明智 光秀 叔父。 明智光秀の叔父・明智光安!光秀を守り散っていた壮絶な最期とは?

明智光秀の家臣団を一覧紹介!山崎の戦いで敗北した最強明智軍の敗因

明智 光秀 叔父

幼い明智光秀に代わり、明智家の当主となる 以前、明智光秀のところでも書かせていただきましたが、明智家は美濃国(現岐阜県)の守護である土岐家の一族にあたります。 この明智光安とは明智光秀の叔父にあたる人物です。 光秀の後年に光秀を支える 明智秀満は、この明智光安の子供だと言われています。 光秀の話になりますが、光秀の父親は明智光綱という人物で、明智家の当主になるはずの人物でした。 しかし、1535年、明智光綱は当時土岐家で実力をつけていた に明智城を攻められて死亡したと一部の資料にはあるようです。 明智光綱は光秀がまだ子供の時に死んでしまったため、明智家を動かす人物が必要でした。 その人物こそが明智光安だったと言われています。 土岐家から斎藤家家臣へ 光秀の父親が亡くなった1535年、当時の美濃国はというと土岐家がまだ実権握っていました。 しかし、急速に土岐家家臣の中で頭角を現したのが斎藤道三でした。 斎藤道三に器の大きさを感じた明智家は、明智光安の妹であり、明智光秀の叔母さんにあたる小見の方を道三に嫁がせます。 そこで二人の間に生まれたの女性が、後に織田信長の奥さんになる 帰蝶(濃姫)ということになります。 また斎藤道三には息子が何人かいますが、その中で後の事件で関係する孫四郎、喜平次も小見の方の子供ではないかと言われています。 これらの事からわかるように斎藤道三と明智家は 外戚という血縁で結ばれることになったのです。 斎藤道三の息子の義龍と対立、そして・・ 1542年に土岐家を追放し美濃国の国主となった斎藤道三ですが、明智光安は土岐家ではなく斎藤道三に臣従します。 明智光安は斎藤道三と血縁関係を結んでいたため、斎藤道三には非常に信頼されていたようです。 斎藤道三には という長男がいましたが、義龍は土岐家の土岐頼芸の側室であった深芳野(みよしの)という女性が母親だと言われています。 斎藤道三の他の息子には、明智家の血筋を汲んでいると思われる孫四郎、喜平次などの子供がいました。 斎藤道三は土岐家と関係ある義龍より孫四郎、喜平次などの子を可愛がっていたようです。 そして、斎藤家が実権を握って14年後の1556年、事件がおきます。 長男である斎藤義龍が父親を不審に思い、 孫四郎、喜平次を暗殺してしまいます。 義龍は父親も討ち果たして斎藤家の当主になるつもりで兵をあげました。 対峙した斎藤道三と斎藤義龍でしたが、旧土岐家の家臣団を味方につけた義龍は圧倒的な兵で道三を討ち果たしてしまったのです。 明智家は外戚ということもあって道三側についてしまったので、明智光安もこの戦いで戦死したと言われています。 まとめ いかがでしたか? 確かに明智光安と言われてもぱっとしないかもしれませんが、光秀の人格形成をする上で非常に近しい人物であったのがわかると思います。 後の世の織田信長を支えた妻は明智光安の姪である帰蝶です。 また、明智光秀の叔父でもあります。 戦国時代後半の礎を築いた一人といえるでしょう。 今回は明智光秀の叔父であり、光秀に強い影響を与えた明智光安についてのお話でした。 また随時、大河ドラマに関係ある人物を紹介していきたいと思います。 ではでは~.

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明智光安の全てを徹底解説!明智光秀との関係や逸話・最期を完全網羅

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明智光安が明智城を守った 明智光安(みつやす)は1500年頃、美濃の長山城主・ 明智光継の3男として生まれました。 光安の兄・光綱 みつつな が、後に織田家に仕える明智光秀の父と伝わるので光秀の叔父さんです。 1535年、兄の明智光綱が討死(病死説有)したのを受けて、光安が明智家の家督を継ぎ美濃の明智城に入りました。 当時、兄の嫡男だった光秀がまだ幼かったため、 叔父の光安が光秀の後見人となり当主の代行をつとめたともいわれます。 でも、実際には光秀が成人した後も、引き続き光安が明智家の当主を続けていました。 それで、もともと光安が家督を継いでいたという説と、後見だが光秀自身が成人しても家督相続を遠慮していたという説があります。 そうこうするうち1547年に、明智光安は 室町幕府第12代将軍・足利義晴に謁見して、従五位下兵庫頭の位階を授かりました。 その後は、出家しています。 スポンサーリンク 明智城が落城し自刃 下剋上の申し子のような美濃の 斎藤道三が、次第にその嫡男の 斎藤義龍と対立していくようになりました。 実は明智光安の妹「小見(おみ)の方」は斎藤道三の正室(実質人質)だったので、当時、明智家は斎藤道三の配下にありました。 1556年、斎藤道三と義龍親子が戦火を開き、道三に従っていた明智城は 斎藤義龍とそれに加担する 稲葉良通らの攻撃を受けました。 明智光安は弟・明智光久や三宅氏、妻木氏ら仲間の氏族たちと共に、明智城に籠城して果敢に迎え討ちました。 でも、揖斐光就・長井道利らの攻勢は激しく、とうとう 明智城は落城し光安は自刃して果てたのです。 光安は最後に、 宗家嫡男の明智光秀を自分の息子・明智秀満に託して城から脱出させたとも伝わります。 尚、 光安の息子とされる明智秀満は、光秀の重臣「明智五宿老」の1人です。 「明智左馬助の湖水渡り」という勇猛伝説を残した人ですよ。

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【刀剣ワールド】明智光秀の年表|戦国武将

明智 光秀 叔父

明智光秀 十兵衛 諱の光秀は現在では馴染みのある名前ですが、諱は死者に贈る名前であるとして、光秀が存命当時、通常は通称の「十兵衛」の名前で呼ばれていました。 ) 戦国武将は、沢山の名前があってややこしいですね。 光秀の場合も同様で、元服するまでは幼名の彦太郎(ひこたろう)でした。 天正3年に朝廷より「惟任」 これとう と「日向守」 ひゅうがのかみ という官位を賜ってからは、光秀の正式な名乗りは、惟任日向守光秀になります。 光秀はこの肩書から、「惟任」 これとう 殿とも呼ばれていたようです。 明智光秀を簡単に説明 それでは、明智光秀はどのような人物か簡単に書かせていただきます。 享禄元年(1528年)、明智光秀は、 美濃の明智城主・ 明智光綱 あけちみつつな の子として生まれます。 しかし、光秀が幼い頃に父が亡くなったため、叔父・ 明智光安が明智家を支えたそうです。 弘治2年(1556年)、明智家の主君・ 斎藤道三 さいとう どうさん と道三の子・斎藤義龍との間で争いが起きます(長良川の戦い)。 この戦により、道三は亡くなり、道三に味方した明智家も攻められ、明智城は落城します。 明智一族は亡くなったり離散したとされています。 美濃を追われた光秀は、諸国を遍歴した後、越前・ 朝倉義景に仕えたと云われています。 また、朝倉義景の元に 足利義昭(あしかが よしあき)が身を寄せていた時期でもあるので、光秀とも面識があったようです。 足利義昭は、権威の失墜した室町幕府の再興を目指しており、将軍に就任すべく上洛を願っていました。 明智光秀は、足利義昭と織田信長の会見を仲介し、信長は義昭を擁して上洛を果たします。 織田信長 足利義昭の上洛には、光秀も加わっており、この時光秀は、義昭と信長、 両方の家臣であったそうです。 元亀元年(1570年)、以前の主君・朝倉家との戦である金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)には、信長方として出陣し、比叡山の焼き討ちにも従軍します。 こうした功績により、近江・ 坂本城主になります。 その後、織田信長と足利義昭は対立しますが、その頃には光秀は両方の家臣ではなく 信長だけの家臣になりました。 そして、信長と義昭の間で起きた戦に信長方として参戦し、信長方が勝利し、室町幕府は事実上滅亡します。 天正7年(1579年)、光秀は丹後国平定という偉業を成し遂げたことで、加増されて34万石を所領し、柴田勝家、羽柴秀吉ら信長の家臣の中でも織田家随一の重臣としての地位を確立します。 しかし天正10年(1582年)、本能寺の変にて信長と嫡男・織田信忠を自刃に追い込みます。 本能寺の変動機は定かではありませんが、織田家家中で織田家一族が重用されるようになり、光秀が危機感を抱いたとも、縁の深かった長宗我部元親が征伐されるのを防ぐためとも複数の説があります。 その後、本能寺の変からわずか11日後に山崎の戦いで 秀吉に敗れ、敗走中に自刃して果てます。 享年55歳。 明智光秀の略歴を補足 明智光秀を簡単に説明しましたが、特に、織田信長に出会う前の明智光秀の足取りは謎が多いです。 実は、生年、出生地、親が誰かすら諸説ある状態ですが、有力視されている説を記しました。 ですので、簡単に補足させていただき、気になる箇所があれば、詳しく書いた記事がありますので、クリックしてご覧ください。 簡単な略歴だけで良いという方は、ここまでで良いと思います。 光秀の父について諸説あり、中には明智家の生まれではないとする説もあります。 一番有力なのは、 みつつな 父説がで、母は まき です。 明智光綱の嫡男だとすれば、光秀は名門・の庶流・明智家の出自です。 出身地地は、岐阜県 美濃 、、、など5か所以上も候補地が挙がっています。 またも不明です。 若い頃、に巻き込まれ、は落城しますが光秀は明智家の再興を目指し逃げ延びます。 一家離散と云われていますが、従兄弟説のあるは、光秀と行動を共にしていたと伝わります。 その後、は、疑問視されていました。 しかし、最近新たな史料が発見され、越前・の家臣説は真実味帯びてきました。 朝倉義景 また、その新たな史料によると、光秀が越前にいた頃にと考えられる記述があり、美濃を追われ牢人 浪人 時代に牢人医師をしていたのではないかとする説もあります。 生活費の足しにしていたそうですが、越前にいた頃は貧しく、お金に苦労した話は妻・ ひろこ の逸話からも伝わっています。 越前では朝倉義景の家臣 又は身を寄せていた だったようですが、後に義景の元を離れます。 一説には、を擁して上洛をしない朝倉義景に愛想をつかしたとも云われています。 その後、足利義昭と織田信長両方の家臣になり、後に織田信長だけの家臣になったそうです。 足利義昭とも関わりのあった光秀ですが、本能寺の変の動機は義昭を天下人に据えるためとする説もあります。 足利義昭 信長と出会った頃から光秀の足取りが見えてくる史料がありますので、現在の通説は史実に近いものかもしれません。 しかし、光秀を引き立ててくれた信長を討った本能寺の変については謎だらけです。 など動機は様々囁かれていますが、動機は一つでなく、複合的なものであったのではないかと推測しています。 その中でもは、本能寺の変の一因に思っています。 また、裏切り者のイメージのある光秀ですが、など光秀が治めた地では、現在も慕われており、善政を敷いた良心的な光秀像が思い浮かびます。 光秀の最期は、秀吉に敗れ坂本城で落ち延びる途中です。 通説の農民の竹槍によって重症を負ったとする説には違和感がありました。 光秀ほどの武将を武装した農民が、しかも 竹槍でですよ…。 光秀亡き後、明智秀満 明智左馬助 、(あけち みつただ)、(みぞお しげとも)、、など重臣達も自害したり、捕まったりし果ててしまいます。 光秀は敗軍の将ですので、信頼のできる史料が少ない人物ですが、大河ドラマの効果でしょうか、少し研究が進みましたね。

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