三好 長慶。 三好長慶のイラスト入り・パンフレットが完成しました!

三好長慶ゆかりの高槻市の芥川山城跡である三好山へ

三好 長慶

三好長慶 1523-1564 三好長慶,幼名千熊丸,父親是擁立細川晴元得到管領細川家實權的三好元長。 三好氏是清和源氏小笠原氏一族的分支,小笠原長清以其子長經分封於阿波,居於三好郡,遂以三好為苗字。 後於室町時代成為四國守護管領細川氏的家臣。 享祿四年,元長擁晴元上洛擊敗了同族的敵對勢力細川高國和浦上村宗,雖然名義上細川晴元是主公,但三好元長才是真正掌握權力的人物,晴元為此十分不滿,遂命元長的同族三好宗三和木澤長政用計對付元長,三好宗三和木澤長政鼓動本願寺一向宗徒暴動襲擊元長,將妻子與嫡子長慶送回領地阿波後,元長兵敗在界的顯本寺自刃。 天文三年,年僅十一歲的長慶在父親死後繼任為家督,長慶為了三好家的存續而不得不將父仇深深地強自隱忍在心中,透過木澤長政向細川晴元委曲求全進行和解,成為晴元的被官,獲攝津守護代之職,任越水城主。 晴元借本願寺的勢力擊敗元長後,雙方因利益糾結而大打出手,當年被元長擊敗的細川家分支見有機可趁紛紛起兵反對晴元,玉井氏康擁立了細川高國的義子氏綱、游佐長教擁立了田山植長之弟政國,與一向一揆聯手使晴元分身乏術難以應付,晴元命麾下的三好宗三等部將前往鎮壓,但全都慘食敗果。 為此晴元只好派人到四國阿波招長慶來援,本來長慶因為父仇,心懷芥蒂不願出兵,經過其弟三好義賢的勸諫後長慶才答應帶兵渡海去援助晴元。 天文八年元月,長慶率軍進入近畿和細川氏綱、田山政國等軍交戰,並且接受將軍足利義晴的命令與柳澤元俊一同勦滅了洛中的盜匪。 當年七月,昔日謀害長慶之父元長的三好宗三嫉長慶之威名而在細川晴元面前詆毀長慶,欲再次用計對付長慶。 宗三的預謀為長慶所知後,大怒之下長慶忿而與細川晴元決裂,和游佐長教聯合反戈進攻晴元的領地,於天文十一年三好長慶聯合游佐長教在河內太平寺擊殺了仇敵木澤長政,隨後便與游佐長教反目,先在翌年打敗玉井氏康擁立的細川氏綱,然後於天文十六年長慶次弟三好義賢率軍在攝津舍利寺大破游佐長教軍,次年四月,再無力與三好抗衡的游佐長教與田山政國臣服於三好長慶,長慶也迎娶了游佐長教的女兒以鞏固和游佐氏的同盟。 天文十八年三月,將軍義晴病死,三好長慶以四弟十河一存為先鋒進攻伊丹城並於城下放火,同日取中島城,迫近榎並城在攝津江口擊敗了細川軍,晴元方的大將三好宗三戰死,晴元政權面臨崩解的危機,晴元轉向有姻親關係的南近江六角家借兵,雙方在京都展開混戰,相互之間死傷慘重,先是在當年七月長慶命三好長逸跟十河一存進攻京都時被細川軍以洋槍伏擊,然後長慶親率大軍殺入京都,繼任的將軍義輝隨六角定賴逃往朽木。 翌年二月長慶和捲土重來的細川六角聯軍再次發生激戰,捲入戰火中的京都鹿谷因而付之一炬。 三月,長慶攻下了京都附近的岩倉城,七月,晴元方的香西元成由丹波往京都進攻,擊退了松永久秀並且焚燬了相國寺。 同年十一月,長慶以松永長賴為先鋒攻入近江,並在大津放火。 天文二十一年四月,三好長慶率領内藤國貞、松永長賴等部將出兵丹波,包圍支持細川晴元的波多野家居城八上城,同時妹婿芥川孫十郎受到池田家小川某的策反,於居城芥川城掀起反旗。 這樣一來一回的攻防戰使京都一帶飽受戰火的摧殘,當地人民苦不堪言,作戰的雙方也有感如此消耗戰鬥已使本身元氣大傷。 天文二十二年,六角定賴對三好長慶提出和議遣使要求和談,長慶順水推舟地要求細川晴元出家,由其子細川信良繼為管領的條件。 和議達成後,足利義輝回到已殘破不堪的京都正式繼任為室町幕府第十三代將軍,三好長慶以將軍直臣的名目擔任御供眾,大權盡入掌中,以幕府政所執事伊勢貞教處理戰後紛亂的洛中,隨即出兵包圍芥川城,攻打叛將芥川孫十郎,芥川城兵糧絕盡後孫十郎投降長慶,此後三好長慶便以芥川城為居城。 同年長慶次弟義賢殺細川持隆,謀奪其領國,三好家完全控制四國。 三好長慶的專權使身為將軍的足利義輝既不滿又不安,同樣擁有雄心壯志的義輝不甘於被長慶當作傀儡擺弄,於是暗中與細川晴元聯合對付三好,聞得這項消息的三好長慶迅速發兵帶領兩萬銳卒先在京都西郊擊潰晴元,然後由兵壓義輝駐紮的靈山城將其攻下,戰敗的義輝逃往近江投奔六角氏,三好長慶完全君臨近畿。 並以三弟冬康繼承以淡路為活動中心的水軍眾安宅氏,當長慶於中央政界活躍時,安宅冬康也以淡路為據點壓制大阪灣,進而與界的商人互相合作鞏固三好家的財政基石。 弘治二年六月,三好長慶、三好義賢、安宅冬康、十河一存四兄弟在父親的喪生地顯本寺於忌日當天舉行一場隆重的祭典。 之後長慶開始整頓因戰爭不絕而混亂無比的近畿地區,同年十月長慶重新制定賦稅,大幅刪修原來不合理的各項苛捐雜稅,翌年十月在京都大德寺頒布三條禁令整肅治安。 永祿元年,足利義輝與細川晴元再度發兵上洛,與三好家臣三好長逸於京都鹿谷交鋒,長慶命令松永長賴、三好長逸率一萬五千兵布陣於吉祥寺、梅小路、七條千乘寺、六條中堂寺,兩軍在白川口展開激戰,雙方皆死傷無數,為此三好長慶緊急向分封各處的弟弟要求增援,三好義賢、安宅冬康、十河一存與長慶會軍於尼崎,使情勢傾向三好家一方。 兩造最後在六角氏新當主六角義賢的斡旋下和談,三好長慶重新迎回將軍足利義輝,同時河內守護田山氏重臣安見直政和遊佐信教企圖謀害主公田山高政,但田山高政卻早一步逃至界町,兩人另立高政之弟昭高為傀儡家督,這番不臣的舉動讓三好長慶引為藉口。 永祿二年八月,三好家開始攻略河內國。 八月,攻陷安見直政的高屋城並迎回田山長政。 這時對解決了家臣叛亂的田山高政來說三好家的侵入是更加令其不安之事卻是三好長慶的趁機介入,於是轉與安見直政聯合。 但是這不過是給了長慶再一次進軍河內的理由,翌年十月,三好長慶以四弟十河一存領軍攻打飯盛高屋二城,擊破來援的根本眾,田山家的飯盛城同告陷落,三好長慶索性將河內守護田山高政流放,完全支配河內一國,同時重臣松永久秀也擊敗了興福寺筒井家奪取了大和國。 永祿三年,三好長慶便移居至飯盛城,芥川城交給長子義興。 永祿四年,三好長慶將宿敵細川晴元囚禁於攝津芥川城,此事引起了晴元的盟友六角義賢的不滿,於是六角義賢便與田山高政結盟一同對抗三好家,六角義賢、義弼父子於勝軍山起兵,安見直政也與田山高政於紀伊起兵呼應,聯合根來寺僧兵伺機進軍岸和田城與三好義賢對峙和泉久米田。 同年五月,噩耗驚傳,四兄弟中最為年幼但最為英勇的四弟十河一存在往有馬溫泉途中落馬傷重不治,自幼相依為命的手足驟逝,長慶不敢相信也不願相信,比自己小七歲而且一向健壯的四弟十河一存竟然比自己先走一步。 正是三好家禍不單行,隔年三月五日,田山高政與六角家組成三萬大軍聯合進攻和泉,引發久米田之戰,是役之中素為長慶倚重的二弟義賢戰敗身死,當時長慶正在居城與三弟安宅冬康及連歌師宗養、里村紹巴等招開連歌會,得報之後強忍心中悲痛秘而不宣,反而接著宗養的「芦間にまじる薄一村」,站起身來幽幽吟道:「古沼の浅き方より野となりて」此舉正表現出長慶的文化涵養與其處變不驚的態度。 吟完,從容不迫地公布了義賢的死訊,然後便親率兩萬大軍以安宅冬康、松永久秀為先鋒連同三好長逸、政康、康長等部將於五月二十日在河內教興寺大破田山、六角聯軍,將田山高政趕回紀伊。 永祿六年,三好長慶偕同家臣松永久秀等七十三人在界受洗,三月一日細川晴元病逝,而三好長慶也在接連失去兩個弟弟的打擊下身體急速衰弱起來,國事盡為松永久秀所控制,久秀忌憚長慶嫡子義興武勇能斷,日後繼位自己可能將大權盡失,索性將他毒殺。 由於此事為安宅冬康所知悉,所以久秀又在翌年於已病得精神恍惚的長慶面前進讒言,誣告其弟安宅冬康意圖謀反,已無法分辨是非的長慶大怒之下,親手斬殺了自己最後一個弟弟。 永祿七年七月,失去了眾親兄弟與長子的長慶在無盡的失落與孤寂中一病歸西,稱霸近畿的一代梟雄就此隕歿,享年四十三歲,法名聚光院眼室宗進。

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三好 長慶

【 】 (みよしながよし)は、 戦国時代の武将。 畿内・阿波国の。 室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、 室町幕府将軍・ 、 共々 より放逐し、 三好政権を樹立しました。 その後は足利義輝、六角義賢、 畠山高政らと時に争い、 時に和議を結び畿内の支配者として君臨しました。 最初の天下統一を成し遂げた武将です。 <三好長慶公 肖像画> 【生誕】 大永2年2月13日(1522年3月10日) 【死没】 永禄7年7月4日(1564年8月10日) 【墓所】 聚光院(京都市北区) 【生い立ち】 山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、 永正3年(1506年)に細川澄元に属して 阿波国より上洛した三好之長の曾孫です。 、 、 、野口冬長の兄。 正室は の娘、 継室は遊佐長教の娘です。 三好義興の父となります。 通称は孫次郎、 官位は従四位下伊賀守、筑前守、 後に修理大夫です。 史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で 彼の名が多く残っています。 現代の地元ファンからは、 尊敬と親しみを込めて諱の長慶を 「ちょうけい」と呼ばれることもあるそうです。 父親の三好元長は 配下の有力な重臣で、 主君である細川晴元の仇敵であった 細川高国を滅ぼした功労者でした。 本国阿波だけでなく 山城国にも勢力を誇っていましたが、 その勢威を恐れた細川晴元達及び一族の 三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した 一向一揆によって、 享禄5年(1532年)6月に殺害されました。 当時10歳の三好長慶は両親と共に堺にいましたが、 一向一揆襲来前に父と別れ、 母と共に阿波へ逼塞しました。 【一向一揆との和睦】 細川晴元が三好元長を殺害するために 借りた一向一揆の勢力はやがて 細川晴元でも抑えられなくなり 享禄・天文の乱となりました。 そのため天文2年(1533年)6月20日、 三好長慶は一向一揆と 細川晴元の和睦を斡旋しました。 当時12歳の三好長慶が 和睦を周旋したと伝わっています。 交渉自体は名を借りて 代理の者がした可能性もあるとのことです。 この直後に元服したとされています。 8月に本願寺と分離していた 一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、 三好長慶は一揆と戦って 摂津越水城を奪回しました。 翌年の天文3年(1534年)になると 本願寺に味方して8月11日に細川晴元軍と戦い、 10月には潮江庄(尼崎市)で 細川晴元方の三好政長と戦いましたが、 河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、 年少であるという理由から 許されて細川晴元の下に帰参しました。 その後は細川晴元の武将となり、 天文5年(1536年)3月に 細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る 摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。 この時は木沢長政の下に逃れ、 木沢長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、 徒立勢ばかりだった一揆軍を 7月29日までに全滅させました。 【勢力拡大】 天文8年(1539年)1月15日、 三好長慶は細川晴元の供をした時、 尾張国の から前年に献上されていた 鷹を与えられました。 10日後の25日に三好長慶は 細川晴元を酒宴に招き、 その席で室町幕府の料所である 河内十七箇所(守口市)の代官職を 自らに与えるように迫りましたが、 細川晴元は聞き入れず、 三好長慶は直接幕府に訴えたとあります。 この料所の代官は元々は 父が任命されていましたが、 その死後には三好長慶の同族ながら 政敵であった三好政長が 任命されていたのでした。 幕府の内談衆である 尚氏は 三好長慶の要求を正当としましたが、 不首尾に終わりました。 そこで三好長慶は1月の上洛時に 2500の人数を率いていたため、 この数と 法主・証如の後ろ盾を得て入京し、 細川晴元は閏6月17日に退京して高雄に移り、 細川元常や細川晴賢ら一族を呼び集めました。 足利義晴は や武田元光などの諸大名に 出兵を命じる一方で六角定頼と共に 三好長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、 夫人の慶寿院と嫡子の足利義輝を八瀬に避難させました。 この混乱で京都の治安が悪化し、 三好長慶は足利義晴から 京都の治安維持を命じられたのです。 これまで三好氏の当主は あくまでも阿波を本拠とし、 畿内において政治的あるいは 軍事的に苦境に立つと 四国に退いて再起を期す事例はありました。 けれども三好長慶はこの入城以降は 生涯阿波に帰国することなく、 摂津を新たな本拠とするのでした。 この後の三好長慶は摂津守護代となり 幕府に出仕するようになりましたが、 陪臣の身で将軍までも周章させて 摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、 主君の晴元に脅威を与えるほど 三好長慶の実力は強大なものとなっていたのでした。 天文9年(1540年)から 天文10年(1541年)の間、 一説では、丹波国の波多野稙通(秀忠)の娘を 妻に迎えたとあります。 下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く 越水城を支配する三好長慶の影響力は次第に 下郡の国人や百姓に及びつつありました。 【太平寺の戦い】 細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して 将軍である足利義晴と細川晴元を追うなどしたため、 河内守護代の遊佐長教は木沢長政が擁立した 河内守護の畠山政国を追放して その兄である畠山稙長を迎え、 三好長慶に味方することを表明しました。 このため翌年の天文11年(1542年)3月17日、 木沢長政は畠山稙長のいる 河内高屋城を攻撃しようとして太平寺で戦うも、 政長・長慶の援軍が加わった 遊佐長教に敗れ討死しました。 【石山本願寺が認めた長慶】 太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、 細川高国の従甥に当たる細川氏綱が 畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、 翌年の天文12年(1543年)7月25日に 堺を攻撃しましたが、 細川元常の家臣・松浦肥前守、日根野景盛らに 敗れて和泉国に逃れていきました。 三好長慶は8月16日に 細川晴元の命令で堺に出陣、細川氏綱と戦っています。 この頃になると三好長慶の実力は 石山本願寺にも一目置かれており、 天文13年(1544年)6月18日に 父の13回忌法要の費用が証如から 三好長慶に送られています。 天文14年(1545年)4月、 細川高国派の上野元全らが細川氏綱に呼応、 丹波から進軍して山城井手城を落とし、 上野元全の父・上野元治も 槇島まで進出したため、 細川晴元は大軍を率いて出兵し、 三好長慶も従軍して山城宇治田原で戦いました。 その直後、岳父の波多野稙通の 支援要請に応じて丹波に出兵し、 細川氏綱派の内藤国貞が籠もる 丹波世木城を7月25日に 包囲して27日に落としました。 細川氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため 当面の間政権は安泰となりました。 【摂津の奪還】 けれども翌年の天文15年(1546年)8月、 畠山稙長の後を継いだ 畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、 氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して 細川晴元排除の動きを見せると、 三好長慶は8月16日に 細川晴元の命令を受けて越水城から堺に入ります。 しかし堺は20日に河内高屋城から出撃した 細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に包囲され、 準備不足であり戦況不利を悟った三好長慶は 会合衆に依頼して軍を解体し、 細川氏綱らも包囲を解いて撤兵します。 この後も細川氏綱らの攻勢が続いて 細川晴元・三好長慶は敗北を重ねましたが、 三好長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、 十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、 足利義晴は12月に近江に逃れて 嫡子の足利義輝に将軍職を譲り、 三好長慶は三好実休や 阿波守護の細川持隆らと共に 摂津原田城や三宅城の 三宅国村などの将軍方の城を落とし、 摂津を奪い返しました。 そして天文16年(1547年)7月21日、 舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、 敗報を聞いた足利義晴が細川晴元・六角定頼と和睦、 三好長慶・実休は8月に河内で 細川氏綱・遊佐長教軍と対陣しましたが、 翌年の天文17年(1548年)4月、 両者は定頼の斡旋で和睦、 三好長慶は5月に越水城へ帰城しました。 なお、三好長慶はこの頃、 遊佐長教の娘を継室に迎えています。 先の和談における 政略結婚であったとも言われています。 【細川晴元・三好政長との対立】 天文17年(1548年)7月に 三好政長を討とうとします。 理由は (1) 三好政長と息子・ の不祥事であるとする説。 (2) 父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いた。 (3) 三好政長の婿である摂津国人・ が 細川晴元に切腹させられ、 遺児で政長の外孫に当たる 池田長正が後継に置かれたことが 他の摂津国人達の反感を買い、 三好長慶が反政長派に推された。 三好政長は晴元からの信任が厚く、 越水城で三好長慶が開いた軍議では 細川晴元が三好政長を庇うのであれば、 細川晴元も敵とする事を決議したとのことです。 【江口の戦い】 かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び、 細川晴元に反旗を翻し、 因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け 三好政勝が籠城する榎並城を包囲しました。 三好長慶の行為細川は晴元方の六角定頼から 「三好筑前守(長慶)謀反」とされました。 翌年の天文18年(1549年)2月、 三好長慶の本隊が出陣、4月から細川晴元・三好政長が 三好政勝救援のため摂津に向かい、 三好長慶軍と三好政長軍が摂津で対陣すると、 細川晴元は三宅城へ、三好政長は江口城に布陣して 近江の六角軍の到着を待とうとしましたが、 三好長慶は江口城の糧道を絶ち、 弟の安宅冬康・十河一存らに別府川に布陣させました。 六角軍は6月24日に山城の に到着しましたが、 その当日に江口城で戦いがあり、 三好長慶は三好政長ら主だった者を 800名も討ち取ったとのことです。 【三好政権の誕生】 江口の戦い後、細川晴元と三好政勝らは 摂津から逃亡し六角軍も撤退、 細川晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて 近江国坂本に逃れていきました。 三好長慶は細川晴元に代わる主君として 細川氏綱を擁立し、 7月9日に入京しました。 其の後15日に細川氏綱を残して摂津へ戻り、 細川晴元派の が籠城する を包囲しました。 天文19年(1550年)3月、 遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定しました。 これにより細川政権は事実上崩壊し、 三好政権が誕生することになったのです。 【主君、将軍との対立】 近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、 天文19年(1550年)2月、 京都東側の慈照寺の裏山に中尾城を築きましたが、 5月に義晴が亡くなった後は 6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、 徹底抗戦の構えを見せました。 両軍は小規模な戦闘に終始していましたが、 三好長慶は近江にも遠征軍を派遣して 足利義輝らを揺さぶり、 退路を絶たれることを恐れた足利義輝は 11月に中尾城を自ら放火して、 坂本から北の堅田へ逃亡してきました。 この間の10月に三好長慶は 足利義輝に和談を申し込みましたが、 細川晴元及び足利義輝らの面目からか この時は不首尾に終わっています。 将軍も管領も不在になった京都では 三好長慶が治安を維持し、 公家の所領や寺社本所領を保護しながら 足利義輝や細川晴元らと戦っていました。 【三好長慶暗殺未遂事件】 天文20年(1551年)3月7日と14日の 2回にわたって三好長慶は 暗殺未遂事件に遭遇しています。 1回目の犯人は挙動不審な態度から すぐに逮捕・処刑され、 2回目の犯人は将軍近臣の進士賢光で、 「言継卿記」によりますと、 進士賢光の遺恨で三好長慶を襲撃し 手傷を負わせましたが、 失敗して即座に自害したということです。 この混乱に乗じて将軍方の三好政勝と香西元成が 事件翌日の15日に丹波宇津に侵入しています。 また5月5日には三好長慶の岳父である 遊佐長教も自らが帰依していた 僧侶の珠阿弥に暗殺される事件が起きました。 【相国寺の戦い】 このような事態を見てか、 7月には三好政勝・香西元成を主力とした 足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、 三好長慶は と その弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代) に命じてこれを破っています。 【和議の成立と実力者としての地位】 このため六角定頼が和議を斡旋しましたが、 翌年の天文21年(1552年)1月2日に死去したため、 後継者の六角義賢が引き継いで交渉を進めていきました。 そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って 出家する代わりに三好長慶は 細川晴元の幼児である聡明丸(後の昭元)を取り立てること、 足利義輝の上洛を条件にして和議が成立しました。 足利義輝は1月28日に上洛し、 三好長慶は2月26日に上洛して 御供衆の格式を与えられ、 細川家々臣から将軍家直臣になりました。 そして幕府は将軍の足利義輝、管領は細川家当主の氏綱に、 実権を握る実力者である三好長慶という構図になりました。 【丹波攻め】 ところが細川晴元が京都奪回のために軍を興し、 これに波多野晴通が加担したため、 三好長慶は4月25日に丹波八上城を包囲した所、 従軍していた芥川孫十郎などが 波多野に味方したため、 5月23日に包囲を解いて越水城に撤退しました。 またこれで聡明丸を京都に置いておく事に不安を感じ、 6月5日に越水城へ移しています。 10月に三好長慶は再度丹波を攻め、 細川晴元に味方する諸将と戦いました。 11月にも細川晴元党の動きはありましたが、 小規模な戦闘か放火程度で終わっていました。 【足利義輝の和睦の破棄】 天文22年(1553年)閏1月、 足利義輝の奉公衆らは 三好長慶排除のために細川晴元と通じ、 しばらくして三好長慶は和議を結ぶも、 その際に奉公衆から人質をとりました。 2月27日に三好長慶は 細川晴元と戦うために丹波へ出陣しましたが、 3月には足利義輝自身が 三好長慶との和約を破棄して 東山の麓に築いた霊山城に入城しました。 合わせて帰参していた芥川孫十郎が 再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、 丹波・摂津・山城から三方向に 脅威を抱えた三好長慶は 松永久秀に命じて細川晴元方の軍を破りました。 7月に三好長慶が芥川山城を包囲している最中に 足利義輝が細川晴元と連合して入京を計画しましたが、 三好長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると 細川晴元軍は一戦もすること無く敗走し、 足利義輝は近江 に逃走しました。 三好長慶は将軍に随伴する者は 知行を没収すると通達したため、 随伴者の多くが足利義輝を見捨てて 帰京したとのことでした。 【芥川山城に居城する意図】 以後5年にわたって足利義輝は朽木に滞在しました。 京都は事実上三好長慶の支配下に入りました。 三好長慶は芥川山城を 兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、 芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城としました。 越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、 芥川山城は細川高国・細川晴元の時代を通じて 摂津上郡の政治的拠点から 細川政権の畿内支配の拠点に上昇しつつあり、 三好長慶もその拠点を引き継いだのでした。 また、禁裏と交渉を行ない、 土塀の修理なども行なっていました。 以後、 三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、 天文23年(1554年)に三好長逸が 播磨に出兵するなど軍事活動も積極的でした。 【北白川の戦い】 永禄元年(1558年)6月、 足利義輝は細川晴元や 三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、 将軍山城で三好軍と交戦しました。 しかし戦況は叔父の三好康長を始め 三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる 四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで 三好方の優位となり、 六角義賢は足利義輝を 援助しきれないと見て和睦を図ります。 この時の和談は11月6日に成立し、 足利義輝は5年ぶりに帰京しました。 【幕政の実権を掌握】 この時三好長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に 足利義輝を出迎えています。 以後の三好長慶は幕府の主導者として、 幕政の実権を掌握したのでした。 【畿内を制する】 永禄年間初期までにおける 三好長慶の勢力圏は摂津を中心にして 山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨 などに及んでいました。 他には近江・伊賀・河内・若狭など、 影響力を持っていたとのことです。 【勢力圏NO. 1の大名】 当時、三好長慶の勢力に匹敵する大名は 相模国の くらいでした。 しかし関東と畿内では、 経済力・文化・政治的要素などで 当時は大きな差があったため、 三好長慶の勢力圏の方が 優位だったと見なされています。 【全盛期】 この全盛期の永禄2年(1559年)2月に がわずかな供を連れて上洛していますが、 三好長慶とは面会せずに3月に帰国しています。 4月には (当時は )が 上洛していますが、 三好長慶は上杉謙信と面識があり、 6年前の上洛では 石山本願寺に物品を贈りあったりしたことも あったとのことです。 けれども、 この時の上洛では面会は無かったとのことです。 この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、 新たに守護代に任命された 安見宗房(直政)が 永禄元年(1558年)11月30日に 畠山高政を紀伊国に追放するという事件が起こっています。 これを見て三好長慶は松永久秀を 永禄2年(1559年)5月29日に 和泉国に出兵させましたが安見方の に敗北、 松永久秀は摂津国に撤退し、 三好長慶も松永久秀と合流して6月26日に 2万の大軍で河内に進出しました。 そして8月1日に高屋城、 8月4日に などを落とし、 畠山高政を河内守護として復帰させ、 安見宗房を大和国に追放して 自らと通じた を守護代としました。 また、安見宗房追討を口実に 松永久秀は大和へ進軍、 河内と大和の国境付近に そびえる信貴山城を拠点として 大和の制圧を開始しました。 【細川・畠山家も屈する】 細川家家中においても 三好氏の権力は頂点を極めました。 この永禄2年(1559年)は 三好長慶の権勢が絶大となり、 三好長慶の嫡男である三好慶興が 将軍の足利義輝から「義」の字を賜り 義長と改めています。 なお、後に義興と改名しています。 この頃にはかつての管領家である 細川・畠山の両家も 三好長慶の実力の前に屈し、 永禄3年(1560年)1月には相伴衆に任命され、 1月21日に三好長慶は修理大夫に、 三好義興は筑前守に任官しました。 1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、 財政難の朝廷に対して献金も行なっています。 2月1日には三好義興が御供衆に任命されています。 【飯盛山城へ】 永禄3年(1560年)、 三好長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移しました。 芥川山城は息子の三好義長(義興)に譲渡しました。 居城を飯盛山城へ移した理由については、 「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、 加えて、大和国への進軍も円滑に行える」 という根拠が指摘されているとのことです。 また、三好氏の本領は阿波国ですが、 飯盛山であれば堺を経由して 本領である阿波への帰還もより迅速に、 楽に出来るという理由もあったと指摘されています。 <飯森山城からの眺め> 【河内国の激変】 この永禄3年(1560年)に 河内国の情勢が激変しました。 三好長慶の支援で守護に復帰した 畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して 再び安見宗房を復帰させたためで、 三好長慶は畠山高政の背信に激怒し、 畠山高政と義絶し、 7月に東大阪市一帯で畠山軍と戦って勝利しました。 7月22日には八尾市一帯で安見軍を破り、 高屋城を後詰しようとした 香西・波多野軍、根来衆なども 丹波から来援した松永長頼が破りました。 このため10月24日に飯盛山城の安見宗房が、 10月27日に高屋城の畠山高政が ぞれぞれ降伏開城して 三好長慶は河内を完全に平定しました。 高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、 三好長慶は飯盛山城を居城にしました。 また畠山家の影響力が強かった 大和に対しても松永久秀に命じて この年に侵略させ、 11月までに大和北部を制圧して 松永久秀に統治を任せたのでした。 【勢力圏の更なる拡大】 永禄4年(1561年)3月30日には 足利義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、 5月6日に足利義輝の勧告で細川晴元とも和睦、 摂津 へ迎え入れました。 また嫡子の三好義興はこの年に 従四位下・御相判衆に昇任するなど、 三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続きました。 この年までに三好長慶の勢力圏は 先に挙げた8カ国の他、 河内と大和も領国化して10カ国に増大し、 伊予東部2郡の支配、 山城南部の支配なども強化しています。 この三好長慶の強大な勢力の前に 伊予の河野氏など多くの諸大名が 三好長慶に誼を通じていました。 【長慶の衰退と晩年】 このように絶頂期を迎えた三好長慶ですが、 やがて衰退が始まっていくのでした。 それは永禄4年(1561年)4月からだと言われています。 それは長年長慶を支えてきた 弟の十河一存の急死でした。 【久米田の戦い】 十河一存は和泉 が持城であったので そのために和泉支配が脆弱となりました。 その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、 細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ7月に挙兵し、 南北から三好家に攻撃をしかけたのでした。 この戦いは永禄5年(1562年)まで続き、 3月5日にはもう一人の弟である 三好実休までもが畠山高政に敗れて戦死しました。 けれども京都では 三好義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、 一時的に京都を六角軍に奪われながらも、 三好義興・松永久秀らは 安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、 5月20日の教興寺の戦いでは 畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放しました。 そして河内を再平定し、 六角軍は6月に三好家と和睦して退京しました。 なお、この一連の戦いで三好長慶は 出陣した形跡は無く、 三好軍の指揮は三好義興・松永久秀と 安宅冬康らが担当していました。 どうやらこの頃、 三好長慶は病にかかっていたと推測されています。 最も病にかかったのは、 永禄4年(1561年)頃とも推測されています。 以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、 河内高屋城主には三好康長が任命されて 支配圏の再構築が行なわれたのでした。 永禄5年(1562年)8月には 幕府の 執事である伊勢貞孝が 畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、 9月に松永久秀・三好義興の率いる 三好軍によって伊勢貞孝は討たれました。 永禄6年(1563年)1月には 和泉で根来衆と三好軍が激突し、 最終的には10月に三好康長との間で和談が成立します。 大和でも松永久秀の三好軍と 多武峯宗徒の衝突があり、 また細川晴元の残党による反乱が 2月からかけて起こるなど、 反三好の動きが顕著になってきたのでした。 【嫡男の死去】 さらに永禄6年(1563年)8月には 嫡男である三好義興が22歳で早世します。 唯一の嗣子を失った三好長慶は 十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えました。 本来であれば十河一存の死後に 十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、 彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘であり、 その血筋の良さが決め手であったと推測されています。 12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、 この少し前には細川晴元も病死しており、 三好政権は政権維持の上で 形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になりました。 【細川氏綱に関しての見解】 ただし、細川氏綱については、 有力な支持者であった内藤国貞が健在であった 天文22年(1553年)までは 三好長慶よりも上位にあり、 その後も足利義輝や細川晴元に対抗するために、 三好長慶に政治的権力を譲る代わりに 摂津の守護としての立場を保持したものであり、 傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする 見解も専門家の間では指摘されているとの事です。 【弟・安宅冬康の暗殺】 永禄7年(1564年)5月9日、 三好長慶は弟の安宅冬康を 居城の飯盛山城に呼び出して 誅殺してしまいました。 松永久秀の讒言を信じての行為であったとの 見解ではありますが、 この頃の三好長慶は相次ぐ親族や 周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、 思慮を失っていたと見られています。 そして安宅冬康を殺害した後に、 松永久秀の讒言を知って後悔し、 病がさらに重くなってしまったと 伝わっているそうです。 【三好長慶の最期】 6月22日には嗣子となった三好義継が 家督相続のために上洛していますが、 23日に足利義輝らへの挨拶が終わるとすぐに 飯盛山城に帰っている事から、 三好長慶の病はこの頃には 既に末期的だったとの見解があるようです。 そしてそれから11日後となる7月4日、 三好長慶は飯盛山城で病死しました。 享年は43歳でした。 【松永久秀の不穏な動き】 三好義継が若年のため、 松永久秀と三好三人衆である 三好長逸・ ・岩成友通が後見役として 三好氏を支えましたが、 やがて松永久秀は独自の動きを見せはじめ、 永禄8年(1565年)から 永禄11年(1568年)までの3年間、 内紛状態に陥ってしまいました。 【織田信長の登場と三好政権の崩壊】 その後、松永久秀の側に鞍替えした 三好義継と松永久秀は、 新たに台頭した織田信長と 彼が推戴する に協力していきます。 三好三人衆はやがては織田信長に敗れ、 三好政権は崩壊となりました。 その後、三好義継と松永久秀も織田信長と対立し、 結局は滅ぼされていくのでした。 【飯盛山城】 飯盛山城(いいもりやまじょう)は、 大阪府大東市及び四條畷市にある日本の城跡です。 標高315.9mの飯盛山に築かれた日本の城(山城)です。 2017年年(平成29年)4月6日、 「続日本100名城」(160番)に選定されました。 別名として「飯盛城」とも称されています。 <飯盛山城 縄張り図> 【飯森山城の歴史的価値】 日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、 飯盛山城は重要な位置を占めるとされています。 河内と大和との間には生駒山脈が南北に走り、 これが国境となっています。 飯盛山城は、 その生駒山脈の北西支脈に位置している 飯盛山に築かれています。 中世の山城としては、 かなり大きな部類に属し、強固な要塞でした。 全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、 70以上の曲輪が確認されています。 <飯盛山城址案内図> 【戦国時代】 天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、 家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えます。 この時に臨戦的陣城から 恒久的な居城に改修されたと推測されています。 【飯盛城の戦い】 足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、 束の間の平和が訪れようとしていました。 けれども、 細川高国を討滅させたという 大きな軍功を挙げていた 三好元長と木沢長政の対立が、 新たな戦乱を引き起こしていたのでした。 【三好元長VS木沢長政】 対立の発端は、河内を巡る主権争い、 守護代の木沢長政が 守護の畠山義堯(義宣)から 守護職を奪い獲る企てが 発覚したことにあると見られています。 享禄4年(1531年)8月、 怒りをあらわにした畠山義堯は 三好元長の一族である 三好勝宗(三好一秀)に頼んで 飯盛山城を攻めましたが、 木沢長政からの援軍要請を受けた 細川晴元によって 撤兵命令を下されたため、 三好勝宗は一旦兵を収めました。 けれども、 翌年の享禄5年(1532年)5月、 態勢を整えた畠山義堯と三好勝宗は 飯盛山城を再攻し、 三好元長にも増援を要請しています。 そこで木沢長政も再び 細川晴元に援軍を要請しましたが、 畠山・三好連合軍の攻囲を 排除させるには至らなかったとのことです。 【山科本願寺に要請】 そこで自軍での武力排除を断念した細川晴元は、 山科本願寺の法主証如に 一揆軍の蜂起を要請しました。 この背景には三好元長が肩入れする 本願寺の対立宗派・法華宗へのライバル意識を 巧みに利用したものと見られています。 【山科本願寺・証如の蜂起】 17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった 「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、 同年6月5日に山科本願寺から大坂に移動し、 摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけました。 これに応じた門徒は、 総勢3万兵に及ぶ大軍だったとも 伝わっているそうです。 6月15日に、 飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、 三好勝宗を含む200余兵も討ち取り、 退却する畠山義堯も追撃し 6月17日には自害に追い込んだとのことです。 【一揆軍の脅威】 なおも6月20日、 三好元長の逃げ込んだ 和泉顕本寺を取り囲んだ 一揆軍には各地より続々と 新たな門徒が集結したため、 10万兵まで膨れ上がったとも伝わっています。 そこで三好元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた 一揆軍の脅威により細川晴元は勝利し、 木沢長政も命を拾いましたが、 蜂起を収束させない一揆軍の暴走が 天文の錯乱に発展していくのでした。 【三好長慶の居城】 その後、木沢長政も太平寺の戦いで 父の仇であった三好長慶に 討ち取られてしまいます。 木沢長政亡き後、 城主になったのが 交野城の城主であった安見宗房です。 安見宗房は畠山高政の家臣でしたが、 自ら河内の守護代を名乗り、 主君の畠山高政を紀伊に追放してしまいます。 永禄2年(1559年)、 三好長慶は畠山高政を援けるべく兵をあげ、 安見宗房は大和に敗走しました。 畠山高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、 河内への進出を阻止すべく、 敵対した安見宗房を正式に守護代に任命し、 再び飯盛山城に配置しました。 この処置に憤慨した三好長慶は 畠山高政の居城高屋城を攻囲し、 援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、 畠山高政・安見宗房は共に堺へ敗走します。 翌年の永禄3年(1560年)11月13日、 三好長慶は飯盛山城に入城しました。 この時から三好長慶は飯盛山城を居城と定め、 大規模な改修作業を実施し、 現在の城郭になったと推測されているのです。 【教興寺の戦い】 翌年の永禄4年(1561年)、 畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、 飯盛山城の支城となっていた 三箇城を攻め落とし、 さらに翌年の永禄5年(1562年)の 久米田の戦いで三好長慶の弟である三好実休を討ち取り、 同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始されましたが、 背後から三好長慶の弟である安宅冬康や 松永久秀の援軍が襲いかかり、 三好長慶も狭撃して畠山軍を撃退しました。 【廃城】 長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に 畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、 永禄6年(1563年)8月、 一人息子の三好義興が22歳で急死します。 ついで翌年(1564年)、 弟の安宅冬康も流言によって自殺させると、 三好長慶自身も病に取りつかれてしまい、 同年7月24日、4343歳で他界しました。 御体塚曲輪跡には 死後3カ年ほど仮埋葬されていたと伝えられています。 【高屋城の戦い】 その後三好義継や三好三人衆が 飯盛山城を治めていましたが、 織田信長により摂河平定が行われると 三人衆も軍門に下り、 飯盛山城は畠山秋高の所有となりました。 遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害されると、 これに激怒した織田信長の攻撃を受けて 遊佐信教は没落し、 天正4年(1576年)に落城して廃城となりました。 【城郭】 飯盛山城の縄張りとして、 最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、 南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、 東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪が築かれています。 その下に山城では珍しい石垣があります。 <楠木正行公の像> その本曲輪下以外にも石垣がありますが、 これは土塁止め程度と推測されていますが、 この本曲輪下の石垣は滝谷、 東側からの防御用の可能性も 指摘されているそうです。 三好長慶が、かつて居城としていた 芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、 三好長慶の改修時に築かれた 可能性があるそうです。 但し山城での石垣は珍しいので、 三好長慶の改修時ではなく、 織田信長の落城後に再構築した可能性も 指摘されているとのことです。 飯盛山は大阪府内でも 有名なハイキングコースとなっています。 山頂からのすこぶる眺望もよく、 平日でも数多い登山を楽しむ人々がいます。 城内にもいくつかのハイキングコースが設定されており、 河内地方では珍しい 二重堀切が存在していましたが、 山道の拡張によって破壊され、 遺構が良好に保存されにくくなってしまいました。 また、飯盛山は森林ボランティアの人々が 下草刈りや立ち枯れ木の処理、 植樹活動を展開し、 山林を保持しようとしています。 けれども、曲輪内にも植林されており、 将来的には遺構の破壊に繋がるのではないかという 意見もあるのです。

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三好義継

三好 長慶

三好長慶の生い立ち 三好長慶は戦国時代にあたる大永2年 1552 2月13日、父・三好元長、母・慶春院殿南岸智英大姉の嫡男として現在の徳島県三好市で誕生しました。 父・三好元長は山城国下五郡守護代であり、室町幕府管領・細川晴元の重臣であったとされ、細川晴元の仇敵である細川高国を滅ぼしたことから、功労者として認められていました。 しかし、三好長慶が10歳となった享禄5年(1532)6月、功労者として認められ本国阿波のみならず山城国にも勢力を伸ばしていた父・三好元長は、その勢威を恐れた主君・細川晴元、また一族の三好政長・木沢長政らの策謀によって勃発した一向一揆によって命を落とします。 一向一揆を鎮圧 父・三好元長を死に追いやった一向一揆は、勢威を恐れた主君・細川晴元らによって策謀されたものでしたが、父・三好元長亡き後も一向一揆の勢いは収まらず、遂には 細川晴元の手にも負えなくなり、享禄・天文の乱と呼ばれる戦乱にまで発展しました。 そこで、 未だ元服を迎えていない三好長慶が天文2年(1533)6月20日、一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋したところ、父・三好元長の死後1年にして、細川晴元と一向一揆の関係は石山本願寺で和談するまで回復したとされています。 三好長慶は一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋した直後の11歳になった頃に元服したとされています。 しかし、15歳になるまでは「千熊丸」という幼名で呼ばれていました。 細川晴元に仕える 元服を迎えた天文2年(1533)8月、三好長慶は本願寺から分離する講和に応じない一揆衆が蜂起したため、三好長慶は一揆衆を抑えるため一揆を戦い、摂津越水城を奪回します。 翌年の天文3年(1534)8月11日には本願寺に味方し細川晴元軍と、10月には潮江庄(尼崎市)において細川方についた三好政長と争いましたが、この時、三好長慶はまだ少年であったこと、また河内守護代・木沢長政の仲介によって、三好長慶は細川晴元に仕えることとなりました。 主君・細川晴元との対立 その後も三好長慶は細川晴元の家臣として戦に参加しました。 天文8年(1539)1月15日、 三好長慶は主君・細川晴元に対し河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう要求します。 もともとこの職は三好長慶の亡き父・三好元長が就いていたものでした。 しかし、 父の死後、この職に任命されたのは同族でもあり政敵であった三好政長だったのです。 これに対し、三好長慶は三好政長ではなく自身を河内十七箇所の代官職を自らに与えるよう細川晴元に要求しましたが、聞き入れてはもらえませんでした。 このようなことがあり、 三好長慶は主君・細川晴元と良好な関係を築くことができなかったとされています。 そのため、12代将軍・足利義晴は細川晴元と三好長慶の和睦交渉を斡旋するなど、関係回復のための工作を続けました。 そんな中、政局の変化によって京都の治安が悪化します。 そのため 将軍・足利義晴は三好長慶に対し京都の治安維持をするよう命じました。 京都の治安維持を命じられる 将軍・足利義晴から京都の治安維持を命じられた三好長慶は本国・阿波を後にし天文8年(1539)8月に摂津越水城に入城しました。 入城以降は本国・阿波に戻らなかったとされているため摂津国を三好氏の本拠地にしたということが分かります。 その後、三好長慶は摂津守護代となり幕府に仕えるようになり、摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させるなどしました。 このようにして三好長慶は将軍・足利義晴と信頼関係を築いていくことととなりましたが、一方で主君・細川晴元は三好長慶の実力に脅威を感じはじめ、ますます2人の関係は悪化となっていくこととなりました。 主君・細川晴元との関係の悪化 天文10年(1541年)9月頃、 三好長慶は主君・細川晴元の許しを得ず、独断で段銭徴収を行います。 これに対し、主君・細川晴元は段銭徴収をやめるよう命じました。 しかし、三好長慶は主君・細川晴元の命令を無視し、主君・細川晴元に対し敵意を表します。 このように2人が対立する中で、三好長慶に味方するものがどんどんと増え始め、三好長慶の実力は石山本願寺にも認められる程となっていました。 しかし、天文16年(1547年)3月頃になると、 三好長慶と主君・細川晴元は和睦したとされ、両者の関係は一時的に回復に向かいます。 三好政権の誕生 主君・細川晴元と和睦を結んだあとは同族であり政敵である三好政長もともに軍事行動を共にしましたが、再び三好政長と関係悪化となり、天文17年(1548)7月、三好長慶は三好政長を討とうと決意します。 そのため翌月の8月に主君・細川晴元に対し三好政長父子の追討を願い出ましたが、主君・細川晴元は三好政長に対し厚い信頼を注いでいたため、追討の願いは受け入れられませんでした。 これによって 三好長慶は10月18日、かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と手を結び、主君・細川晴元に対し反旗を翻し天文18年(1549)2月、三好長慶軍と同族の三好政長の戦いである江口の戦いが勃発します。 この戦いにおいて 三好長慶は勝利を収め、 主君・細川晴元、三好政長は撤退に追い込まれる結果となり、これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権の誕生となったのです。 足利義輝との対立 天文19年(1550)2月、この頃、 近江国に亡命をしていた足利義晴が京都奪回を図り中尾城を築きます。 足利義晴は三好長慶と細川晴元が対立した際、細川晴元に味方していましたが、江口の戦いにおいて細川晴元が敗れたため、近江国へと亡命していたのです。 しかし、天文19年(1550)5月に 足利義晴が病死すると、その息子・足利義輝が京都奪回を図ります。 京都奪回を図る足利義輝は天文19年(1550)、三好長慶軍と交戦するも敗走します。 中尾城の戦い しかし、この時は三好長慶と対面することなく、尾張国へと戻っていきました。 信長が上洛したのは、機内で実権を掌握していた三好長慶の評判を聞くためだったのではと考えられています。 また同年、三好長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ「義長」と改名するなど、 三好長慶の権威は英華を極めていました。 しかし三好長慶の英華は長くは続かず、和泉の支配を任せていた弟・十河一存が永禄4年(1561年)4月に急死したのを機に、 三好長慶の衰退が始まります。 和泉を支配していた弟・十河一存が急死したため、和泉の支配が脆弱し、それを機に畠山高政と六角義賢が三好家に攻撃を仕掛けてきたのです。 久米田の戦い この戦いにおいて弟の三好実休が戦死しています。 松永久秀の活躍 一方、京都では松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興が三好軍を率いて善戦し、永禄5年(1562年)5月19日に和泉を支配していた畠山高政を追放し河内を再平定、翌月の6月に京都を一時的に支配していた六角氏と三好家を和睦に導きます。 こうして松永久秀と三好長慶の嫡男・三好義興の働きによって三好家は畠山高政と六角義賢の争いに勝利することとなりましたが、 三好長慶がこの戦いに出陣した形跡はなく、この頃から病に犯されていたと考えられています。 三好家の衰退 永禄5年(1562年)8月、幕府の政所執事・伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じ、京都で挙兵します。 しかし、翌月の9月に松永久秀と嫡男・三好義興によって伊勢貞孝は討たれます。 このように、松永久秀は三好家において多くの功績を残すようになり、三好家の次第に握るようになりました。 そんな中、永禄6年(1563)1月和泉で根来衆と三好軍が激突、また大和においても松永久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突が勃発、永禄6年(1563)2月には細川晴元の残党による反乱が勃発するなど、各地で反三好家による対立が勃発しました。 また永禄6年(1563)8月には三好長慶の嫡男・三好義興が22歳若さで亡くなり、12月になると名目上の主君・細川氏綱も病死します。 このように三好政権の政権維持に必要であった形式上の管領などを失ったことで三好政権は徐々に中核から崩れかけていくのでした。 実は、三好長慶の相次ぐ身内の不幸は部下である 松永久秀による暗殺によるものではないかと考えられてます。 三好長慶の最期 永禄7年(1564)5月9日になると松永久秀は三好長慶に対し、弟の安宅冬康が謀反を企んでいると忠告します。 息子を亡くし、名目上の主君も亡くした三好長慶はショックのあまりこの忠告を信じ込み、 弟・安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出し、殺害に至りました。 その後、弟・安宅冬康が謀反を起こそうとしているのは松永久秀による讒言であったことを知ると、一層ショックを受け病状は悪化となります。 その後も病状は回復せず永禄7年(1564)7月4日、43歳で亡くなりました。 三好長慶の死後 三好長慶の死後、三好義継が後を継ぎましたが、まだ若年であったため松永久秀と三好三人衆と呼ばれる三好長逸・三好政康・岩成友通が後見役と三好家を支えました。 しかし、松永久秀と三好三人衆は三好家の家臣であるにも関わらず、独自の働きを見せ永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝を殺害するなど行うのでした。 逸話 三好長慶は保守的で柔弱な性格であったという評価が多くされています。 その性格を表す逸話をご紹介いたします。 敵を徹底的に追い詰めない 三好長慶は長年、将軍・足利義輝と争っていました。 天文19年(1550)11月21日に勃発した中尾城の戦いにおいて、三好長慶は足利義輝と細川晴元を合戦で破ります。 敗れた足利義輝と細川晴元は近江国の朽木へと逃れました。 実際、 三好長慶は2人を追撃することができましたが、三好長慶は追撃を行わなかったとされています。 またその後、 5年間もの間も朽木を襲撃した形跡は見つかっていません。 このように追撃できるにも関わらず、追撃をしなかった理由として、 敵を徹底的に追い詰めない三好長慶の性格が反映されているとされており、織田信長のように徹底的に敵を追い詰める性格と比べると、保守的で柔弱な性格であったと評価されています。 家紋 三好長慶が使用していた家紋は「三階菱に釘抜」とされています。 もともと三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族であり、鎌倉時代初期、小笠原長清の嫡男・長経が阿波守護となり、その子孫が三好郡に住んでいたため三好を名乗り始めました。 三好氏が使用する家紋「三階菱に釘抜」は小笠原氏の家紋である「三階菱」と「釘抜紋」を組み合わせたものです。 「釘抜紋」は四国地方で多く使用されている家紋とされており、三好氏は小笠原氏の家紋である「三階菱」と四国地方で多く使用されている「釘抜紋」を使用することによって小笠原の流れを組む阿波国の武将であることを示していたとされています。

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