め組 の 辰五郎。 ふき(お芳)慶喜の関係は妾?妻?新門辰五郎娘お芳

め組の辰五郎(めぐみの たつごろう)とは

め組 の 辰五郎

喧嘩っぱやい江戸っ子たちが勢揃い。 もうそれだけで楽しい一幕 夜の部、おしまいの演目が『め組の喧嘩』。 市川團十郎と尾上菊五郎がそれぞれ、相撲取りの親方、鳶の親分となって登場し、文字通り真っ向対決の演目だ。 ちょっとしたトラブルがそれぞれの子分たちや家族を巻き込んでの大喧嘩に。 ずらりと並んだ鳶や相撲取りたちに客席が囲まれて、まるで江戸の下町の大喧嘩のその現場に居合わせたかのような臨場感がある。 そして歌舞伎の魅力もそこにある。 通称 め組の喧嘩 めぐみのけんか 本名題 神明恵和合取組 かみのめぐみわごうのとりくみ 作者 河竹黙阿弥 ほか あらすじ 正月、品川の島崎楼の宴席でトラブルとなった相撲取りと鳶。 相撲取りとの親方九龍山浪右衛門と四ツ車大八と鳶の藤松らが喧嘩になる。 鳶頭のめ組の辰五郎はその場を収めるが、後日芝神明の芝居小屋で喧嘩が再燃。 辰五郎は改めて、相撲取りたちと決着をつける決心をする。 兄貴分の喜三郎に後を託し、女房からも励まされ、ついに相撲取りたちと鳶たちの大喧嘩が始まる。 だが喜三郎の機転で無事喧嘩は収まる。 見どころその1 火事と喧嘩は江戸の華というが、江戸の風俗を100%楽しめるにぎやかな一幕だ。 大男で立派な相撲取りたちと、小柄でイキの良い鳶たちという組み合わせにワクワクする。 鳶頭の辰五郎はくり返し彼らの喧嘩を収める。 だがその分、腹に貯まるものもあっただろう。 「八ツ山下のだんまり」ではそんな辰五郎の様子が垣間見える。 そしてついに対決を決意する。 だが義理ある仲の喜三郎に喧嘩を止められてしまった。 逆に女房からは「だらしない!」となじられるのだから、さすが鳶の妻、恐るべし。 そしてついに辰五郎は立ち上がる。 女房が切り火をし、さっきまでの悩む辰五郎から、すっきりと生れ変わったような顔付で仲間の下へ駆けつける。 この細やかな気持ちの変化をお見逃し無く。 なんといっても楽しいのは大立ち回り。 鳶たちが花道や舞台にずらりと並ぶと壮観で口がポカンと開いてしまう。 江戸の町を相撲取りと鳶たちが大暴れ。 屋根の上での立ち回りや宙返りなど、ワクワクする大詰だ。 見どころその2 「だんまり」 何人かの人物が、暗闇の中で黙ったまま動く場面が様式化したものだ。 お互いに相手が見えないので、お囃子に乗ってゆったりと相手を探るように動く。 通常この場の出来事がその後の展開の発端となるから要注目だ。 五月は海老蔵、菊之助の『お富与三郎』も。

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辰五郎

め組 の 辰五郎

鳶だけで編成された町火消しは 1718年に大岡越前が定めたもの。 大火の多かった江戸の町「自分の町は自分で守る」と立ち上がった火消し団体です。 隅田川を境に西をいろは48組、東を本所・深川16組と分け、合計64の火消し組があったそうです。 もう一人の辰五郎は、1800年生まれ。 本名は 中村金太郎。 火消しになるきっかけは、煙管職人であった父の死。 自分の留守中に弟子が火事を起こしてしまい「世間に申し訳ない」と父は火の中へ身投げしたそうだ。 金太郎は、当時「浅草十番組を組」の頭であった、町田氏に弟子入りをします。 金太郎16歳の時です。 町田氏は、亡き息子の名前「辰五郎」を金太郎に与えます。 金太郎は、跡目としてすぐに期待された様ですね。 辰五郎が火消しとして最初に名を上げたのが、 1821年の花川戸の火事。 を組は一番に火事場へ駆けつけ、纏を揚げたのだが、遅れてきた大名火消しの横やりに会い、火事そっちのけで大喧嘩となってしまう。 大勢の怪我人を出した事で責任を感じた辰五郎、けじめをつける為に将監屋敷へひとりで乗り込みます。 その心意気がかわれ、責任は問われずに済むのです。 この話が江戸中に広まったそうな。 1824年、吉原の火事。 この時の喧嘩は、多くの組を巻き込んだ江戸最大の喧嘩となります。 その際も辰五郎は、喧嘩を仲裁し、さらに男っぷりをあげ、多くの鳶仲間から信頼を受けるようになります。 数年後、町田氏の娘と結婚し、24歳の時に「を組」の頭を継ぎます。 辰五郎親分の為なら…と命知らずの 子分が3000人 はいたという。 新門辰五郎と呼ばれるようになったのは、浅草寺、伝法院の新しい通用門の番人を任された事からです。 1864年、15代将軍・ 徳川慶喜 の警護、京都二条城の防火も任されます。 幕末の中、 勝海舟 との繋がりもあります。 勝と西郷隆盛との会談が決裂した場合、江戸市中に放火する役目を仰せつかっていたのが辰五郎らだったのです。 1868年、江戸城の無血開城。 慶喜とともに水戸から静岡へも同行しました。 1871年、慶喜の警護を 清水の次郎長 (当時50歳)に託し、浅草に戻ります。 明治4年、辰五郎70歳。 次郎長も勝海舟より信頼され、江戸城無血開城の陰の立役者のひとり。 勝から西郷への密書を届けたのが、勝の腹心・ 山岡鐵舟。 その護衛をしたひとりが、次郎長だったのです。 新政府軍の江戸城総攻撃が行われていたら、辰五郎も次郎長もその後はどうなっていたのやら…。 浅草の新門辰五郎、清水の次郎長…とくれば、 森の石松。 「江戸っ子だってね〜」の言葉は、辰五郎との関連があるのかもしれない。 祭り半纏の始まりは 火消しの半纏だったと聞きます。 半纏も纏と同様、組の馬印。 ひと目でどこの者かわかります。 さらに個人の身分もわかるようになっています。 火消し半纏は、腰の白筋数で組(地区)が、背中の文字でいろは(町名)、肩の赤筋と襟の文字で階級がわかります。 組頭・副組頭・小頭が肩に赤筋入り。 続いて、筒先・道具持ち(纏・梯子・刺股)・若い衆(手鳶・竜吐水)となります。 祭り半纏は、そこまで区別されていませんが、睦の役員は青年部などと呼ばれ、半纏の色や襷で区別する事が多いようです。 祭には、火消しほどの階級はありませんが、火消し組も祭り睦も、厳しい縦社会。 年齢に関わらず、上下関係はしっかりしていて、礼儀を重んじます。 町火消し誕生から昭和14年までの殉職者は120名だそうです。 以外に少ない!? 纏は、今でも消防士のシンボル。 弥生祭開催時の境内は、火消し装束を身にまとった鳶達でいっぱいになります。 (毎年5月25日、浅草神社にて) 新門辰五郎の七代目 杉林氏 現在、土木建築設計施行業の新門の代表取締役。 浅草寺、浅草神社御用出入りの看板を掲げている。 三社祭の宮頭。 多くのメディアに取り上げられている人物です。 神田祭の宮頭も同じく、江戸消防、第四区・五番組の頭が引き継いでいます。 江戸の華であった火消しは、祭りを仕切る頭になり、舞台は火事場から祭へですね。

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め組の喧嘩

め組 の 辰五郎

幕末の侠客・新門辰五郎が没 今日は何の日 明治8年 1875 9月19日 明治8年 1875 9月19日、新門辰五郎が没しました。 幕末の火消し、侠客で、徳川慶喜とも親交があり、大坂城から家康以来の金扇の馬標を江戸に持って帰ったことでも知られます。 辰五郎は寛政12年 1800、異説あり 、江戸下谷に煙管職人 飾職人とも ・中村金八の子に生まれました。 初名は金太郎。 幼い頃、火事で父が焼死。 一説に弟子の火の不始末が原因であったため、父は「世間に申し訳が立たない」と火の中に飛び込み自害したのだともいいます。 以来、火事が親の仇となった辰五郎は、16歳の時に浅草十番組「を組」の頭・町田仁右衛門の弟子となりました。 そして見込まれて、仁右衛門の亡き息子の名・辰五郎を称します。 火消しや喧嘩の仲裁などで頭角を現わした辰五郎は、文政7年 1824 、25歳の時に仁右衛門の娘・錦を娶って養子縁組し、「を組」の頭を継承しました。 また、町田の家が浅草寺僧坊伝法院新門の門番であったことから、辰五郎は新門辰五郎と呼ばれるようになり、浅草・上野界隈を縄張に、2000人ともいわれる子分を抱える侠客としての顔を持つようになります。 そして「粋で、腕っ節が強くて、気風がいい」と、江戸っ子たちから慕われる存在となっていきます。 弘化2年 1845 、火事の現場で「を組」の男たちが大名火消と大喧嘩を起こします。 相手方18人を死傷させたことで、辰五郎は責任を問われ、罪人として石川島の人足寄場に送られました。 しかし、辰五郎は瞬く間に人足をまとめ上げ、大火の火が寄場に迫った折には、人足たちを指揮して消火に活躍。 荒くれ男たちをまとめ上げる胆力があったのでしょう。 この働きが認められて赦免されます。 その後、上野大慈院別当覚王院義観の仲介で、辰五郎は一橋慶喜と知り合い、愛娘のお芳が慶喜の妾となりました。 元治元年 1864 、慶喜は禁裏御守衛総督に任命されて上洛すると、辰五郎を呼び寄せ、子分200人を引き連れた辰五郎は、京都二条城の警備などを任せられています。 慶応4年 1868 1月、前年に大政奉還を行なった前将軍の慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れると、将兵を置き去りにして、大坂城から抜け出し、江戸に逃げ帰ります。 この時、慶喜は城内に家康以来の金扇の馬標を置いたままでした。 これに気づいた辰五郎は、大混乱の中、馬標を城内から運び出すと、子分たちを動員して、新政府軍がたむろする東海道を突っ走り、無事に馬標を江戸城に届けています。 この時、「公方様が権現様の馬標を置き去りするたあ、あんまりじゃあございませんか」などと慶喜を叱ったりはしなかったのでしょうか。 侠客の辰五郎が、慶喜の出所進退をどう見ていたのか、気になるところです。 その後、慶喜が上野寛永寺に謹慎すると辰五郎は寺の警備を行ない、また勝海舟に頼まれて、もし西郷吉之助との江戸無血開城の談判が決裂したら、市民を避難させた上で江戸中に火を放つ手筈であったといいます。 明治に入り、辰五郎は慶喜に請われて旧幕臣たちが移住した静岡で暮らしますが、知己を得た清水の次郎長に慶喜の警固を託すと、東京に戻りました。 明治8年 1875 、最後まで幕府への義理を果たした辰五郎は、浅草の自宅で生涯を閉じます。 享年76。

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