を修めよ。 もし如是の人 〈大乗戒の先達〉に出会うことが出来なければ、ただ菩薩が修学する摩徳勒伽蔵に親近し、読誦・思惟・観察して修行せよ。 そして慇懃に仏法僧の三宝を供養せよ。 もし沙弥尼でその齢が十八以上の者であれば、自ら誓って毘尼蔵 〈律蔵〉の中の式叉摩那 〈正学女〉の六戒法を受け、及び遍く比丘尼の一切戒聚を学べ。 その齢が二十に満ちたならば、そこで前述の通りに菩薩の三種戒聚を総受せよ。 さすれば比丘尼と名乗ることが出来る。 もしその衆生が懺悔を行じたとしても至心に行わず、善相を得ることが出来なければ、たとい受相を作したとしても得戒とはならない。 《伝》菩提燈訳『占察善悪業報経』巻上( T17, P904c) [現代語訳:沙門覺應] このように、『占察経』にも大乗を奉ずる者が受けるべきものとして三聚浄戒が挙げられています。 しかし、『占察経』は三聚浄戒の具体的内容を明らかにしていません。 また三聚浄戒に併せて「菩薩根本重戒」あるいは「十根本重戒」なるものの名目を挙げていますが、それが一体どのような内容のものかの言及が全く無い。 さらに言えば、沙弥が本来の十戒を受ける前に受けるべきものとして、「十根本戒」なる名目も挙げていますが、これもその内容が一切知られぬものです。 よって「十根本重戒」と「十根本戒」とは同じものか別なものかも判然としません。 そして、三聚浄戒と十根本戒とは別なものであるようです。 あるいは、『占察経』では「當刻木爲十輪。 依此十輪書記十善之名。 一善主在一輪。 於一面記(木を刻んで十輪とし、この十輪に十善の名を書け。 一善は一輪にあり、一面に記す)」とあり、卜占に用いるサイコロの如き木片に十善を意味する十輪を刻めなどとしていることから、十根本重戒とは十善戒のことかとも取れますが、やはり経文にはそれを明示してはいません。 しかしなんといっても、『占察経』のこの一節で最も驚くべき特異な点は、三聚浄戒をただ自誓して総受することによって、比丘・比丘尼となることが出来ると明言しているところです。 これはその他多くの仏典の所説・所論から完全に逸脱し、従来の支那における戒律理解にも大きな齟齬をきたす言です。 また、二十歳未満の者が出家を志して沙弥となる際、沙弥・沙弥尼の別戒を、これは十戒のことでしょうけれども受けよと言っていますが、これが自誓受によるのか従他によるのかも少々曖昧です。 おそらくは自誓受によるのであって、十根本戒以外に十戒を自ら受けることによって沙弥となり得ると言っているのでしょう。 しかし、すると沙弥となるべく自誓受する場合、三聚浄戒は関係が無いことになる。 そもそも、最初に「善好戒師」がいなければ自誓受せよ、と言っておきながら、自誓受して沙弥となった後に「先舊出家學大乘心具受戒者(先に既に出家し大乗心を学び具さに戒を受けている者)」を依止師として沙弥としての威儀を学べ、などとしているのも全く整合性が取れない。 すでにそんな者があるのならば、そもそも自誓受にて沙弥となる必要がないのだから。 すなわち、全くややこしい話となりますが、『占察経』がいうところの三聚浄戒と十根本重戒とは別物であり、また三聚浄戒のうちの摂律儀戒とは、ただ比丘・比丘尼の律儀戒をのみ含意したものであって、そこに沙弥など他の律儀戒などは含まれていないかのようです。 以上指摘した以外にも、『占察経』には曖昧で不明瞭な、まったく取るに足らない説が散見されるものです。 実際、これが支那で撰述された偽経とされ続けていながら、しかし武則天により天冊万歳元年 〈 695〉から真経と経録の上では扱われるようになっていたとはいえ、受戒に関して『占察経』の所説が支那にて現実に実行されたことはまず無かったと見てよいことです。 ただし、今確認し得る中ではただ一例のみ、支那で『占察経』に言及し、戒律について立論する人のあったらしいことが知られます。 それはむしろ日本の書によってのみ知り得るところとなっています。 智首律師依占察經明大乘法。 三聚淨戒自誓從他。 二受之法總受三聚。 於中依其攝律儀戒成七衆姓。 名爲比丘比丘尼等。 如彼疏第一引彼經所説即令行者專尋彼經。 通別二受行相周備。 新譯諸師細開戸牖。 舊家諸師亦鉤此幽。 智首律師は『占察経』に依って大乗の法を明らかにしている。 三聚浄戒の自誓と従他の二受の法によって総じて三聚浄戒を受けるのである。 その中、摂律儀戒成に依って七衆の姓を成じ、比丘・比丘尼等とするのである。 彼の疏 〈 智首『四分律疏』〉の第一巻に『占察経』の所説を引用しているのは、行者にその経文を読ませようとしているのであろう。 そこでは通別二受の行相が完備して(説かれて)いる。 新訳の諸師は詳細に(律学の)門戸を開き、旧家の諸師もまたその幽を探っているのだ。 凝然『律宗綱要』( T55, P335c-336a) [現代語訳:沙門覺應] 凝然はここで智首 〈 567-635〉の『四分律疏』を引いてこのように言っていますが、残念ながら『四分律疏』自体が断片のみ伝わって現存していません。 智首とは道宣が師事した唐代の支那の人で、当代きっての律僧であったと言われる人です。 その智首が『占察経』を引用していたことをもって、凝然はその所説の正統なることを言いたかったのでしょう。 けれども、上に示したように、その弟子の道宣は『占察経』をそれまでの経録に従って真経として扱っていません。 また、凝然のこの引用の仕方も我田引水の感があって、智首が『占察経』の所説をそのまま実行せよなどと言っていたとは思われないものです。 そしてまた他に、これは支那ではなく新羅の論師である義寂 [ぎじゃく]が、『占察経』に直接言及していたことが知られます。 得戒縁中有三。 一明自誓受法。 二明從他受法。 三覆結二受。 聲聞法中出家五衆必從他受。 在家二衆通自他受。 如瑜伽論五十三中廣説其相。 菩薩法中此經不分七衆之受。 若准占察。 七衆受戒皆通兩受。 如彼上卷廣分別也。 得戒の縁には三つある。 一つには自誓受法を明かし、二つには従他受法を明かし、三には重ねて二受 〈自誓受と従他受〉を束ねる。 声聞法においては出家の五衆は必ず従他受に依るが、在家の二衆は自誓受と従他受に通じたもので、『瑜伽論』巻五十三にて広くその相が説かれているとおりである。 菩薩法において、この経 〈『梵網経』〉は七衆の受法を分かたない。 もし『占察経』に準じたならば、七衆の受戒はすべて両受に通じたもので、その上巻に広く分別されているとおりである。 義寂『梵網戒本疏』巻下之本( T40, P658a) [現代語訳:沙門覺應] 義寂とは、新羅華厳宗祖とされる義湘 [ぎしょう]〈 625-702〉の弟子で、七世紀後半から八世紀にかけてあった朝鮮の人です。 義寂がいつごろこの『梵網戒本疏』を著したかは不明ですが、義寂が生きたのはちょうど支那の武則天の治世の頃に重なります。 先程示したように、それはまさに偽経とされ続けていた『占察経』が真経として大蔵経に編入された時期のことです。 ところで、この一節は梵網戒の第二十三軽戒を解釈する中に述べられたものです。 第二十三軽戒とは、好師が無い際には必ず懺悔し好相を得た上で梵網戒を自誓受しなければならないとする戒です。 そこで義寂はまた受戒法に自誓受と従他受のあることを明かし、菩薩戒に関しては自誓受と従他受のいずれもが出家・在家の別なく可能であることを『占察経』に依って触れています。 ただし、義寂は「如彼上卷廣分別也」と言ってはいますが、比丘戒を自誓受することを積極的に述べたものでなく、むしろ『瑜伽論』巻五十三を引いていることから否定しているさえと言え、あくまで菩薩戒(ここでは梵網戒)に限って援用したものです。 さて、支那においても、比丘・比丘尼となるには、あくまで三師七証・白四羯磨など諸条件を全て満たした上で具足戒を受け、その上で改めて菩薩戒すなわち三聚浄戒を受けて菩薩比丘となっていました。 それは印度以来の「あたりまえ」であり、支那に『菩薩地持経』がもたらされて以来実行されてきたもので、また上掲の様々な仏典に確かに基づいたものでした。 支那の諸師らは、『占察経』の所説がその他多くの仏典のそれとあまりに矛盾しており、その内容も極めて不明瞭であることから、依然として疑義あり、依行しようにもしようがなかったのかもしれません。 (もし、これが往古の支那の諸師がそう見なし、今の文献学者らもまたそう見なしているように、支那撰述の偽経であったならば、その作者は戒律どころか仏教についても一知半解であり、そもそも頭の出来が実に悪い者であったとしか思われぬものです。 ) ところが、そのような事情を全く知らず、これを本拠としての受戒を実行した国がありました。 日本です。 先程示した一節において、凝然がわざわざ以上のように述べていることにも関係することなのですが、これについてはまた後述します。 法時〉により、大衆部 [だいしゅぶ]所伝といわれる戒本の訳出と、それに基づく戒法が始行されたことに依るとされています。 曇柯迦羅此云法時。 本中天竺人。 《中略》 以魏嘉平中來至洛陽。 于時魏境雖有佛法而道風訛替。 亦有衆僧未禀歸戒。 正以剪落殊俗耳。 設復齋懺事法祠祀。 迦羅既至大行佛法。 時有諸僧共請迦羅譯出戒律。 迦羅以律部曲制文言繁廣。 佛教未昌必不承用。 乃譯出僧祇戒心。 止備朝夕。 更請梵僧立羯磨法受戒。 中夏戒律始自于此。 曇柯迦羅、支那では法時と云う。 もと中天竺の人である。 《中略》 魏の嘉平年中 〈 249-253〉に洛陽に到来した。 その時、すでに魏には仏法が伝わっていたものの、しかしその道風は全く乱れたものであった。 衆僧(の姿をした者)があるとはいえ、未だ三帰も戒も受けておらず、ただ髪を剃り落として俗と異なった姿をしているだけであった。 もし斎懺の事があったとしてもただ祭祀するだけのことであった。 そこへ曇柯迦羅が(洛陽に)至って、大いに仏法を行じたのである。 そこで諸僧は共に、曇柯迦羅に戒律を訳出することを請うた。 すると曇柯迦羅は、律蔵の曲制や文言は詳細で多岐にわたるものであるが、仏教を未だ理解していないのであれば(もし律蔵を訳出したとしても)決して依用されることはないであろうと考えた。 そこでただ摩訶僧祇 〈大衆部〉の戒本を訳して、僧儀としてその朝夕の規矩に備えた。 そして更に梵僧に請うて羯磨法 〈三師七証・白四羯磨〉に依って受戒した。 中夏 〈支那〉の戒律はこの時より始まったのである。 慧皎『高僧伝』巻一( T50, P324c) [現代語訳:沙門覺應] しかしながら、それは律蔵そのものではなく、その禁止条項の要略を取りまとめた戒本が訳出されたに過ぎないものでした。 『高僧伝』は同時に正規の受戒が行われたとしていますが、しかし肝心なのはその後であって、正しく寄る辺とすべき律蔵自体が無く、また少なくとも五年に渡ってそもそも僧とは何かや、僧としてどの様に振る舞うべきかなど教授しえる僧臘長き僧などがほとんど無い状況であることに変わりありませんでした。 当時の印度そして中央アジアにおいても、律蔵とは基本的に暗誦・口授するものであったようです。 曇柯迦羅が戒本のみ訳出したのは、そのように律蔵を全て暗誦・口授することは無理だと考えたためでもあったのかもしれません。 そして実際、曇柯迦羅による戒本訳出と受戒がなされたとはいえ、それを契機に支那の僧らが正しく比丘として活動し始めたなどということは無く、依然として頭を剃っただけで俗人とまるで変わらぬ僧が大勢を占めていたようです。 これを契機としてその他の部派の律蔵『四分律』や『摩訶僧祇律』・『五分律』など続々と訳出されています。 これによって、いきおい支那でも俄然律蔵への関心が高まり、といってもそれは支那に仏教が伝来してからおよそ三百五十年を経ており遅きに過ぎたものと言えますが、その研究が盛んとなります。 隋代の当時、支那における律蔵に対する認識として、印度には五部律といって『四分律』・『五分律』・『十誦律』・『摩訶僧祇律』・『解脱律』という五つの律蔵が伝持され行われているとされていました。 その認識は、そもそも当時は印度における諸部派と諸律蔵との関係が正確に理解されていかなったのでしょうが、今からすると少々不可解なものです。 あるいは、そのような認識は天台大師智顗に始まったものかもしれません。 そしてそれは後に、諸律蔵の所説・所伝を一緒くたにして理解し行うという、本来ありえない事態を生じさせ、しかし誰もそれを疑問に思わない体制としてしまっています。 余談となりますが、では諸律蔵の所説を一緒くたにして理解・実行するということは、どういうことなのか。 それは例えば、現代の日本とアメリカあるいはイギリスなど諸国には自動車の運転・交通に関係する法がありますが、それらを全ていわゆる「道路交通法」であるといって混同。 基本的には日本のそれに依り従っておきながら、しかしある時にはアメリカの、しかしある時にはイギリスのものに依る、などと主張するようなものです。 そのような法の運用など、無論ありえないことです。 律蔵も同様、何か不明点があってそれを理解するために他の律蔵を参照する程度のことなら全く問題ありませんが、ある場合には『十誦律』に依るけれども他の場合は『四分律』に依るなどといった依行の仕方など、あってはならないことです。

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日语汉字发音一览表

めっき ら もっ きら ど おん どん 劇

おかしいな、遊ぶともだちが誰もいない。 みんなどこへ行ったのかな。 歩いて来たのは、お宮の前。 かんたは、しゃくだからと大きな声で歌います。 「ちんぷく まんぷく…… ……めっきら もっきら どおんどん」 めちゃくちゃの歌です。 すると、どこかからか声がして、かんたがのぞきこんだ途端吸い込まれ、知らない世界の夜の山にたどり着いた! 向こうの方からやってくるのは、見た目も名前もへんてこりんな3人組。 おっかない顔をしているクセに、なんだかひどく子どもっぽい。 ところが……この3人の遊びの素敵な事と言ったら。 ふろしきを首に巻けば、どこへでも飛び回ることができ、たくさんの宝の玉の中から不思議な水晶玉をもらい、なわとびをすれば、山をけとばし月までひっかける!かんたは時間を忘れ、夢中で遊び回ります。 そのうち疲れ果て3人が寝てしまうと、かんたは心細くなり……。 ちょっと不気味な表紙の雰囲気に「もしかしたら、うちの子には怖い絵本かな」と遠ざけてしまっていたらもったいない! なぜなら、子どもたちが夢中になる世界には、いつだってスリルが隣り合わせにいるのですから。 テンポの良い文章と展開であっという間に惹き込まれ、画面を縦に横に自由自在に扱った躍動感あふれる絵の世界に、心が躍りっぱなし。 絵本を読み終わり、大人だって、なんだかもうちょっとここに残っていたくなるほど。 でも大丈夫。 子どもたちならきっとあの「歌」を覚えてくれるはず。 そうすればいつだって、ね。 ファンタジーの傑作絵本を体感する喜びを、ぜひ親子で味わってください。 (磯崎園子 絵本ナビ編集長) かんたがお宮にある大きな木の根っこの穴から落ちて訪れた国は、何ともへんてこな世界でした。 けれどもすでに夜。 遊び疲れてねむった3人のそばで、心細くなったかんたが「おかあさん」と叫ぶと……躍動することばと絵が子どもたちを存分に楽しませてくれるファンタジーの絵本です。 この絵本は、私にとって絶対に1番の、特別な1冊です。 私が幼稚園の頃、この絵本が大好きでくりかえし読んでもらっていました。 大人になってすっかり忘れていましたが、娘が生まれ、この絵本に再会しました。 この絵本を手に取って、めくりだしたとたんに3人の妖怪と遊んでいたこと、おもちがふうわりあまくておいしかったこと、不思議な怖いようなわくわくするような気持ちが一気によみがえって泣きそうになりました。 大人がよむ絵本と、子どもがよむ絵本は、全く別のものなんだと気付いた瞬間です。 子どもは、絵本の中に入りこんで一緒に体験しています。 大人になってからでは絶対にできない、不思議な経験を絵本の中に入ってすることができます。 そしてそれは、大人になってからも、心の奥に残っているんだということを、身を持って体験しました。 そして私が、娘に初めて買った絵本が「めっきらもっきらどおんどん」です。 5歳と2歳の娘たちには、数多くの絵本を読んできましたが、この絵本が絶対の1番です。 不思議な世界に連れて行ってくれて、ちょっと不安になって、そしてほっとして、でも最後に「あれ?これって・・・」と少し不思議な気持ちを残して終わります。 この不思議な感覚こそが、絵本の醍醐味だな〜と思います。 (solicaさん 30代・ママ 女の子5歳、女の子2歳).

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J

めっき ら もっ きら ど おん どん 劇

おかしいな、遊ぶともだちが誰もいない。 みんなどこへ行ったのかな。 歩いて来たのは、お宮の前。 かんたは、しゃくだからと大きな声で歌います。 「ちんぷく まんぷく…… ……めっきら もっきら どおんどん」 めちゃくちゃの歌です。 すると、どこかからか声がして、かんたがのぞきこんだ途端吸い込まれ、知らない世界の夜の山にたどり着いた! 向こうの方からやってくるのは、見た目も名前もへんてこりんな3人組。 おっかない顔をしているクセに、なんだかひどく子どもっぽい。 ところが……この3人の遊びの素敵な事と言ったら。 ふろしきを首に巻けば、どこへでも飛び回ることができ、たくさんの宝の玉の中から不思議な水晶玉をもらい、なわとびをすれば、山をけとばし月までひっかける!かんたは時間を忘れ、夢中で遊び回ります。 そのうち疲れ果て3人が寝てしまうと、かんたは心細くなり……。 ちょっと不気味な表紙の雰囲気に「もしかしたら、うちの子には怖い絵本かな」と遠ざけてしまっていたらもったいない! なぜなら、子どもたちが夢中になる世界には、いつだってスリルが隣り合わせにいるのですから。 テンポの良い文章と展開であっという間に惹き込まれ、画面を縦に横に自由自在に扱った躍動感あふれる絵の世界に、心が躍りっぱなし。 絵本を読み終わり、大人だって、なんだかもうちょっとここに残っていたくなるほど。 でも大丈夫。 子どもたちならきっとあの「歌」を覚えてくれるはず。 そうすればいつだって、ね。 ファンタジーの傑作絵本を体感する喜びを、ぜひ親子で味わってください。 (磯崎園子 絵本ナビ編集長) かんたがお宮にある大きな木の根っこの穴から落ちて訪れた国は、何ともへんてこな世界でした。 けれどもすでに夜。 遊び疲れてねむった3人のそばで、心細くなったかんたが「おかあさん」と叫ぶと……躍動することばと絵が子どもたちを存分に楽しませてくれるファンタジーの絵本です。 この絵本は、私にとって絶対に1番の、特別な1冊です。 私が幼稚園の頃、この絵本が大好きでくりかえし読んでもらっていました。 大人になってすっかり忘れていましたが、娘が生まれ、この絵本に再会しました。 この絵本を手に取って、めくりだしたとたんに3人の妖怪と遊んでいたこと、おもちがふうわりあまくておいしかったこと、不思議な怖いようなわくわくするような気持ちが一気によみがえって泣きそうになりました。 大人がよむ絵本と、子どもがよむ絵本は、全く別のものなんだと気付いた瞬間です。 子どもは、絵本の中に入りこんで一緒に体験しています。 大人になってからでは絶対にできない、不思議な経験を絵本の中に入ってすることができます。 そしてそれは、大人になってからも、心の奥に残っているんだということを、身を持って体験しました。 そして私が、娘に初めて買った絵本が「めっきらもっきらどおんどん」です。 5歳と2歳の娘たちには、数多くの絵本を読んできましたが、この絵本が絶対の1番です。 不思議な世界に連れて行ってくれて、ちょっと不安になって、そしてほっとして、でも最後に「あれ?これって・・・」と少し不思議な気持ちを残して終わります。 この不思議な感覚こそが、絵本の醍醐味だな〜と思います。 (solicaさん 30代・ママ 女の子5歳、女の子2歳).

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